ストレンジ・デイズ

 いつの間にか村上龍が「希望と再生の物語」を書いている。
 本気なのか冗談なのか問いかけても仕方がない。ここ数年、村上は勤勉なほどに多数の作品を送り出しつづけていて、勤勉さほどこの「悪たれ」作家に似合わないイメージはないと思ってきた者を驚かせている。執筆量の増加は、村上の変容を示しているのだろうが、その方向を予見するべき時期は熟していないと思える。速度をあげねばならないと作家は決意したのだろうが、その内実はまだ充分に姿を現わしているとは言いがたい。増加したうちのすべての作品が、読むに値する問題作である必要はない。ただ何らかの意味で状況とのシンクロニシティをもぎ取っていない作品は見当たらない、とは言いうるだろう。
 最新作ストレンジ・デイズは、コンビニエンス・ラヴストーリーのさらりとしたスケッチから始まる。一人の音楽プロデューサーがいて、仕事に根本的な懐疑をいだく。膨大なレコードとCDのストックを捨て去る。自分は何もしてこなかったし、なしえないのではないかと悩む。十五本のロックだけを残し、それがそのまま小説の章題だ。夜のコンビニで「その女」と出会い、ドアーズの『ストレンジ・デイズ』を聴いてくれと話かける。ジャンク・フーズを喰ういい女。この恋はコンビニでしか生まれないと印象させる。
この作品は、スタンダード・ジャズ・ナンバーに因んだ短編連作で成り立つ恋はいつも未知なものと同趣向で、最初は軽く流してみるだけの意図で書き始められたのかもしれない。
 ところがその女潤子との出会いが中年男を変えてしまう。回生のドラマが主流になってくるのだ。彼女は十二トントラックで深夜のハイウェイを爆走する魅惑のドライバー。こうした女がトリックスターと化すタイプの官能ロマンを作者は多く書き残している。それらはイビサエクスタシーのように自己破滅の扉を開けてしまうことが常だった。そのドアーは『ストレンジ・デイズ』では、中年男を救う部屋に開けているようだ。女はトリックスターとしては不完全燃焼のまま小説は閉じられてしまう。当然、破滅の輝きはそこにはなく、それは現時点での村上龍のスピードにとってはふさわしい幕切れとも思わせる。

野崎六助『リュウズ・ウイルス』

週刊金曜日1997.9.12