許しを乞うだけでは充分ではない

 このところツェランについての文献が相次いで刊行されている。パウル・ツェラン。ドイツ語で書いたユダヤ詩人。アウシュヴィッツの生き残り戦後二五年の時点でパリで自殺した。昨年の暮れに並んだ、パウル・ツェラン/ネリー・ザックス「往復書簡」(青磁ビブロス)、『パウル・ツェラーン 若き日の伝記』(未来社)につづいて、フィリップ・ラクー=ラバルト『経験としての詩(谷口博史訳、未来社)が出た。
 これは硬質の詩論であり、この危機の時代に詩人であることの意味を深く原理的に問うている。
 ツェランの二編の詩が論じられる。「テュービンゲン、一月」「トートナウベルク」。前者はヘルダーリンに関わり、後者はハイデガー(著者の欲求に従えば、主要にヘルダーリンの詩を論じたハイデガー)に関わる。「アウシュヴィッツ以降、詩は可能か」というアドルノの問いは、戦後のヨーロッパでは言い古された言葉かもしれない。ツェランは、この問いをもっとも根源から引き受け、途上で倒れた。
 ハイデガーは、この問いを回避し、沈黙に引き籠もった。著者の立場は、ハイデガーの戦争責任とはナチスに加担したことではむしろなく、その<罪>について語ることのできなかった戦後責任に属している、というものだ。これは基本的に是認しうる。ツェランがハイデガーに求めたのは、端的に、謝罪だったと、ラクー=ラバルトは言う(このことは、日本人とし受け取ると、やはり天皇の政治セレモニーを思い出さざるをえないが、省略する)。ところが、ハイデガーはツェランとの会見において、沈黙を破ることを拒絶した。「トートナウベルク」は、ツェランがハイデガーにいだいた失望を表わした詩だと、この本は断じている。
 じつのところ「トートナウベルク」は、その高名さにもかかわらず、よくわからない詩だった。難解なのではなく、撥ねつけられるような詩だ。著者によれば、ツェランの詩は《本来の国語の内部であっても翻訳不可能》な質を持っている。こうしたものを「日本語」で読む試みはほとんど徒労にも等しいと思えていた。だからわたしはツェランの注釈書を求めたのだ。本書は、注釈の不能を訴え、じっさい本文それ自体が注釈を必要とするほどに凝縮された純度の思惟で成立しているけれど、読みえたかぎりでは、最良の解説書たりえている。

週刊金曜日1997.4.25