罵倒する・『「大菩薩峠」の世界像』


  若い世代による「大菩薩峠論」をかねがね待望していたきみのことだ。こんど出た野口良平『「大菩薩峠」の世界像』(平凡社)は、いかがだったかね。
  それなりの期待はいだいたさ。
  「大菩薩峠論」はまだまだ廃れない分野らしい。きみの『謎解き「大菩薩峠」』から数えても、世紀が変わって、これで四冊目になるわけだ。それも若い世代からの発信だ。
  「大菩薩峠論」は進化しなければならない、というのは原則だろ。ここにあるのは停滞で、しかも行文は他の論者のパッチワークだ。学生の卒論なら我慢するが、書物の体裁を採っているんだから、失望は激しかった。
  おだやかでないな。まさか、当節はやりの「コピペ本」だとか言って弾劾するつもりじゃないだろうな。

 この論考のベースは、(一)橋本峰雄「『大菩薩峠』論――一つの綜合の試み」(『文学理論の研究』1967 岩波書店)、(二)鹿野政直『大正デモクラシーの底流』(1973 NHK出版)、(三)折原脩三『「大菩薩峠」曼荼羅論』(1984 田畑書店)の三本だ。そこはもちろん本文で明記してあるわけだし、これらはそれぞれ優れた業績であって、戦後の「大菩薩峠論」の指標となるものであり、著者がベースとする評価それ自体にたいしては、何の異論もない。しかし、先人の論考に敬意を表することと、それを受け継ぐこととはまったく別の作業だ。受け継ぐからには、彼らの解釈を発展させ、より深化させねばならない。それは研究者として当然の気構えだ。しかるに、この著者はいったい、三人の先行者の論考に何か新しい己れ一個の独自な見解をつけ加えただろうか?
 なるほど。答えは、否、というわけか。しかし、資料はけっこうマメに漁ってあるぜ。傲岸不遜のきみは認めんかもしれんが……。
 この本の序論は、『大菩薩峠』冒頭の、高名な、龍之助による老巡礼殺しへの解釈にあてられている。ちょっと引用する。

  なぜ龍之助は、老巡礼を殺すことになったのだろうか。そのことを、龍之助はどう思っているのだろうか。そのことは彼の心に、どのような影響を与えたのだろうか。そもそも、なぜ龍之助がそのような人間でなければならなかったのだろうか。(10p)

 なんか、たどたどしい作文だね。わかったぞ。ヒトの弱点に狙いを定めて攻めこむ。きみの常套手段なわけだ。
 違うんだ。ここでつまづいたのは、別の理由。既視感にとらわれたのだ。ん、どこかで読んだことのある論の運びじゃないか、と引っかかったわけだ。――高橋敏夫『理由なき殺人の物語 「大菩薩峠」をめぐって』(2001.5 廣済堂出版)の28p あたりに、かなり近接した問題提起が、すでに、なされているわけだ。すでに、ね。「理由なき殺人」は高橋の論考のキーワードに使われている。野口本が序論でその発想を借りるのなら、参照した由を書くのが礼節であろうと思う。

 ますますおだやかでないな。野口本の「主要参考文献」には、高橋の当該書目があがっていない。これは、単純な見落としという可能性もなくはない。だいたい、他人の資料リサーチの脱落を批難できるほど、きみがパーフェクトな厳密居士とは知らなかった。「理由なき殺人」テーゼに高橋の著作物占有権があるかのような批難は柄の悪い筋違いさ。
 しつこいようだが、《龍之助(=理由なき殺人者)》というフレーズは野口本の 121p に出てくるのだ。
 そうかい。要するに、本全体としては、どうなんだ。
 引用に寄りかかり過ぎが目立つ。『大菩薩峠』本体からの引用があるていど占めることは仕方がない。しかし肝腎の解釈の部分で、あれこれ小うるさく他人の言説を引っ張ってくるのはどういうつもりなのか。最小限にとどめるべきだ。
 参考文献にあたった量を万遍なくレポートに反映させるためのアピールなんだろ。
 アリバイかい。そこだよ、問題は。ものは博士課程論文の流用でも、一般向けの本なんだからね。註は減らしたほうがいいし、間接引用を自分なりの行文に書き直す努力は必死でやるべきだ。勉強の物理的な量なら自ずと文章に宿っていくものだ。註の多さを威張れるのはアカデミックな世界でだけだろ。

 この本の 122p に言及されているNHKBSハイビジョンの大河ドキュメンタリ『大菩薩峠・果てなき旅の物語』は、きみも観ているはずだ。小生は、朝倉喬司のワンマンショーみたいで、その意味で肩すかしながら面白かったけれど、野口本がここで展開している《お雪ちゃん=老巡礼説》などは、この本での(きみの底意地の悪いいい方を借りれば)唯一の著者独自の観点なんじゃないかね。
 まあ、そういえないこともない。だが、それは、登場人物の交感構造についてもっと分析を深めないと明瞭にはならないだろう。《幻想―現実》と《向自性―背自性》なる図式は試みられているものの、肝腎カナメのこれが、何だか、さっぱりわからない。
 人物のシンメトリ構造を論じた箇所は、野口本でも屈指の高まりだと思うんだが、きみは、そこに不満を感じるわけだ。
 一番のね。
 一番の不満か。端的にいって何だい、足らないところは。
 差別と畸型へのアプローチ。それに尽きる。
 そうか。思い出したぞ。《差別を回避して『大菩薩峠』を読もうとする志向(嗜好)は倒錯である》というのが、「『大菩薩峠』評価の諸問題」(『文学史を読みかえる1』1997.3 インパクト出版会)に書いたきみの殺し文句だった。
2009.08.08