蜂起への道・うふふ

 怪人モリスの文業の魅力はどこにあるのか。
 公式の顔は、さすらいの国際ギャンブラー、副業として儲からない兼業作家。――ただし、これは本人申告による。本解説文は税務署の調査ではないから、申告を信じる。けれども、客観的事実として、次のことは始めに書いておいたほうがいいだろう。最近は小説家の比重が大きくなり、本書『蜂起』もその一つの頂点を画する、と。
 そういう点は後回しにして、森巣作品の魅力は第一にどこにあるのかを、先ず探っていこう。私見によれば、その不逞の輝きは、短い、一瞬の気合いをこめたアフォリズムにある。森巣博は一行の燃焼に全存在を賭ける箴言作者なのだ。アフォリズム、箴言。ふつう、この種の人間は、一言居士と呼ばれたり、もっと最悪には「詩人」と祭り上げられたりする。むしろ論旨を説得的に展開する散文家としての能力を備えていない、とみなされるわけだ。だが森巣の卓越した散文能力なら、『非国民』や本書などの小説によく示されているし、論争家としての舌鋒の鋭さも他の仕事に明らかだ。にもかかわらず、モリスの真髄は一行の燃焼にあり、とわたしは思う。
 『無境界の人』や『無境界家族』によって登場してきた頃から、森巣にはいかがわしいイメージがつきまとっていた。それは、本人自身の「boudless」という意識的な自己演出にもよるが、それ以上に受け取り側の当惑が大きかった。阿佐田哲也の小説に出てくるような博奕打ちが余技で書いている? ま、とにかく面白い。しかし、妻は著名な社会学者、息子は天才数学者……。いったい何者だ、このおっさんは、ということになる。妻と息子の自慢話のはずが、話題は、日本人論・ナショナリズム論・漂泊の哲学などにどんどん拡大していくし、「愛国派」のエライ先生方が俎上にのせられるや小気味よくその醜い本質を暴かれる、といった騎虎の勢いだ。しかもダンカイの世代。「元・過激派」の臭いがプンプンする。作品そのものが無境界のノンジャンル、既成の尺度からはほぼ全面的にはみ出す。
 混沌としているが明快である。明快さの底には、著者の「日本人を捨てた」後の情動がある。しかし大多数の「日本人でありつづける日本人」にとって、森巣は、面白いだけの珍奇な存在として映り、エンターテインメントされているだけかもしれない。森巣の罵倒を受けた愛国派右翼(というより、卑しいオポチュニストたち)は彼を憎悪するだろうが、援軍を得たはずの左翼も育ちが良すぎるのか彼を歓迎した様子はない。森巣が、ノーマ・フィールドや酒井直樹のみでなく、サバルタン・スタディーズの論客たちの名前までも、周到に言及しているにもかかわらず――。まあ、それはそれ。
 箴言というものは、簡潔であり、それなりの高邁さを帯びているが、森巣の手になると、かなり俗っぽくなる。さらには、同時多発がつづくと俗を通りこして、しばしばオヤジギャグに限りなく接近してしまう。
 それはそれとして、著者がこれまで使用してきた自称を、いくつか言葉で拾ってみよう。――国際博奕打ち、無境界作家、豪州源氏、中三階級の代表、非国民栄誉賞作家、などなど。中三階級とは中学三年生程度の知識力という意味らしい。
 これらのごちゃごちゃした「顔」をまとって、森巣の仕事は現在に到っている。当然の結果として、ギャンブル小説も数多いが、その不逞不敬ぶりをよく示すのは、一連の警察小説ものだろう。タイトルもすばり『悪刑事〈わるでこ〉』。刑事小説の有力な一角は今でもいわゆる悪徳刑事ものだといえるが、森巣の『悪刑事』シリーズは、そういった出自正しいものとは決定的に違う。「悪徳刑事」と漢字四文字で書くような格調高さがいっさいない。「わるでこ」という、いかにも品のないひらがな四文字の世界なのだ。「新宿歌舞伎町が監視カメラだらけになって一番困ったのは所轄署の生活安全課だ、その理由はかくかくしかじか」といった情報が満載されていて、非常に役立つ。オマワリサンは国民の味方と信じていた健全な青少年も、森巣の小説を読むと、私服刑事をデコスケと呼び捨てするようになるだろう。
 こうしたアウトロウ小説とは別に、座談本がある。姜尚中との対談『ナショナリズムの克服』に始まる一連の「思想書」である。著者は座談コーディネーターに徹し、ゲストにナショナリズム論、戦争論、ジャーナリズム論を喋らせる、といった体裁だ。これらも、どちらかといえば、分類しにくい本だが、本棚に不敬本コーナーを設ければ置きやすくなるかもしれない。
 これらの境界突破的な労作をとおして最も輝いてくるのが、モリス的一行の詩魂だと、わたしは思う。いや、詩魂などといっては失礼か。箴言、アフォリズムである。そして、一行の才能はまた、同じく閃光のごとき箴言的引用の手際でもある。というよりむしろ、引用癖がこうじて自らも箴言を発するようになったというほうが近いか。寸鉄、肺腑をつく引用――。
 一例をあげると、本書の終章(単行本の428ページ)に引かれたクロポトキンの一行――《略奪はプロレタリアートのショッピングである》
 これは『ろくでなしのバラッド』の、《譲れない事情があって、生涯に一冊しか本を読まない、という人がいたら、私は、クロポトキンの『ある革命家の手記』をお奨めする》に対応している。
 ここで引用される「略奪」の定義こそ、本書の根幹をなすテーゼだといえよう。

 話がここまできたところで、以下、簡単に『蜂起』の内容にふれる。
 第一部では、四人の主要人物が紹介される。定年前に警視庁を懲戒免職となる警視(55歳)を筆頭に、リストラされる広告代理店社員(30歳)、稼業が左前になった行動右翼(51歳)、リストカットを繰り返す女子高生と、勢ぞろいするのはいわゆる「負け組」ばかり。彼らの現在が語られた後、第二部では、一転して近未来に突入したかのような「夢幻的現実」の蓋があくのである。
 小説の時間は六ヵ月後と指定してあり、たしかにストーリーはつながっているのだが、決定的な断絶がはさまっているように感じられるのだ。四者四様に転落した、現在の延長に、それはある。元警視は寄せ場に巣食ってケチな利権商売にありつく。右翼の塾長はサツ官のようにツブシもきかないので、たちまちホームレスの身となる。ただし、ここに描かれるホームレスの生態と規模は、現時点のレベルをはるかに超えている。いうなれば、一ころ流行った「日本国家破産論」が予言した量的規模なのである。――皇居周辺に四万人のホームレスがあふれる。ここで一挙に、本書は、不敬小説の猥雑さにあふれる。311ページ(単行本)を見よ。帝都都心の新名物、シンプルライフ、と著者は書いている。《ヘイカァ〜ッ、申し訳ございませんっ》
 『蜂起』は硬派の言論週刊誌『金曜日』に連載され、同版元から単行本化された。まさにこれは一つの「事件」といっても過言ではない出来事だった。それにまつわる裏話にはいろいろ面白いものがありそうだが、ここでは割愛する。ともかく、第二部は一種の集団抗争劇として、また近未来パニック小説のように「暴走」していく。不敬の部分のみが突出するのではない。溶かされた日本社会が全面的に崩壊していくさまが描かれるのだ。「勝ち組」と「負け組」の格差など関係なしに、日本国民は壮絶な「総決起」を遂げる。クロポトキンの略奪の哲学はそこで照明を当てられるのだ。ここまでやるか、モリス。こうした暴走が良識的左翼雑誌の誌面を一部占拠したことは壮観だったに違いない。

 小説はどんなふうに読まれていいし、この解説文もそのためのパッケージみたいなものかと思う。本書の、とくに第二部のモリス的蜂起に関してはさまざまな読み方があるだろう。否定的な感情もまた避けえないかもしれない。より陰険な奴ならば、小説的な破綻を理由にして、お上品に否定論を飾るのではないか。あるいは、もう少し身を入れて、ここに描かれた蜂起がことごとく「街頭ブランキズム」にすぎないとする古典的マルキシズムからの批判もありうる。
 引用されたクロポトキンの一行の「プロレタリアート」は、現在的に言い換えれば「マルチチュード」とするのが適切だ。いや、解説者が議論に加わるのは反則か。
 前記の著作で、森巣はクロポトキンと並べてレーニンの一行も引用している。この引用が正確なのかどうか追及するつもりはないが、森巣は、若い頃『レーニン全集』を大事に持っていたけれど読んだことなどなかったと回顧している。持っていればレーニンは取り憑く――そういう時代の病の話なのだろうと思うが。
 『ろくでなしのバラッド』が一九六八年の新宿安アパート暮らしのシーンから始まるように、また、最新作『二度と戻らぬ』が遅れてきた(どうにも困った)全共闘小説であるように、森巣も、この世代の狼疾とは無縁でいられないのだろう。
 解説文の分限をこえるが、最後に書いておく――。『蜂起』という小説の現象的な読み取りは、それほど重要ではないと思う。否定し、嫌悪する者がいるのは仕方がない。一九四五年の敗戦の後に、われわれが坂口安吾の「堕落論」を持ち得たことは、他の一切を差し引いても価値ある遺産だったと信じられる。日本は破滅の道に突き進みはしたが、反省の時は有したのである。そして現在、バブル崩壊後の「喪われた十年」それに続く「さらに喪われつつある十年」を通過しているわれわれに、われわれ自身の「堕落論」を提起する道はあるか、反省の契機を掴むことはできるのか。『蜂起』が読まれなければならないとすれば、それは森巣が今日の「正しく堕落する道」を断固たる下品さで、うふふ、指し示しているからに他ならない。

幻冬舎文庫 2007.6