在日朝鮮人文学へのまなざし

 戦後非日文学論(新幹社)は、林浩治の二冊目の評論集だ。前作は『在日朝鮮人日本語文学論』と題されていた。言葉を慎重に規定したうえで、評論のスタンスを定める姿勢は一貫しているようだ。林によれば、在日朝鮮人と日本語とのあいだには甚だしい懸崖がある。その絶望的な距離に自覚的である一個の日本人として、在日朝鮮人による日本語の文学を論じていくこと。それが著者が自分に課しているモラルだろう。
 第一作はモラルのあてはめに若干、硬さと狭さを感じさせたが、今回はどうか。「日本に非ざる日本語文学」の考察であるということだ。著者は《「日本にあらざる」というのは、「日本文学」という近代の幻想に対するアンチテーゼである》と宣言する。もちろん「日本語文学」なる用語は、自覚的に強い意味に縛られて使用されている。日本語とは、日本人の私有物には非ず、という決意に近いものだ。なぜこれが反日ではなく、非日なのか。素朴な疑問は出るが、とりあえずは省く。著者のモラルがある種の概念性にとどまっていることは否定できない。
 本書の柱はおそらく二本ある。第一部の「戦後在日朝鮮人文学史」の通史的な記述が一つ。扱われる時代は戦後の十数年ほどで、一筆書きのデッサンではあるが、歴史的なカテゴリは捉えられている。時間が現在に近づくにしたがって、在日朝鮮人文学は歴史的な役割を終えつつある、と確認されていく。それがもう一本の柱だ。当然ながら、現在への観測は、焦点が多少ぶれることも致し方ない。その点、著者は対象をひろげすぎて論点をなしくずしにしてしまっているところもないではない。
 ロジャー・パルバースリービ英雄多和田葉子カズオ・イシグロなどの名が並列化されても、着眼点の可能性は認められるが、考察は羅列に終わっているという印象しか残らない。
 かつての植民地本国の言葉を使って書く在日朝鮮人文学が、一つの歴史的役割を終える時期に立たされていることは事実だろう。しかし終わらせる主体のありかは当然のことだが、在日朝鮮人に属している。われわれ日本人にできることは伴走ですらない。そうであるだけ林の文学論も立脚点を問われるはずなのだ。さらに深く強靱にテーマを究めることを望みたい。

週刊金曜日1998.2.20