虚実いりみだれて風太郎八犬伝

 勿論これは風太郎による八犬伝発見の記述に酔わされる小説世界なのである。風太郎の術策はここで明らかである。読者はこの新聞小説をどのような形で読み進もうと作者の術策に従わされるのである。
 先ずは「虚の世界」――これが八犬伝の語り直し。しばらくそれを追ううちに作者の筆は「実の世界」に還ってくる。文化文政期の読み物作者の芸術と実生活の世界に――。じつは「虚の世界」そのものが、作者曲亭馬琴が絵師葛飾北斎に語るところの荒唐無稽な物語の腹案であるという仕掛けだ。この記述=虚実を交錯させる構成を 、さしあたって読者は受け入れる他ない。馬琴の像は、ここではいかにも実の世界らしく、狷介孤高とはいいながら、口うるさい悪妻に悩まされる小心な人物と設定されている。読者はそこに、物語作者風太郎の屈折した自己評価を読みとるという、下世話な自由を許されるかもしれない。
 しかし虚実折り目正しく分かたれた二分世界がどこまでも截然たる交通整理にゆだねられているわけではない。大体、風太郎の術策がこれほど単純であるわけがなかろう。「実の世界」と銘打たれた化政期の新興芸術家の実生活記述がいつの間にか伝奇ロマンの色濃い影をおびて顕わになってくるのだ。つまりは幻燈辻馬車に始まり警視庁草紙に頂点をつくる風太郎明治物が展開してくれた、あまりに華麗な離れ業がふたたび届けられるのだ。
 それは馬琴と北斎が芝居見物に出かける第194回あたりから幻妖な煙をもうもうとあげ始める。芝居とは――そうである。四世鶴屋南北東海道四谷怪談。時あたかも文政八年(1825年)、絢爛たる義士芝居仮名手本忠臣蔵の中に、《怪異、背徳、怨念、残虐、淫猥、道化の渦まく世界の怪談ばなし》を《ぬけぬけとさしはさむという、二重構造の大胆不敵なかたち》が演じられている。かかる荒唐無稽な芝居小屋に足を運んだ馬琴が《実にどうも、とんでもない芝居を考えるやつがあったものだ》と呆れかえる場面は、まさしく風太郎魔界ならではの趣向だ。そればかりではない。舞台の天井裏から首だけのぞかせた南北に向かって馬琴が戯作問答を仕掛ける点景がつづく上、彼らを引き合わす木戸番の男こそ、その名は鼠小僧次郎吉
 筆のすさびと愉しんでしまうのもよかろう。しかしこれは最終章「虚実冥合」に到るもっとも重要な伏線ではあるまいか。風太郎八犬伝の終わりの回は、例の有名な《ものに憑かれたように語り続ける盲目の馬琴と、それを一心不乱に筆記しているお路の姿に、この世にあり得ない苦闘と法悦の溶けあった世界》をみる――まさしく虚実反転する魔界冥府の描出において閉じられる。そして風太郎は、彼にしか書き得ないあの華やかなケレン味で、次の数行によって幕を引くのである。
《『南総里見八犬伝』
 世界伝奇小説の烽火、アレキサンドル・デュマの『三銃士』に先立つこと三年。》

『八犬伝』
『南総里見八犬伝』

同時代批評10号 1984.4