『マンボ・ジャンボ』の先駆性

 待望久しく、イシュメール・リードマンボ・ジャンボが翻訳された(上岡伸雄訳、国書刊行会)。原著の刊行から四半世紀が過ぎてしまっている。その間のアフリカ系アメリカ人文学の変容は一口で尽くせない。リードの紹介が欠落したままだったことは、かなりにいびつな黒人文学理解をわれわれにもたらせたようだ。ボールドウィン以降のアメリカ黒人小説の収穫は、あたかもブラック・フェミニズム文学に「継承」されてしまったかのようだ。先年、ノーベル文学賞を受賞したトニ・モリスンが書き始めたのが、ちょうどその時期だった。他の重要な黒人女性作家の活躍もそこにつづいている。マルコムXキング牧師をテロリズムに失い、ブラック・パンサー党の政治的敗北によってめくられた一九七〇年代は、そうして黒い女たちの自己主張の季節となったのだ。
この時代にスタートしたことは、リードにとって、黒人男性作家ゆえの不運だったかもしれない。しかし問題を状況論に帰すことができないのはリードの小説の質によるものでもある。かんたんにいえば、かれの文学は先行する黒人文学の遺産よりも、いっそうジャズに近い。その点で、不幸なことにポストモダニズム文学に分類されるような扱いすら受けた。モリスンの小説も近年は「即興音楽」ふうのスタイルを強めている。しかしリードに較べるなら、はるかに整合的な世界がつくられている。むしろリードの破天荒な冒険譚は、早く来すぎた作品のような孤立を示しながらも、あとに来たブラック・シネマやラップ・ミュージック――それらは九二年のロサンジェルス暴動の前に頂点を持った――の見事な先駆となっているといえるだろう。つまり政治的退潮への無念は確かに受け継がれていったということだ。
『マンボ・ジャンボ』は、ヴードゥー教や一九二〇年代のハーレム・ルネサンスなど、複雑な装置を満載している。その意味では、ブラック・フェミニズムが自分たちの先駆者としてゾラ・ニール・ハーストンを発見したのと共通するサイクルを持つ。ただし女性作家たちが発見と創作を別途に分けたのに較べ、リードは過去の遺産を一作内に大胆に取り込んだ。そこにこの作品のスケールの大きさがあり、圧倒的な達成がある。

週刊金曜日1997.10.24