黒人文学の都市

 都市をキーワードにした文学論は少なくない。とくにアメリカ文学には、都市小説論は落とせない項目だろう。例えばトニー・タナー『言語の都市』のような重要な現代小説論がある。しかしながらタナーの名著は、さしずめ白人小説論といった傾向を持っていた。ではアメリカの黒人文学を都市という視角から分析した書物はないのだろうか。その要請に答えたものが最近、翻訳された。チャールズ・スクラッグス黒人文学と見えない都市(松本昇、行方均、福田千鶴子訳・彩流社)だ。 原タイトルは『スウィートホーム』。これだけでも逆説にみちた豊かな内容が想像できる。アフリカ系アメリカ人にとって都市における生活は決して「スウィートホーム」と呼べるものではない。また、そう呼べる生活がある種の黒人階層に可能になったとしても、それは普遍性を持ちえない。言葉にたいする分裂が収拾のつかないところまできている。本書の記述は、三十年代のブルース歌手ロバート・ジョンソンから始まり、アメリカの黒人作家として初のノーベル文学賞受賞者となったトニ・モリスンの小説で閉じられている。そのかんに「スウィートホーム」のイメージが黒人にとって如何に変遷していったかが、綿密に踏破される。
 四冊の小説が主要に論じられるが、底に流れるのはブルースの歌声のようだ。選ばれた小説に凝縮された今世紀全般にわたるアメリカ黒人の歴史と文化とが点検されている。壮大な構想に支えられた文学論である。スケールだけではなく、ときには強引とも思える読み込みが随所に光っている。今ではプロレタリア小説の変型と見なされかねないアメリカの息子について、三十年代ハリウッドのギャング映画の紋切り型との相似を指摘するところ。あるいは、ブラック・マッチョの悪しき典型と見なされる同じ小説の女性像について作者リチャード・ライトによるベシー・スミスへのオマージュと読みかえるところ。……などに単純な断定では片付かないアイロニカルなモチーフが浮き彫りとなる。
「見えない都市」とはもちろん、本書でも論じられているラルフ・ エリスン見えない人間からの転用。白人に見える都市は黒人には見えない。その逆も真実だ。

週刊金曜日1997.12.5