プロレタリア文学が遺したもの

[その定義] プロレタリア文学とは、無産者・労働者の文学。戦前の日本社会のなかで、反天皇制・反軍反戦・反資本主義などの主張を前面に押しだした。社会のなかの個人という観点を近代小説に引きいれた。
 一方で、作品を書くことが結果的に、生命の危険をともなう行為となり、強権的に圧殺された。《われわれは何故このように昭和の奇怪なる「××」を読まねばならないのか》と川端康成がいったように、伏字がその戦闘性を物語っている。そして、正義の観念、モラリズムの旗印がそこに付随した。

[沿革] プロレタリア文学の時代区分については諸説がある。@大逆事件後の大正期から始まる「前史」、A関東大震災後から一九二八年あたりまでの前期、B一九二九年から三三年までの最盛期、C後期――転向と冬の時代。四期に分けるのが、最も一般的だろう。
 AとBをまとめて、葉山嘉樹の登場から小林多喜二の虐殺死までの七年間を、特別に「プロレタリア文学の時代」と理解すればわかりやすい。とくに小林は、運動の嵐のような急進的部分を一身に象徴したかのような、強固に倫理的な軌跡を遺した。死後の〈神格化〉は文学にとって望ましいことではないが、英雄をつくったのはむしろ弾圧の時代そのものなのだ。
 葉山の最も有名な初期作品「淫売婦」「セメント樽の中の手紙」『海に生くる人々』は、プロレタリア小説をたんに労働者を描いた読み物から文学へと飛躍させた。雑誌『文芸戦線』は、葉山の登場をきっかけにようやく広範な読者層をつかんだ。いわゆるブルジョア文壇も葉山の文学性を無視できなかった。だが重要なことは、葉山がそれらの稿を獄中で書いたという事実だ。
 葉山は、あまり成功していない長編『誰が殺したか』で、「わが子を餓死させた」体験を描いた。同様の極限体験は、平林たい子の初期作品「投げすてよ!」「施療室にて」「殴る」などにも現われる。『文芸戦線』は、この二人をはじめ、多くの労働者出身の書き手を輩出させた。
 銘記されねばならないことだが、プロレタリア文学の時代の蔭の忌まわしい〈主役〉は治安維持法だった。多くの書き手がこの悪法と悲惨な〈悪魔のダンス〉を踊らされ、屈辱に打ち倒されたのだ。最高刑の死刑執行まで到ったケースはなかったとはいえ、拷問死は小林のケースに明らかなようにほぼ〈合法化〉されていたと理解できる。
 簡略にいうと、運動は二つの方向を求めた。一は、他の良心的な書き手をも巻きこんだゆるやかな連合の形成。二は、より自覚的・戦闘的な集団による組織結成。一は、日本左翼文芸家総連合の名で反戦アンソロジー『戦争に対する戦争』を発刊したが、連合の実体はなく、この一冊きりに終わった。二は、全日本無産者芸術連盟(ナップ)とその機関誌『戦旗』創刊にすすんだ。それらに少し先立って「三・一五事件」(日本共産党員らの大量検挙)があった。
 事件に取材した小林の作品『一九二八年三月十五日』が『戦旗』に掲載され、プロレタリア文学運動は最大の昂揚期をむかえる。弾圧が団結を生み落としたとも解釈できるが、もっと錯綜した歴史の一齣だったことは否定できない。雑誌『戦旗』は発行した四四冊のうち二九冊を発禁処分でもっていかれたが、組織を整備した直販ルートを使い、着実に発行部数を伸ばした。のみならず、一時期は、一般文芸誌の誌面の半数をプロレタリア文学系が占めるといった事態もあった。プロ文は〈食える芸術〉だった。小林は非合法共産党の地下活動に献身しつつ、他方では、家族のために原稿料稼ぎの作品執筆にも努めていたのだ。
 だが運動は徹底した報復弾圧に長く抗することはできなかった。多数の読者支持を勝ち取った文学が、壊滅に瀕した党の実体を代行するかのような幻想をまとったという気もする。小林の遺作『党生活者』は、その時代の困難な困難な闘いの主観的な栄光に包まれていると同時に、革命運動の根本的な誤謬の証拠文書でもある。

[作家と作品] 他には、中野重治の詩や「春先の風」徳永直『太陽のない街』『失業都市東京』岩藤雪夫『賃金奴隷宣言』などのストライキ小説。宮本百合子佐多稲子壷井栄らの女性文学。黒島伝治「渦巻ける烏の群」『武装せる市街』などの反戦小説。細田民樹『真理の春』貴司山治『ゴー・ストップ』に代表されるプロレタリア大衆小説と称される読み物がある。林房雄、武田麟太郎、高見順など、後に風俗作家として活躍する者の名前も見つけられる。

[前史と後史] 先駆は、大逆事件の後に大杉栄荒畑寒村らが発刊した文芸雑誌『近代思想』にさかのぼる。国体への反逆は(たとえ計画のみであっても)極刑をもって報復された。同志を喪い、「縊り残され花に舞い」手も足も出なくなった彼らは、文学に偽装して再起のときを窺がった。大杉も荒畑も文学を軽蔑しきっていたが、書き遺したものは一流の文学なのだ。
 とくに荒畑がこの雑誌に書いた数少ない小説は重要な意味を帯びている。荒畑がここで示したのは、運動の退潮期に離脱していく軟弱な仲間たちへの寛大な度量だ。自分の弱さは率直に認め、他人の弱さを追いつめることのない本質的な優しさ。以降、一世紀近く反体制運動は持続していくが、こうした度量が運動の前面に出ることはなかった。権力が攻勢に出れば出るほど、組織とその成員に要求されたのは、より強烈な不退転の反撃だった。その結果、おびただしい転向者・背教者が巷にあふれたのではなかったか。それはプロレタリア文学の最盛期が語る、哀しいかぎりの冥い教訓だ。
 後史にあたる〈転向と冬の時代〉は、戦後になって厳しく検証された。だがその評価もある一面性を免れていないように思える。理由の一端は、文学史家の観点が雑誌『戦旗』とその周辺にかぎられているところにある。『文芸戦線』派の個別的な転向の記録は、たしかに気の滅入るものが多い。しかし、それだけ〈再発見〉の重荷に耐えるケースも埋もれているのではないか。転向小説の問題性が中野「村の家」などに尽きるとしたら、それは、知識人文学の限定にしかない。葉山『流旅の人々』里村欣三『第二の人生』橋本英吉『忠義』などの作品に隠された複雑な〈面従腹背〉が充全に解き明かされるなら、彼らの遺産はいっそう今日のわれわれに輝きをもって迫ってくるはずだ。

参考文献 山田清三郎『プロレタリア文学史』(1954)、栗原幸夫『プロレタリア文学とその時代』(1971)
葉山嘉樹(1894-1945)
 福岡県生まれ。船員生活に基づく『海に生くる人々』を服役中に書き、一躍脚光を浴びる。山間の工事現場に生きる下層労働者を描く長編をめざしたが、果たさなかった。敗戦の年、満洲で客死。
徳永直(1899-1958)
 熊本県生まれ。労働者出身作家として『太陽のない街』でデビュー。小林とともに『戦旗』の二枚看板として、人気を博す。『失業都市東京』では、資本のメカニズムに迫る野心を示した。
宮本百合子(1899-1951)
 東京市生まれ。十七歳のときデビュー。自伝的長編『伸子』などがある。後に共産党指導者となる文芸評論家宮本顕治と結婚。獄中非転向を通した顕治とのあいだに『十二年の手紙』がある。
中野重治(1902-79)
 福井県生まれ。詩とともに文学理論の発信者として指導的位置に立つ。小説に転じ、転向出獄後のいくつかの作品によって、困難な時代の規範を示した。書簡集『愛しき者へ』に素顔がにじみ出る。
小林多喜二(1903-33)
 秋田県生まれ。プロレタリア文学の青春を体現する。地方から作品を投稿し、運動の渦中に躍り出てから、わずか数年。一途さと潔癖さの色濃い作品に心優しさが溶け出すまでは生きなかった。

週刊金曜日2008.7.25