ジュリアン・シモンズ『ブラッディ・マーダー』宇野利泰訳 新潮社

 これは歴史書ではなく、一人のミステリ・マニアによる読書遍歴の産物であり、好みを優先したから緻密なカタログでも百科便覧でもない、と著者は、最初に断っている。第二版、第三版の序文にも、その点は、しつこいくらいに強調されている。
 読者はまず、それを疑うことから本書をひもといていくのがよかろう。なにしろ著者は辛辣をもって鳴る一言居士。詩人にしてアンソロジスト、伝記作者にして名うての書評家、そして最後に、才気あふれるミステリ作家という肩書きがつくシモンズである。こちらにいっぱい食わせてやろうと罠を仕掛けている企みの顔がいたるところに透けて見えてくる。おっと、こんなことをいうと、ポオの解釈者たちに向けたシモンズの至言――「彼らは行間を読むのに忙しくて行そのものを読めないのだ」――のように、一蹴されるのがオチだ。この本の望ましい受け取り方を述べよう。
 これは、二十世紀全般にわたるミステリ文学をあつかった概説的歴史書である。ミステリは一般小説とは別の系統樹をつくったから、このものに歴史的評価をくだすには二重基準[ダブル・スタンダード]が必要だ、と著者は主張する。文学ではないからと排除したり、逆に、一部の作品のみを文学に引きつけて珍重したりするのは、混乱のもとになるからだ。
 きわめて乱暴な読み方になるが、おおむね客観的な叙述が採用されている本書の歴史記述が有効にはたらいているのは、シムノンのメグレ警視ものを論じた章まで、つまり前半部のみにすぎない。これには様々の要因があるけれど、ここでは、少なくとも著者の責任でないことをみておけば足りる。ミステリは三〇年代の黄金期において頂点をむかえ、以降は歴史としては捉えられない。さらにいえば、今世紀後半は著者自身も活動した同時代でもあるから、高みに立つことができないのだ。本書の歴史記述は、いうなれば、前半の過去編と後半の現在混沌編とに二分される。著者が二回にわたる新版増補を書き加えたのも理由がある。端正な文学史家としての観点が光る前半をとるか、いささか雑駁たる印象は否めないものの随所に鑑賞眼のひらめきを見つけることのできる後半をとるか。わたしとしては前半に学んだことを書きとめておきたいのだが、より現在的な要請は、結末のないミステリさながら〈未完〉に終わっている後半についての感想をしたためることだろう。
 いずれにせよこれは、一英国作家のフィルターをとおしたミステリの歴史なのである。たえず参照されるウィリアム・ゴドウィンへの評価を確かめるまでもない。そのかぎりで著者の、たとえばハメットにたいする位置づけは公正で正確なものだと思うが、にもかかわらずそのハメット理解には、フランス人の勘違いとは別の意味での限界があると感じる。それはそれ……。
 黄金期を述べる後半、ブレイクやイネスの登場を語る筆致には独特の昂揚がみとめられる。バークリーの追随者たちについてまとめた数ページも興味深かった。シモンズはたぶん、それらの記述において、自らのミステリ作家としての系譜を、いかにも彼らしく、幾重もの韜晦にくるんで告白していたのではあるまいか。……いや、後半について書かなければなるまい。
 九二年版の補遺の末尾近く、イシュメール・リードとジェローム・チャーリンへの言及があるが、その若々しさには驚かされる。またポール・オースターにふれているのも唐突ではない。そこで筆がすべって、自分ならこの程度のものは「逆立ちしたままでも書ける」と悪態をついているのがおかしかった。最期までシモンズは、クリミナル・コメディの庭で遊ぶことをやめなかったのだ。見事である。本書を著者の代表作とみなすのは礼を失することかもしれない。だが、彼の評論も彼のミステリに劣らずキュートで油断がならないことを見逃すのでは不公平だ。どちらにしても、見かけどおりに受け取っていると、とんでもないエンディングをつかまされる。燦然と輝く本書の後半部の破格の〈未完〉に敬意を捧げよう。

週刊読書人 2003.7.11

 と、媒体用はここまで。
 以下は、いくらなんでも失礼かと思って自主規制した覚え書き。
 単純に、枚数超過で書ききれなかったということでもあるが。

 とはいえ、本書の「文学史」としての決定的な欠損を指摘せずに済ますことは、後代における非礼のそしりをまぬがれないだろう。
 ポオが典型的な時代の子であったことに注意を向けつつ、著者は、その優美ともいえる隠喩の力を控え目にみせて、次のように書いている。
 《作品を書くにあたって憧れの目をヨーロッパに向け、周囲の俗物どもに苛立ちつつ過ごしたおかげでその真珠貝のうちに珠玉の真珠を成熟させることができたのだ》
 『ブラッディ・マーダー』のすべての頁からたちのぼってくるのは、こうした純無垢の真珠からついにまがい物(それどころか劣悪なイミテーション)に終わってしまった原石にいたる目録の、正確な鑑定書を提出しようとする著者の強固な意志である。ほかならぬシモンズ自身も特色ある二級品の提供者であったことを思えば、ここに何らかの怨嗟の感情を読み取ることは不当だろうか。つまり、行間に、である。ここにふれられたすべての書物は、世の犯罪事象をとおして人間的真実のありようを追求したテキストであるといえる。さらに強調すれば、これらの書き手たちは、犯罪事象を対象化することなしには彼らが人間的真実のドラマと考えるテーマを深めることができなかった。平たくいえば、普通小説を書くという手段では真実に近づけなかったのだ。
 大戦間の黄金期の一トピックスとしてニコラス・ブレイクの登場を語る著者の筆致はひときわ悦びに満ちているように思える。とりわけブレイク作品がミステリのなかに引きこんだT・S・エリオットの名前に著者は驚きを表わす。その驚きは大仰すぎるようにも映る。かつてスタンダールは、小説中に引き入れられる政治論議を演奏会における銃声一発にたとえたそうだ。ブレイクがミステリのなかに高踏詩人の名前を引用してきたことは、著者にとって銃声一発にも似た衝撃だったのかもしれない。ヴァン・ダインやセイヤーズがミステリにもちこんだペダンティズムについて、著者は寛容な理解を示しながらも、それが空疎な装飾品にすぎなかったという本質を見逃してはいない。また後代の読者は、シモンズがものした軽めの犯罪サスペンスにさえ、コンラッド・エイキンのような詩人が、それも数行の詩句の引き写しごと、引用されていてもとくに感動する(閉口したとしても)ことはないだろう。『ブラッディ・マーダー』の、たとえば戦間期の記述に、ファシズムとの苦戦を強いられた硝煙の臭いを嗅ぎ取ることは困難ではない。これも行間に。
 すべてわれわれは時代の子であるという事実は、この書物にあつかわれた多くの巨匠たちばかりでなく、いっそう著者シモンズ自身にもあてはまる。そして、この本にもっとも決定的に欠落しているのは、対象化された作品を産した時代とは何だったのかという歴史的な省察である。時代はむろんこうした書物にとって主役ではありえないが、作品は決して真空の場所に産み落とされるのではない。おそらく一行すらも、この浩瀚な書物のうちで、この世紀がどんな時代であったか著者の独自の見識を示す言葉は見つからない。これは、まことに、奇怪なことですらある。ただの読書ノートであるという著者のしつこい念押しも、この奇怪な印象を和らげることはない。
 したがって結論は明らかだ。著者が採用する、ミステリを読むためのダブル・スタンダードは決定的に不充分であるということ。つまりミステリを充全に読むためには、文学と特定ジャンルとの二重の評価軸を立てるだけではなく、もうひとつのアクセスが不可欠となる。作品を時代の産物として、その属する時代との有機的関連において読みこんでいくことである。三重の基準項目[トリプル・スタンダード]の確立。
 何のことはない。これは『北米探偵小説論』がすでに選び取っていた戦略にほかならなかった。