第六回 十月七日〜九日 病状悪化の道

 七日、世の中は日曜日。三時にJが来たときテレビルームにいて、驚かせる。勝手に歩きまわってはいけないと言われていた。
 記憶はまさに「まだら模様」だ。
 本とCD、ディスクマンを受け取る。原稿用紙、筆記用具はもらえなかった。「書くことは検査の後にする」と約束させられる。約束させられたシーンは残っているけれど、それが何日のことだったかは憶えていない。書く手段を閉ざされた格好になったのは非常に不本意だった。
 本は、十日、十一日シメキリの書評本と、十五日シメキリの朝日トリケラの未読の二冊、計五冊。「何もすることがない」入院生活のなかでなら軽く消化できる分量だった。と計算した。心身とも正常に活動していればの話だが……。
 客観的にどう見えようと、主観的には、仕事こそ最良の「治療」と身勝手に思いこんでいた。べつに仕事が好きで、仕事をそれほどしたかったわけではない。「攻撃が最大の防御」と信じるように、病気を追い出すための手段として仕事を利用しようとしただけだ。
 結果は、言わずもがな。ウイルスにいっそうの活動を許してしまった。
 7B病棟の個室の窓からは、正面に新宿が見えた。左手には池袋。
 面会時間きっかりに帰るJに淋しそうな様子を見せた。
 一人の時間に「読書」を始める。
 八日、世の中は祭日。兄夫婦が来てくれる。
 目の焦点が合わず、手もふるえている。
 立ってトイレに行こうとする。尿管がつながっているから、小水はトイレに行く必要がない。そのことを何回となく説明されるが、納得がいかないのだ。
 Jが帰るさい、もっと側にいてほしい顔をした。
 食事のとき手がひどくふるえ、老人食のような「おかゆと刻みおかず」をスプーンで口に運ぶのすらままならない。恥かしい。口にちゃんと入らないでこぼれたりするので苛つく。食事のたびに恥辱感と苛立ちが募る。食べ終わると重労働を済ましたような感じになる。そのくせ満腹感にはほど遠い。
 九日、午前中、脳波の検査。午後、MRIの検査。夕方、検診。
 手のふるえがひどい。
 J、病院泊まり。
 夜はよく眠っている。
 この三日間で、自分一人の時間がどのくらいあったものか。それを「読書」につぎこんでほぼ二冊読みきった。内容はまるで消え失せている。読むそばから砂がこぼれていくように亡くなっていった。読んだとはいえないし、読める状況でもなかった。止められたけれど、耳を貸さなかった。内容がハードすぎたかとも思えるが、責任転嫁みたいだからその点は考えないでおこう。「読んだ」こと自体が病状を悪くさせる引き金になったのだ。
 それまで治療という点では快方に向かっていた。検査の数値もよくなってきていたし、全身痙攣も重度の昏睡もみられなくなっていた。
 それが次の日、一気に逆もどりしてしまうのだ。医師は急激な変調に首をひねる。たしかにそれは医師の関われない領域にあったと思う。「今だから言える」ことの類いだけれど、悪化させた張本人はわたし自身に違いない。つまりそれは、今回の病気がウイルスによってのみ引き起こされたものではなく、多少ともわたしの精神的な「異常」にも因っていることを意味する。神経内科のエキスパートの手に負えない部分もあったのではないかということだ。
 治療グループの一人のT医師――彼はグループのなかでいちばん波長が合わなかった先生だが――は、「特殊な仕事をしている人は特殊な病気にかかる」という意味のことを言ったらしく、神経科の医者なのに「ものの言い方を知らない人だ」とJを憤激させた。
 けれどもこれは最も正直な感想ではないかという気がする。さらにいえば、これが最も真実(医学の合理性ではけっして解くことのできない真実)に近いのではないかとも思う。

to be continued