第二回 当日十月一日

 遅くに起きて昼食はふつうに食べた。
 (以下の記述はすべて本人の記憶にない。昼食を食べたかどうかもはっきり憶えていない。)
 すでに、午前中に行こうと思っていたレンタル屋の返却を忘れている。延滞金を腹立たしいほど取られた。
 一時ごろ家を出た。いつもと同じ時刻。
 東西線に乗ったと思われる。推定が入るのは、点と点を結んで一つの結論が見出せ、他の可能性は退けられるという意味である。
 授業に二十分ほど遅刻。いつもなら二十分は前に着くはずだから、どこかで寄り道があったらしい。どこで何をしていたのかはわからない。それでも講義の参考資料は二種コピーしている(これは後でカバンを調べてわかったこと。コピーしただけで配っていない)。教室に行く途中の廊下で顔見知りの大学職員とすれ違っているが、相手のあいさつにまったく反応しなかった。「外界」はすでに無意味になっていたのだろう。
 授業も異様だった。この日は課題レポートを集め、次の創作課題のための説明を少し長めにする予定だった。少々時間がかかっても小説らしいものに取り組んでもらいたいというこちらの希望も伝えるつもりだった。話のもとになる覚え書きはノートにメモしてある。これを元にしてしゃべる。いつものことだ。ところがこの日はメモをまるきり無視していたようだ。資料も配らなかったわけだし、話す予定とぜんぜん違うことが頭を占領していたのだろう。病気が言わせたことといっても、内容はまるで残っていない。
 聞かされたほうこそいい迷惑だったろう。しかし授業の証言はここにいた人たちからなされ、まわりまわってこちらの耳に入ってきたわけだ。わたしは長いこと言葉がつまって奇妙な症状を呈していた。用意してきたことを無視したのだからこれは当然だろう。それ以上に、失語への恐れに包まれていたみたいだったという。これは観察者の主観もあるだろうし、微妙な問題だ。けれどもまわりから見てはっきりわかる恐怖の症状をこのときの自分が表わしていたのかどうかということは興味がある。
 長く言葉につまって苦労したあと、急に奔流のようにしゃべり出した。つまった分だけ勢いもすごかった。いつものしゃべり方ではない。いつもはそんなに流れるようにしゃべれない。内容は脈絡なし。おまけに時間になっても終わらない。ベルが校舎に鳴るわけではないから、いつもは時計を見ながらエンディングは調節していく。その配慮はまったくなしでしゃべり続けていた。すでに発作状態だったのだろう。サングラスをしているせいで目付きが正常でなくてもわからなかったのかもしれない。
 しゃべりやめないのでレポートだけ提出して学生は退席していく。いわば見捨てられた格好だ。通報も考えたが覚醒剤をやっている可能性も鑑みて遠慮したという声もあった。まあ、それほど異常な様子だったのだろう。
 他人事としてシーンをイメージしてみると、なかなか面白い場面だ。常軌を逸した行動をとる講師というのは学生にとってどんな脅威なんだろうか。あるいはたんに困った塵埃のようなものにすぎないのか。とはいっても、学生諸君のドライさを責める気持ちはわたしには毛頭ない。まだ自分の足で立って動いていたのだから、自分の行動には最後まで責任をとって当たり前だろう。
 この時点で病院に放りこまれていたら、早急な回復につながったのかどうか。どうともいえない。もし手遅れになっていたとしても、だとしたら、それこそ本人がとやかく言いたくても言えない状況になっているから、ここで問題にしたって仕方がない。シャブ中にされた笑い話で済ましておけばいいことだ。
 結果論からみれば、順次ここで書いていくことでもあるが、発病は自業自得で仕方がないにしても、治療を受ける側面においてずいぶんとわたしは強運だったと思っている。じっさい授業が終わった時点で、倒れる二時間前だった。キャンパス内で力尽きなかったこともその流れのなかに位置づけるクセになっている。「あの時こうしていたら」とかいう考えはあまりに面倒なので受け入れられないのだ。
 授業の終わりが四時。ここからの行動も空白だ。証人がいない。レポートはきちんとカバンにつめた。
 ふつうなら真っ直ぐに帰るのだが、逆向きの方向に(あるいは別の交通手段に)乗ったらしい。この空白は推定で埋められない。カバンのなかに都電の路線図が入っていたのが少ない手がかりだ。だがじっさいに都電に乗ったのかどうか確証はない。二時間ほどの時間が真っ白だ。
 雨が降っていた。
 倒れたのは八丁堀のビルのなか。
 点と点はつながらない。どこをどうしてそこまで行き着いたかは不明だ。酔っての徘徊癖については『煉獄回廊』の17章あたりに利用した体験があるが、あれはほんの一時期で悪酔いしたときだけだった。あれにはほんとうに参った。再現したとは驚きだった。恐怖すら感じた。
 ビルに入る前に傘とカバンを落としている。カバンは親切な拾得者にとどけてもらって無事だった。ビルの8Fに上がった。その会社の営業部長氏となにやら話しこんだ。どうしてそのビルのその会社を選んだのか、その相手と何を話しこむことがあったのか、まったく見当がつかない。異様な「授業」をしたのと同じような理由か。初対面の、それも専門も違う人と話題がかみあったとは不思議だ。しかし話をしていたという事実が幸いしたのだ。そこでついに(やっと、というべきか)身体がノウを表明し、わたしはぶっ倒れた。その前から意識障害に囚われて記憶がないのだから、主観的にいうと、この倒れるという症状は、他人が思うようには自分のなかで非連続とは感じられないのだ。そこではじめて病人になったと認知されるのだから勝手なものだが。
 このように「他人まかせのエゴのふるい放題」というのが、とにかくこの病気の本質だ。意識が喪われているという側面においては、病状はすでに起きたときから始まっていた。ぶっ倒れて完全に自分の肉体までもコントロールできない状態になって初めて病人としてアピールすることになったわけだ。
 話しこんでいたおかげで通報してもらえた。外の舗道で倒れていたとしたら、通行人はみな無視して通り過ぎて行っただろう。わたしの場合は屋内に入り、相手を捜していたようなのだ。これは生き延びる本能みたいなものか。救急車を即時呼んでもらえた。
 救急外来の行き先が決まって、救急車から家に電話が行ったのが六時五十分。晩飯のはじまったところだった。
 わたしの身分証明書のたぐいはたいがい財布に入っている。早稲田大学の講師証と文芸家協会および推理作家協会の会員証などなど。すべて野崎名だが、電話は自宅につながる。別のケースに入れているマネーカードだけが本名だ。これは後の話だが、わたしの患者としての先入観は病状は別にして、早稲田の先生という事実になっていた。医師の先生も看護婦さんも助手さんも、そこから話題をはじめてくる人が多かった。奇妙な病気と職業とが結びつけられたのだろうか。
 救急外来の長い夜が始まる。
 それも当人にとっては記憶の欠落した時間の一部にすぎないのだが。
 この病院にいたのは一日だけ。
 寝ていれば激しいイビキ。起きれば虚ろな目付き。意識は彼方にある。症状はたちの悪いものだった。
 この夜の救急外来は混雑していたにもかかわらず、担当医は適切な処置をしてくれた。まずは最初の幸運という。
 病名は(後で確定する)ウイルス性髄膜脳炎。次の日に同じ日大系の板橋病院に移される。神経内科および脳外科では評判の高い病院だ。これが第二の幸運という。

to be continued