第十一回 十月二十一日〜三十日 大部屋から退院へ

 二十日に大部屋に移った。ふつうの病人である。
 日曜日、子供が面会に来る。下の二人。
 夜の部の点滴が負担だ。寝つきが悪くなる。悪夢につながる怖れがあって、眠ることを厭う気持ちが強まる。
 じっさい同様の悪夢はなんども訪れてくる。いままでの生の断片、いくらかの恐怖、狙われている感覚……。要素は同じだ。これは結局、病院という悪環境がもたらすものだ、と自分に言い聞かせる。不快な被害妄想型の悪夢は目覚める前の日課のようなものになった。毎朝だから、しだいに慣れていく。何より、現実との境界が明確にあることで救われている。夢を見ている自分が別にいるという意識が確固としているので恐怖にも歯止めがある。
 二十二日、髄液検査。三度目。
 S氏、面会。
 二十四日、朝から採血、八回。
 午前中、脳波検査。
 髪の毛だけシャワー。何日ぶりになるか。介護なしの入浴はまだ駄目ということなので、シャワーだけにした。
 糖尿病の栄養教室。時間と会場が違っていたり、病院内の連絡が悪い。基本的な資料である「食品交換表」を購入する。
 A氏、面会。
 リハビリ科から先生が来診。これもいちど必要なしと言われていたのに、呼び出しがあったらしい(栄養教室に出ていて、病室にいなかったので聞いてない)。連絡の不備が重なる。
 生還後、初めての本を読む。
 きわめてあたりさわりのないミステリ。ずいぶん時間がかかったが、とにかく読めた。主人公が入院するところに共感できた。――いつもならやらない「読み方」だ。
 退院後の生活設計で不安を感じる。主として食事制限のことから。
 「食品交換表」を手にすると、だれでも気分が重くなるのだろう。
 ゲラチェックの仕事を病室ですること、先生の許可をもらう。
 二十五日、H看護婦さんがミステリ・ファンだと聞く。わたしの名前は知らないよな。「センセイジュツ殺人事件」の漢字をすぐに思いつけなくて悲しくなる。入院前の記憶が泥沼に埋まっているような感じがしていた。だんだんと解除されてきたが……。
 レントゲン撮影、腹と胸。
 I氏、面会。
 K氏、面会。というよりゲラを持ってくる。最後の念押しチェック。かなり作業の軽減をはかってくれたようだ。
 兄、来る。十五日以来だから、順調に回復しているのを喜んでくれる。
 見舞いの手紙が届く。
 少し読書。
 同室のC氏と話す。同じ日に大部屋に入ってきた人。わたしよりだいぶ若い三十代。病気が同じウイルス性脳炎であることを知る。彼は風邪のウイルスから発病したという。大部屋にくる前は7Aの拘禁病棟にいた。七階はA棟とB棟があって、A棟は全室隔離病棟だ。わたしも空きがあれば、そこのお世話になったのだろう。彼の病状を聞いていて、症状が似ていることに驚きを持った。昏睡と全身の痙攣などは外面的な症状だから似ていても当たり前だろう。驚いたのは、幻覚領域で起こったことも似たような錯乱だったからだ。幻覚のなかで一つの物語を組み立て、それを体験すること。およそ日常性とはかけ離れたドラマにおいて、中心は自分であること。
 わたしは幻覚をふりかえって、それを自分がたずさわっているフィクションと切り離すことができなかった。終わりのみえないストーリーに、己れの創作からくる業のようなものを感じずにはおれなかった。しかし――。
 しかし、彼の体験した幻覚も同様のストーリー性を持ち、自分に対する脅迫性を備えていたことを知ると、わたしの思いこみがいかにあてにならないものであるか痛感させられたのだ。彼は仕事に関しても、ごく普通の職業人で、妄想と親しいようなタイプではない。そういう彼と特殊なわたしとの症状がよく似ていたのだ。これはわたしの症例の特殊さとは逆のことを証明しているだろう。
 つまり――幻覚のおおかたはウイルスによる脳の炎症が引き起こしたものなのだ。
 彼の見たストーリーはそうとうに突飛なものだったが、それを構築したのは彼個人ではなく、ウイルスだということだ。それはわたしにも共通するただの病状なのだ。――そう納得できると、わたしは非常に楽になった。わたしは特に異常な患者ではなかった。ウイルスのなしたことについて自分が責を問われる必要はない。憶えている幻覚のすべてについて想い悩むことはないのだ。
 C氏はわたしより早く入院していて、早く退院していったが、期間はやはり一ヵ月だった。細かいことをいえば、わたしより回復に手間どっている機能もあるようだ。同じ病気の人と話ができたことは有意義なことだった。
 大部屋の他の人は、どこが悪いのか見当もつかなかった。隣のベッドの人は耳鼻科のほうがふさわしいように思えた。しかしじっさいに、「ここがどこか」わからない病状の人がいるのには驚いた。毎日同じ質問をされて、答えられないのだ。
 二十六日。朝早く目覚めて、六時にテレビルームでニュースを観る。食後に廊下を歩く運動(べつのフロアに行ってもいい許可が出たのはやっとこの日)など、生活リズムができあがってくる。
 午前中、入浴。湯船につかる許可はまだ出ない。それと看護婦さん立会いだ。
 午後、ゲラチェック。
 そのさいちゅうにリハビリ室から呼ばれる。やらされたのはありふれた運動だ。リハビリ科での体験は不気味だった。とくに「来週も来なさい」と言われたのには困った。来週は退院のカウントダウンになっているのに……。
 二十七日、朝、病院のポストからゲラを送付。体重まだ五十四キロ。
 昼前、栄養個人指導。気分は上向かない。
 F氏、面会。
 T氏、面会。
 大学のことは代理の講師を手配し、何の心配もないと保証された。
 二十八日。朝、二度寝して、かなりダメージのきつい悪夢に襲われる。汗もひどい。
 夢のプロットはどうしていつもこう俗悪なのだろうか。そしてそのシーンはどうしてこうも生々しいのだろうか。
 短い国産ミステリばかり読んでいた。それが、判で押したように不倫の話。当然、当事者同士が殺し合うという展開になって、どれがどうだったか区別もつかなくなる。夢のプロットはその流用で、中心人物はわたしだった。慚愧の念をいくら絞りつくそうと間に合わない。
 起きてからの体調にも影響してくる厭な夢だった。
 血糖値191。起きぬけの食事前にしては異常に高い。
 運動に、階段の昇り降りの往復を増やす。後で増やしすぎたかと悔やむ。
 午後、テレビルームで『フレンチ・コネクション2』を観る。マルセイユの風景とフェルナンド・レイ。
 二十九日、夢はまだ追いかけてくる。
 午前中、腹エコー検査。
 昼過ぎ、内科外来、糖尿病の検診。
 明後日の退院決まる。
 結果として、入院中、これ以上ないくらい念入りに精密検査を受けたことになる。肝臓、膵臓、腎臓なども異状なし。
 問題は「不治の病」糖尿病だ。
 三十日、悪夢は相変わらず。
 午前中、書評原稿、書いてみる。二枚。この程度なら無理なくできるようだ。
 午後、リハビリ室に呼ばれる。仕方なく付き合う。
 Y氏、O氏、面会。
 流行作家のY氏はNYから戻って間もない。「明日、退院です」と言うと、「そういう幻覚に嵌まってないか、よく目を醒ませよ」とブラックなジョークをのたまう。
 間違いなく、明日、退院である。
 しかし……。
 これがすんなりといかなかった。別におっさんのジョークが効いたわけじゃないが……。とにかく一波乱あったんである。無事、退院する前に。

to be continued