本書はたいへん「私的」な(つまり著者の個人的な思いに強く貫かれた)、と同時に、確実に多くの探偵小説ファンの心と鋭く切り結ぶであろう質を持った、すぐれた探偵小説論である。二十世紀、この八十年間の、アメリカ合衆国における政治的反抗とその挫折の記録であり、また、時代の中でうごめく合衆国の知識人たちの、熱望と転向、苦悩と退廃をめぐる歴史書でもある。
 「政治」というこれまで探偵小説とは無縁と思われていた領域から、これほど鋭い切口で、作家たちを、そして探偵小説の登場人物をえぐり出してみせてくれた探偵小説論がこれまであっただろうか。少なくとも評者は寡聞にして知らない。作家たちの背後に存在している時代精神とその時代精神の中であがいている作家たちの姿が、作品を通して、面白いほど鮮やかに、そしていささか断定的に、つぎつぎと解剖されていくのである。
 登場する探偵小説家の数は膨大である。なにしろ、本書は『北米探偵小説論』なのだ。ただし、すでに述べたように、本書の対象は、狭い意味での「探偵小説」にとどまらない。そのことは、各時代別に分けられた章の冒頭に掲げられている発表年代別作品一覧においても読み取れることだろう。最初に上げられているのは、なんとジョン・リード『反乱するメキシコ』である。つまり、「探偵小説」に限らず(さらには国を問わず)、作家の作品(評論までも含まれる)が、このブック・リストには並べられているのだ。もちろん日本人の書いたものも含まれている。たとえば、豊浦志郎『叛アメリカ史』は、当然のことながら、リストの中にある。そして、このブック・リストの選定そのものが、そのまま、作者野崎六助の思想的立脚点の所在を、読者に開示してくれる仕組みになっている。
 思い入れに貫かれた、作品とその背後にある歴史への踏み込みのゲリラぶりは、内容そのものについても同様にいえることだ。アメリカ社会党や共和党、IWWの動きやニューディールがアメリカ左翼にとってもった意味、さらにはマッカーシズムから六十年代の反乱にまでいたる、「時代」の描写とともに、ときに、その視線は、探偵小説を越えて「SF小説」にも向けられているほどなのだ。
 ただし、じっくり読めば、本書で作者が最も書きたかった作家が三人に絞られることも理解されるはずだ。つまり、ヴァン・ダイン、ダシール・ハメット、そしてエラリー・クイーンである(そのことは作者自身、「走り書き的うしろ書き」でも述べている)。これはちょっと読者には意外に思えるかもしれない。しかし、明らかに本書は、この三人の探偵作家を軸に展開されているし、また、この三人について書かれた部分が、最も熱の入ったところになっている。逆に「この著者がむしろ好んで取り上げるのでは」と僕が予想していた、チャンドラーやネオ・ハードボイルドの作家たちに対しては、おそろしくそっけない論述が加えられるのみだ。このあたり、今後、野崎六助論を書かねばならない人は、注目する必要のあるところだろう。
 ときどき著者特有の言い回しが少し気にはならないではないが、スピード感のある文体。次々に繰り出される引用も小気味いい。実際、この本、アメリカ探偵小説の「名セリフ集」として読むことだってできるくらいだ。テンポのよさは、二○○○枚という長さを忘れさせてくれる。僕は、この本を、単なる「評論」としてではなく、良質のハードボイルドものとして読んだ。

伊藤公雄 週刊読書人 1992.1.6



 『北米探偵小説論』という書名、そしてヴァン・ダイン、ハメット、クィーン、E・S・ガードナー、カー、チャンドラー、スピレーン、ウールリッチ、マクベイン、ロス・マクドナルド、ラドラム、ウォンボー、パーカー、クラムリー、トマス・ハリス、トレヴェニアン、レナード、トーマス、ブロック、ケラーマン、それにクーンツ、P・K・ディック等々探偵小説作家たちの名、それに書き下ろし二〇〇〇枚・八ポ二段組六〇〇ページ・定価八〇〇〇円という、“風袋”をつけくわえれば、これはミステリー評論家のマニアックなアメリカ探偵小説史と即断されるかもしれない。
 が、錯覚いけない、よく見るよろし、である。「プロパーな探偵小説論に加えて、アメリカ史への一解釈、派生的な必要から不十分に展開されたアメリカ文学論、という」「三つの要素に還元しうるものを雑然と包含し」「北米合衆国の一九一〇年代にはじまり」「図式的に、十年単位に」区切りながら一九八〇年代にいたる“年代記”として書かれたこの壮大な探偵小説論は、“北米探偵小説”を“社会意識”という変数の中においてみるという方法によって、これまで書かれた同種の評論群を圧倒的に凌駕している。
 一九一三年、グリニッジ・グィレッジ。メイベル・ダッジ夫人のサロン。政治的急進主義とと実験芸術とボヘミアン生活がきわめてロマンティックに雑婚した「もう一つの国」からはじまる第一部「文芸復興・一九一三年」と第二部「戦争は国家の健康法である」という二つの章は、主題である「北米探偵小説」にはかかわりないようではあるが、野崎六助によれば、公認のアメリカ史でも「無視される通例」がある一九一〇年代を「外しては二十年代は理解できないし、それ以降もむろん理解できない」のである。
 その十年代を起点として、二十年代の繁栄のジャズ・エイジから八十年代、ヴェトナム体験とレーガン戦略の台頭にいたるアメリカの二〇世紀史を“革命と反革命”であり“民族の葛藤”という視点でとらえるパースペクテイブのなかで、探偵小説(文学・SFも含めて)を論じていく野崎六助の根本にあるものは、アメリカの探偵小説は「必然的に自国の病根のひとつひとつの具体性にむきあわざるをえない」という視点であり、この視点こそが、野崎六助と他の、探偵小説プロパーの批評家たちの“評論”とをわかつ決定的なポイントである。
 といえば、あるいは、アメリカの探偵小説なかんずくハードボイルド小説とは「男の凛々しさ、騎士道精神を謳いあげたもの」とするファンからは「あまりにも政治主義的」と非難されるかもしれない。だが、そうした私立探偵の“定型神話”が空虚なものであることは、野崎六助もいうように、ごく最近のアメリカハードボイルド小説をみれば明らかなことではないか。
 本書の出現で今後は、重箱の隅をつつくように微細に作家や作品を論じるのみで、歴史、社会意識との格闘のない批評は批評といえなくなったことは確実である。

ダカーポ 1992.12.18


 中国を知らずして中国と戦ったがゆえに、アメリカを知らずしてアメリカと戦う破目に陥った戦争世代から、“贈り物”として手渡されたアメリカ(体験)を、血と硝煙に彩られた架空探偵群の活躍を刻みつけながら告げ知らせてくれる。米占領下に生を享けた気鋭の批評家が、本書を出発点としてさらなる飛躍を遂げることを心より期待する。                          中薗英助

 本書はハードボイルド小説を論じることによって展開したアメリカ現代史である。1913年から湾岸戦争直後までを書け抜けた大作であり、文芸のなかにアメリカを蔽う呪詛の流れを見届けたものだ。ドンナ明日ガ来ルノカ解カラナイ。だからこそ、こういうものを読みたいのである。              船戸与一

本書帯より