全共闘ミシマ派の復活

 何というか極説三島由紀夫』(板坂剛、夏目書房)は、じつに不思議な光彩を放つ書物である。数ある三島本のなかでも、最もわたしが共感しえたものだ。その理由を探っていくと、やはり錯綜してくる。わたしは三島文学にはまったく共感の通路を持っていない。ただあの馬鹿げた決起が自分に与えた衝撃について、納得させてくれるような文章を読んだことがない。おかげで二十七年(もうそんなに歳月は去ってしまった!)、三島の死にたいするのみこめなさは、変わらずわたしのなかに宙ぶらりんになっている。『極説三島由紀夫』は、「切腹とフラメンコ」のサブタイトル通り、かなりスキャンダラスな、そしてかなり勝手気ままな、大胆不敵といってもいい三島論である。
 何よりまず文学論だ。文学論としての水準がなければ、これは、たんなるスキャンダル本になりかねないような「過激な」内容を満載している。――とくに川端康成眠れる美女などを三島が代作したという断定的記述があるように、奇怪な日本文壇タブーに抵触してくるのだ。
 あるいは天皇にたいする三島の(よく知られた)アンビヴァレンツな想いの分析。とくにこれは、日本的な聖と賤のダイナミズムに三島の文学と行動と来歴を重ね合わせて、出色の論考となっている。三島が極端な差別主義者だったという事実についても、著者はそれを安易にその天皇崇拝主義とは結びつけずに、もっと深層のモチーフを探っている。それによれば、終始かれのなかには「賤民」への憧れがあった。じつに不合理な憧憬である。その二律背反を、たとえば仮面の告白の一節によって証明してくる板坂の方法は鮮やかである。
 これは三島文学論であるとともに、三島文学をその死からずっと長きにわたって考えつづけた一個の精神史、自己成長史でもある。対象への共感と嫌悪と。その振幅の激しさこそが、本書を価値あるものとしている。
 板坂剛の文学がまだ死亡していなかったことを確認しえて痛快な想いを持った。その下品さすれすれのダンディズムも健在のようだ。そしてわたしは迂闊ながらも、この著者が「全共闘ミシマ派」でありつづけていたことに遅れて気づいたのだった。

週刊金曜日1997.7.4