百鬼園絶唱

 灰色のノオトをしまい忘れた場所から出してこなくてはならない。

 灰色のノオトの一頁に書きつけておいた夥しい断片の一つに、内田百間「残夢三昧」の一節があった。
 百間のケンは「門がまえ」に月なのだが、機械では出てこないため、日で代用。



 百間の「冥途」は、たしかに68年5月に読み、灰色のノオトは70年頃のものだから、そこから逆算すれば、「残夢三昧」はオリジナルの初出(雑誌でなら68年の12月、単行本でなら69年の11月)で読んでいたことになる。これは発見にも近い記憶の復元だった。百間はおよそ成熟とはほど遠いタイプの文学者だったが、「作家は処女作に向かって出発する」という言葉のごとく、最初期の「冥途」と晩年の「残夢三昧」は見事なシンメトリーを、百間の文学的生涯に刻みつけている。
 元も子もない言い方をすれば、百間の文業は近代文学の範疇には入らないとも考えられる。それなら何かといえば――言葉を卓抜にあやつる「芸人」である。芸人といっても、芸術家に比較して劣等という意味ではまったくない。むしろ価値判断としては似非芸術家よりも数段上等だということになる。ただ百間が近代人の苦悩を背負う文学とは異質の存在だったことを示すだけである。
 まあ、そんなことはどうでもいいが、「冥途」とその約五十年後の作品である「残夢三昧」とのつくる不可思議な対称形について、わたしはかなり早い段階で直観していたようだ。百間の他の著作にはまだ接していなかったし、二十歳そこそこの受容としてはなかなか優秀でないこともない成果といえようか。

 ――夢と現実との境界への過敏な受感、その境界線をまたぎ越してくる者への絶対的な愛惜。
 無粋ながら、二作品の共通項を便宜的に図式化すると、こうなる。
 愛惜は初期作品においては父親、晩年の作においては失踪した飼猫ノラにシンボライズされている。どちらにも向けられる果てしない哀しみ。シンボライズという用語には説明が必要だが、ここでは省く。活字にする時もう少し精密化したい。

 灰色のノオトの一部は喪くしてしまった。
 わたしのなかの百間もどこかに遭難していった。
 講談社版の百間全集の日付をみて胸を突かれた。72年から73年。まず絶対に百間など読めなかった時期だ。

 わたしが後に愛読することになる百間作品は、文庫本の『ノラや』『御馳走帖』『東京焼尽』三冊。

 そのうち『ノラや』だけが捜しても手元にない。それがかえって『ノラや』には、ふさわしい書物の運命のようにも思える。
 そこに書かれる百間の体験は、ごくありふれた老人性のペットロスト症候群だが、『ノラや』一冊にあふれかえる哀しみの総量は決してそんな出来合いの言葉では収まりきれるものではない。
 今朝の覚め際の夢に、隣りの番町学校の塀に寄せて立てたうちの忍び返しのこちら側に、明るい毛色の猫がゐる。そこへ猫がゐられるわけはないが、ゐた。ノラだと云ふ事に疑ひはなく、うれしかつた。(ノラ123日の日付)
 滂沱たる涙。
 そこには演技(常人の見慣れた私小説的な演技)の一片も混じってはいない。この純粋無垢には、どこか人を畏怖させるに足る「観念」が充満している。
 しかしこの哀しみを、たんに愛猫一匹の失踪にたいするものではなく、もっと巨大でユニヴァーサルな喪失感をノラという「人格」に仮託されたものと解釈するなら、百間文学全体の仕組みは大まか理解できるように思う。
 ノラやノラや、今はお前はどこにゐるのだ。
 この嘆きに呼び寄せられてくるのは、作者の父親であり、早世した息子久吉であり、親友の宮城道雄であろう。宮城の死について、百間は最高傑作「東海道刈谷駅」はじめ多くの文章をものしているけれど、息子については「蜻蛉眠る」のような半端で不出来な小説しか書いていない。おまけにそれは古川ロッパ主演の映画『頬白先生』に材料を提供するという結果まで招いた。一見する百間の息子への冷淡さと飼猫への愛惜を比較してみると、どうしてもそこに目が向いてしまうのだが、異様にすら思えてしまう。
 「蜻蛉眠る」の背景にあるのは、借金による家庭崩壊が息子の死によってさらに加速するという、私小説作家ならヨダレを流して擦り寄っていくだろう「悲喜劇」である。この切実な題材を百間は扱いかねている。こうした極限状況において赤裸々な自我を人目にさらすという作法が合わないのだ。
 作家は猫にのみ悲嘆を集中したかにみえるが、じっさいはそうでない。ノラのうちにいっさいの哀しみを昇華させようとしたのだ。文学観・世界観の問題として選び取ったのである。
 「冥途」に初めて定着された、現世と幻想とがどうしようもなくずれていく疎外感、生まれながらの喪失感、不条理に迫りくる実存への哀しみなどの、百間文学の主調低音は「ノラやノラや」という執拗な低声に転位していった。
 転位して「残夢三昧」のなかにふたたび宿ったのである。文学的完成などといっては月並みすぎるが、見事なシンメトリーがそこには認められる。
 止んぬるかな。見のこした夢、残んのまぼろし。
 終わりつつある一生をかえりみるとき心にかかる無念が、このように、見残した夢・夢の残りであるという精神風景は心をうつ。夢の残りが訪れ来たり、そして彼の生は夢に向かって閉じられて(解き放たれて)現世としては区切りをむかえるであろう。

 次の、川端康成の一節もまた、わたしが親しく書き写していたものだ。
 「ノラやノラや」に饗応していたことはいうまでもあるまい。
 あなたは何処にをいでなのでせうか。
 君が汽車の窓から何心なく自動車を見るとそれが愛人の葬列であつたりするのだね。


 つまりそうしたことを――灰色のノオトの頁は探り当てていたのだった。