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 「やり残したことがあるからだよ」
 熊沢は沈んだ調子でいったが、そこには、こんなこともわからんのかといった憤激がこめられているのが明らかだった。
 日置高志も辛抱強くいった。
 「だからわしがわからんのは、片っ方にやりおおせたやつがいて、そいでもってあんさんはやり残したことがあるていうわけや。あんさんだけちごうて何人もが……。その差はなんで出てくんねん。集団やったら、それどないもならんもんなのか。わしはアホみたいなこと尋ねてんのやろか」
 日置高志は、大部屋の横の三畳の間に移っていた。リンゴ箱をいくつか置いた上にコンパネを渡し、クッションを乗せて、ベッドにしていた。いくらかの衣類は木製のリンゴ箱に収まった。ステレオ・コンポは安くで譲ってもらったし、レコードもぼちぼち買った。
 稽古場に住んでいた松吉も清次郎もいなくなっていた。親身に相談できるのは熊沢か露人の二人だけだった。かれの不安定さを理解してくれそうな者はごく少ないとしか思えなかった。
 熊沢は苦笑して、かれの幼稚な質問をはぐらかした。 「そりゃ、人は人だろ」
 現実は凡庸に運ばれていった。公演の予定が決断されたのは、懸案の事項が話合いで煮詰まったからではなく、見切り発車の判断によるものだろう。問題は棚上げ、というより他に言い様がなかった。清次郎がいちどいっていたように、シーズンになれば自然と肉体が芝居を要求してきたからではなく、消耗する会議が限界まできた結果にすぎない。やるのか、やらないのか。最後にいたってさまざまな問題は極端に切り詰められ、二つに一つの決断に単純化されてしまっただけなのだ。
 意外だったのは、露人や熊沢が休止をにおわすような待機路線を選択肢にもってきたことだった。「力を溜める」という言い方を選んだけれど、あまり説得力があるふうには聞こえなかった。慎重論にたいして、創立メンバーではない若手が積極論を打ち出して、それを退けてしまった。いわば新参メンバーに引きずられるような格好で、露人と熊沢は路線を決めたのだ。あるいはそれは、二人が組織運営でみせた狡猾な術策だったかもしれないが、かれにはほんとうのところは掴めなかった。
 熊沢はなかなか複雑な奥行の性格を備えた男だった。図体のでかさと繊細な神経とのアンバランスが際立っているところは、違った位相でもやはり清次郎とそっくりだ。芝居をやる人間は、怪物的な容貌と極度に優しい心とを併せ持っていると、さいしょは感じたものだ。初対面のときのように爆発しやすい短気さはあったが、その一方で、ふところの深い組織運営力を折にふれみせてくるのだった。
 鬼首の提起をもっとも本質で受け止めて、もっとも動揺を来したのが熊沢だった、ということをかれは理解していた。それぞれが動揺したけれど、判断停止状態に陥ってしまった者は、結局、何も考えなかったかもしれない。動揺と苦悩の深刻さの分だけだれよりも早く熊沢は立ち直って、そして、もっとも徹底して鬼首の論理に反対した。ときにはレベルの低い論議に落ちても、自説を押しとおそうとした。われわれには芝居しかない、という意見を代表したのは熊沢だったし、それを弱気にしか表明できない者は、みな熊沢の代弁の陰に隠れてものをいったのだ。
 役割としては、リーダーの露人を巧みに補佐し、ある場面では、集団を独力で引っ張っていた。
 しかし社交性や組織力は、この男の性格の光のあたる側面にすぎなかった。
 「そやけど、自主稽古て、なんであんなにつまらんねんや。正直いって失望しとるんや」
 大雑把な感想だが、ついつい口をついて出てしまった。自主稽古とは、要するに一人芝居で、思うところ欲するところを言葉と身振りと肉体とで出し切ってみよ、というぎりぎりの表現行為だ。これをもとに集団としての芝居を練りあげていく。最初に旗があるのでもない、台本があって合わせるのでもない。ただ役者が裸に立ちつくしたところからすべてが始まる。天馬団の固有のもののやり方だった。
 スケジュールが決まると、第一段階として稽古がはじまった。それは、あるいは怪我で長く入院生活をおくっていた者が経験するリハビリのような段階だったのかもしれない。しかし――。
 その一番の立ち稽古が、ひどく貧しく見すぼらしかったのだ。
 「ぼちぼちだよ」
 焦点をずらすように熊沢は答えた。
 自分が何気なくとってしまう言葉の断片とか、質問の仕方とかが、この男をひどく苛立たせていることに、日置高志は気づいた。他人に気配りをおこたらない熊沢は苛立ちをあからさまには出さないが、完全に隠せたわけではない。何だろう。たんに相性が悪いだけなのか。
 考えてみれば、こいつがやった役は自分を天皇だと勘違いしている狂人なのだった。狂人のふりをうまくやればやるほど喝采を浴びたが、そもそも狂人の役をやるとはどういうことかという問いに無防備に剥かれたのは、その演技そのものだったのだ。
 「なんであんなことできんねん」
 糞をひりながらうどんをすすっている芝居について、かれは軽く揶揄したことがあった。正直なところ、極端なデフォルメをこうむる狂人のイメージに、少しうんざりしたことも付け加えたかったのだ。すると激昂した熊沢は飛びかかってくるや、鉄の大ハンマーのようなパンチを一発、二発と繰り出してきた。何発か殴られたあと、かれは、熊沢がどれだけフィクションと現実との手のつけられない迷路にはまっているのか充分に納得した。そしてかれはその最もデリケートな部分を不快に刺激してしまったらしい。
 たぶん、鬼首の芝居は終わったという断定を、熊沢はだれよりも壊滅的に理解したはずだ。そうした理解力はこの男にとっては厭わしいかぎりだったとしても、打ち捨てるわけにもいかなかった。明敏な知力を持つこの男のことだから、自分のやった役が空虚なブラックホールだということをいち早く察したのだろう。己れの役柄の果てに見えるものが狂気の空洞にほかならないと確かめたとき、こいつはきっと困惑したと思う。ニセの狂人を演じたことの負荷を自分は背負わねばならない。ただの職業的な芝居者ならそんなことは意味をなさない荷物だが、天馬団にとっては本質に関わってくるのだった。
 そこに現われたのが、病院患者の日置高志だ。何を知っているにしても、体験者の強みだけはだれにも否定できない。熊沢がかれにたいして公平になれないのは仕方がないと思えた。
 「車のエンジンだって、ゆっくり暖めなきゃならんだろう」
 「そやなぁ」
 「それより、おまえは全体の構想を練れよ」
 熊沢は組織の顔にもどって、いった。
 日置高志は、脚本を志願したが、それはたんに役者をできないという消極的な理由からにすぎなかった。「全体の構想」によって何を訴えたいのかというぎりぎりの欲求は何もなかった。当初は持っていたとしても、この数ヵ月でほとんどすり減り、何もなくなっていた。集団としてつくっていくイメージも芽生えてくるとは思えなかった。
 「そやな。頑張るわ」

 地下旅十文を名乗っていた片岡が、肝不全で息を引き取ったと知らされたのは、それから間もない日だった。とくに感慨はなかった。
 天馬団そのものの壊滅もすぐ近くまで迫っていたのだった。破局はあっけなく見舞った。
 次の週の稽古の夜だった。
 稽古の質には失望していた日置高志だったが、稽古に立ち会う露人の姿には一種の感動をおぼえていた。各人の自由なパフォーマンスだから、露人は演出ふうに口をはさむことはせず、黙って立ち会うだけだ。その独特な姿勢に、この男の存在がまるごと出ているように見えてかれは驚きをもったのだ。
 細い身体を猫背気味におりまげるようにして小さな椅子に腰かけ、組んだ足でさかんに貧乏揺すりする。縮かんだ恰好は、どちらかといえば老人めいていて、威厳などとはほど遠い。こういうさいの露人は、まったく言葉を発さず、眼だけがうるんだような光を帯びてくる。やがて炯々と光る眼光だけに化して、他の肉体は消滅してしまったかのような印象を与える。
 一人立ち、二人立ちして、稽古は消化されていく。
 露人はどれほど低調な芝居であっても、そこに秘められた硬質の輝きが一かけらでもあるならば、それを発見できるのは自分しかいないとでもいうような眼で、役者たちの一挙手一投足を追いかけていた。あたかもそれは、露人一人のためにつくられた舞台にも見えた。うずくまって動かすものは眼だけ、眼光以外の肉体は消え去ったといえる孤独な一人芝居をこの男がひそかに試みているようにすら見えたのだ。けだるい稽古をさらす役者は、視線の先から退場しているも同じだった。
 会合ではリーダーシップをとるが、ふだんは寡黙なこの男の内面は測りがたいところがあった。存在感がもっとも明瞭にしみ出る場面は、こうした稽古の立会いのときだったのかもしれない。
 言葉はなく、軽いうなずき、突き刺すようなストレートなまなざし、ちらと見あげる上目使いなどの差異で、微妙に反応は使い分けられていた。
 稽古のメニューは、一通りのメンバーが一人芝居を消化したあと、いくつかの組合せをつくってセッションを行なっていく予定になっていた。各人が何をやりたいのか、どういう芝居をめざすのか、今は朦朧としていても、おおよその形がこのプロセスで掴めてくるはずだった。 ことは一人芝居の最終コースのところで起こった。
 理沙という女優の番だった。新しいメンバーで年もかなり若かった。理沙が芸名だったのか、いつも呼ばれている名前すぎなかったのか、かれは知らない。その名前だけが、ポツンと白いテーブルクロスに落ちた血のしみのように、消えずに残っている。
 衣装は、衣装といえるなら、下着いちまいだった。一枚というのは正確ではない。キャミソールと他の何か。隠すべきところを必要以上に露出していたわけではない。さして高価な下着だったとは思えない。理沙はわざわざ人に見せるような下着を身につけていたのではないだろう。かれはろくに女を見てもいなかったのだ。あとで考えると、包丁をさいしょから手にしていなければ、どこかに隠していたことになるけれど、下着姿では隠すところもない。不自然に思うが、もともと女のことを見ていなかったのだから、不審を言い立てても仕方がない。
 立ち居ふるまいは、まったく天馬団の演技スタイルそのままだった。個性よりも先に伝わってくるのは、学ばれた作法だ。足を踏み鳴らすように中腰に立って、叫びまくる。言葉は聞き取れないものの、声の質は悪くないと感じさせた。
 要するに――。そうだ、強いて注目する理由はどこにもなかった。
 異変は、というか、異変の予兆なのだが、じょじょに広まっていった。はじまったときから、二人のあいだに独特の緊張が往来していることに気づいたのは、露人の反応にどこか不純さを見つけたからだ。理沙の言葉は、露人一人にしか向けられていなかった。芝居というより対話、対話というより抗議だった。作法だけが演技で、女は露人より他の人間が目にも感覚にも入っていないようだった。
 発声のトーンが落ちると、言葉遣いはごく聞き取りやすい日常の調子に近くなる。
 失望を誘うものだった。それはどう聞いても、妻子ある男とのっぴきならない関係に陥った若い女の追いつめられた心情のめんめんたる吐露でしかない。フラットなせりふに並んでしまえば、およそ陳腐なメロドラマの道具立てにすぎない。世間一般に掃いて捨てるほどありふれた不倫劇だ。口にしている本人と責められている当の男以外には、どうでもよいことなのだ。
 芝居かよ、これが。稽古かよ……。
 白けた空気が大部屋に流れてきた。
 けれども二人のあいだにある張り詰めたものは、ゆるむどころかいっそう高まっていく。女は責め、露人は耐えがたいものを呑みこむように受けていた。稽古を借りた、もう一つの修羅がそこに、疑いようもなくひらけていた。どうして。答えは一つだった。
 二人は当事者なのだ。ほんらいなら密室でなされるべき対話を女が非常手段によって、仲間の前にぶちまけてしまった。やめるべきだ、こんなことは。しかし理沙は芝居というロックを掛けて、己れの訴えを特権化しようと目論んでいるのだ。これは虚構ではない。とんでもない錯誤だ。錯誤でなかったらなんだというのか。
 もともと痛烈に男を責める性格であるのか、それとも舞台という皮一枚の高ぶりが女をさらに高次の陶酔に運んでしまっているのか。理沙は<一人芝居>をやめる気配もない。激昂するせりふは、いかに男が若い肉体を弄んだかを微に入り細に入り暴き立てていった。付着するお決まりの展開。男は家庭を捨て自分といっしょになることを約束したが、いっこうに実行には踏みきらない。女はあくまで被害者だ。空証文をくりかえさせないための対抗措置は決まっている。脅し。最後の脅しが、自分の生命を道具に使ったものになることも常套だ。言葉だけの脅しだとしても、必ず女の口をついて出る一つの決まり文句がある。
 死んでやる。
 女の愁訴がたぶんに空想の混じったものなのか、それとも言葉そのままの真実なのか。どちらでもよくなっていた。聞いた者はいやでも信じてしまう。
 それでも露人は、あの特徴的な暗い輝きのまなざしを一瞬たりとも逸らさずに、理沙と向かい合っていた。どんなに弄劣な仕掛けを施されていようとも、進行しているのは舞台なのだ、芝居なのだ、と一同を納得させられると思っているかのようだ。だが露人の冷徹さも、さらに深く踏みにじられるときがきた。
 死んでやる。
 女が今度は明瞭に、澄んだ声を発した。
 そのとき、虚構の時間が無残に断ち切られた。あとで起こったことを整理してみると、このときがはっきりした境目だった。わずかに残されていたフィクションの被膜がずたずたに破り捨てられてしまったのだ。
 暗い部屋に金属のひかりがきらめいた。はっと呼吸がとまる音。短い悲鳴。びしゃっと赤いものが飛んで、露人の顔に当たり、紅の花を咲かせた。血だった。理沙の手首の血管を裂いてはじけた鮮血だった。
 女の芝居に腹を立て、ろくに女を見てもいなかった日置高志には、一瞬、何が起こったのかわからなかった。目を移すと、理沙は興奮にてらてらと光った顔で、両手を頭上にかざしていた。右手には包丁、左手はすでに血に染まっていたはずだが、注意して見なかった。
 よくいわれるように傷を負ってすぐには激痛はやってこない。あるのは鈍い衝撃くらいではなかったか。いや、女は恍惚とした状態にあって衝撃すらも他人の出来事のように見下していたのかもしれない。
 場を制圧するような豊かな叫びがあがった。
 左手が手首をかえして前に突き出された。あとで確かめたのだが、稽古のさいしょから女の手に包丁があり、それが威嚇的にふりまわされていることはだれもが見ていた。そして一種の勘違いがあったのだろう。女の武器だ。よもや自傷におよぶ道具に変ずるとは思いもしなかった。ものがステンレスの文化包丁にすぎないので安心もしていた。刺されようが斬りつけられようが、深い傷などにはいたらない安物の刃物だ。
 女が自殺を口にしたときでも、道具と行動の予測とを結びつけようとは思わなかったのだ。
 しかし――。
 けたたましい悲鳴とともに、女の右手が左手首へと叩き落とされた。
 一度目はその瞬間を見ていないかれにも、もう女の意図は疑いようがなかった。さいしょの一撃は、演技の逸脱かもののはずみだったかもしれないが、二度目は絶対の意志をもってなされた。本人のつもりではより高次の演技への没入だったのか。けれども行為のもたらす結果は、自らの虚構を自ら殺すことだった。そして現実的な意味に立ちもどせば、確信犯としての自殺未遂行為だ。己れがまがりなりにも立ちあげた芝居の空間を己れの手によって己れの血をもってして徹底的に汚し、おとしめる行為だった。
 二撃。
 次に素早い三撃。蜥蜴の舌のように素早い三撃が下されたあとまで、だれも女をとめることができなかった。 男たちが身体を押さえつけ、右手の包丁を奪い取り、左手を止血のためにしばるまでに、すでに、女は致命的な傷を自らにつけていた。腕がしばられる前に、血は壊れた水道管のようにあふれかえっていたし、傷口に布がかぶされる前に、はじけてそり返ってしまった筋のすきまに白い骨のようなものが見えていた。床に落ちた包丁は刃こぼれでぎざぎざになっていた。
 露人は凝然とすわったまま微動もしていない。そのとき、露人の燃えるような眼に浮かんだ絶望と苦渋と悔恨の色を、日置高志はたしかに見た。絶望と苦渋と悔恨の色はしかし、次の瞬間、回転舞台のようにくるりと裏返って、そのあとに子供じみた狼狽と哀しみの色がどっとあふれ出してきた。
 一声、馬鹿野郎、と露人はいった。
 自分にたいしてなのか、女にたいしてなのか、わからない。
 日置高志のなかで、突然、アーアゥ、アーアゥ、というカラス小僧の叫びが爆ぜた。べっとりと赤い床。暗い部屋に赤の彩りが、反転して、踏切りの遮断機が現われた。カン、カン、カーン、と赤色が点滅する。かれの目のなかで、赤い血がぐるぐると点滅した……。