第三回 板橋日大病院へ

 診断によれば、見当識障害。全身性の痙攣と重度の昏睡状態が出現している。
 抗生剤、抗ウイルス剤が点滴によって投与された。
 同時に糖尿病も診断されている。血液中の糖分を計る血糖値とは別にヘモグロビン・エーワンシー(HbA1 c)という測定がある。赤血球のなかのヘモグロビンにブドウ糖が付着する割合を計る単位だ。全ヘモグロビンの4〜6パーセントが正常値。赤血球の寿命は約四ヵ月なので、これを測ると一〜二ヵ月前の平均血糖コントロールの状態がわかる。わたしの入院時は、これが9パーセントに達していた。前記の点滴に加えて血糖を下げるためのステロイド剤も投与される。ウイルスに感染したのは糖尿病による体力低下からくるものと思われる。糖尿病がわりと最近の急性に近いものか、もっと以前からの慢性のようなものかわからない。疲れやすいという自覚によれば、それはここ一、二ヵ月の症状だ。しかし自己診断ほどいいかげんなものはないと痛感させられた身にとっては、急性を主張するほどの自信はない。とにかく、脳をウイルスに侵略された一方で、「不治の病」にかかってしまったことだけは間違いないのだ。
 脳炎の治療に加えて、糖尿病からくる合併症(名高い恐怖の三大合併症)の検査も並行して行なわれていくことになる。

 この日一日は昏睡がつづく。
 以下の記述もあとからの復元である。
 午後六時半、駿河台から板橋病院に転院。搬送車のストレッチャーの上で暴れた。
 病室は5AのHC。ナース・ステーションの続き部屋。仕切りはあるが、出入り口は開いたまま。重症患者用のベッドだ。
 二日付けの入院診療計画書の症状欄には、意識障害としか書かれていない。病名欄には「脳炎の疑い、代謝性脳症の疑い、糖尿病」。明確なのは、糖尿病だけだ。困ったね。
 全身性の痙攣だけではなくベッドの上でも暴れていた。足などは痣だらけになった。以後、二週間おなじみになる腰ベルト、両手首固定帯、両肩および両足首をベッドに縛りつけるごつい布帯が欠かせなくなる。それらの一部もしくは全部によって、仰向けに固定させられたのだ。
 四十度近い熱が出る。座薬を入れるが熱は引かない。身体のまわりを氷枕で埋めつくす。幻覚はこの時点では起こっていない。「在った」のかもしれないが、少なくとも本人の記憶に引っかかるかたちでは残っていない。ウイルスが我が物顔に荒れ狂っていたのだろう。特殊ではあっても、脳炎の昏睡状態としてそれほど類をみないものではなかったのだと思える。
 千住に住んでいる兄夫婦が来てくれた。兄夫婦には、この期間、言葉に尽くせないほどの世話になった。
 脳炎の症状ともっと重度の脳卒中の症状とが、ざっと見た目(専門家ではない目)にどう違って映るのかわからない。似たように見えるだろうし、とくに近親の者が悪い方に悪い方にと受け取ってしまうのは仕方がないだろう。わたしの昏睡状態がより重病のほうへと想像力を掻き立てたことは無理がないと思う。常識に照らせば、わたしは死地をかいくぐったことになる。「もう一つの命」をもらったということだ。わたしにはよく理解できないけれど、生命を看取ることになったかもしれない者にとっては、そう考えざるをえないのかもしれない。この点、わたしの主張できることはゼロだ。だから想う――。まわりを騒がすだけ騒がしてケロリと快癒してしまった男の発言としては「イイ気なもんだ」と言われそうだが、今回のことはわたしの病気を求心点にして、わたしの家系を再統合する出来事に発展したような気がする。「求心点」「再統合」などと故意にずれた用語を使ってみたのは、そのまま語るのが気恥ずかしいからでもある。ともかく言えることは一つ――わたしの病気がなければこの出来事もなかったということ。主要には、これはわたしと兄とのあいだに起こった。一言でいえば「和解」である。それも、わたしがつとに忌避しつづけてきた近代日本文学の本流であるところの、志賀的な、そして俗流ホームドラマ的な「和解」。
 奇病とはいっても、外に表われる症状から身近な者が受け取るのは、より重い病気への想像になるだろう。脳の疾患といえば、わたしの近親の者が当然に想い起こすのはわたしの父親のことだ。想うな、というほうが無理なのだ。1955年9月23日、父親は倒れた。昏睡状態で失禁し、家の布団に寝かされた。医師は近所の町医者が往診で来た。結果からみれば、重い後遺症を背負ったまま以降の二十五年間(倒れたときまだ四十歳だった)を「生きた」。今考えて容易にわかるのは、早期治療が適切でなかったということだ。そのため、右半身不随(筋肉は死に絶えていた)と言語障害(何をしゃべっているかほとんどわからない)をずっと引きずることになった。その年いっぱいは近所の小さな病院に入院していた。わずかに伝えようとしてきた「兄弟、仲良くしろ」という一言ですら発音からはまったく聞き取れなかった。おやじが退院してくる時には、兄弟は離ればなれになっていた。
 わたしは意識下で、とくに四十を過ぎてから、常に「彼」のようになることを怖れてきた。怖れは予防の助けにならず、自分が自ら「彼」の病状をなぞってしまったわけだ。その致命的な失策については言い訳の言葉もない。「実物」を見せられた近親の驚きや苦しみはいかばかりだったろう。それを想うほどに、わたしは「和解」を受け止めることの重さに粛然とせざるをえない。
 わたしのような病人を取り囲んで、家族というか、家族とは別のところにあるうちの家系が一つになったのだ。
 観方を変えれば、この一つになるという事実があったからこそ、わたしは何の後遺症もなしに「生還」できたということになる。今のところこうした観点を充全に受け入れることは難しいけれど。
 といって、信心めいた非合理な解釈をすべて退けることもまた難しいのである。

to be continued