幻夜の在日
金時鐘 「在日」のはざまで
金時鐘 化石の夏
金時鐘 草むらの時
夜の暗さが陽だまりの明るさを保証するわけではない。夜はそれぞれの暗さで暗く、陽だまりはそれぞれの明るさで明るい。暗さも明るさも、引き立てあって暗くそして明るいのではない。闇も光も別々のところにあって、無関係のままだ。
われわれの社会には、常に異物がまたたきながら、異物そのものの価値として輝くことから疎外されていく。輝こうとして抹殺され、また抹殺されようとして自傷的に輝きを増すが、もはやその輝きはごく限られた者にしか捉えられない。
金嬉老は強制送還されて「祖国」に帰った。彼は在日二世として四十年、日本に住み、一つの決起を果たした。二人の人間を殺したあと、自らの生命と引き換えに、民族差別告発を日本社会に訴えることを決意した。寸又峡の旅館に八十八時間にわたって籠城する事件によって、金嬉老は、前者には失敗して生きて捕らえられたが、後者には一定の成果を克ち取った。彼の死への覚悟は疑いえなかった。ただ国家権力は、彼らにとっては虫けらも同様の一個の「植民地人」の自主的な死の尊厳を、面子にかけても阻止したかった。自ら死することは許さず、最高刑罰の処刑を下すことによって法律の威信を示さねばならなかったのである。なぜなら、彼らの論理によれば、人間は国家に属しているからだ。民族というファクターは、朝鮮人においては、ひたすらネガティヴな枠組みにある他ない。かつての「宗主国」日本に属するのでなければ、どこにも属することを許さない。――それが植民地主義の論理の帰結なのだ。金嬉老の見せしめ的な死刑に失敗した日本国家は、事件後、三十数年の長きに渡って彼を獄中にとどめ、その生命の自然消滅を待った。だが金嬉老が老齢を迎えてもしぶとく長らえ、ますます国家の威信を愚弄しつづけるに到って、国外退去という異例のかたちの「釈放」を選ばざるをえなくなった。かくて金嬉老は、日本領土の娑婆の土を踏むことを、府中刑務所から成田空港への道のりにおいてのみ限定されるという酷薄なかたちで国外追放されたのである。
日帝植民地支配の論理が、今日、亡霊としてではなく、実体として降臨してくるさまを、われわれは「平成十一年」の九月に目撃した。この事実は、植民地文学研究に関わる者にとって壊滅的な痛撃を与えるものといわずして何というべきか。
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金時鐘の文学について何かを語ろうとする時、必ず思うことは、いくつかの巨大な前提事項を根気よく取り片づけていくこと抜きには、対象に迫れないという点である。金時鐘をめぐる政治と文学との錯綜、祖国分断と民族対立の悪迷路が如何に金時鐘の詩語を押し潰そうとし、またその不条理な抑圧こそが世界に類いまれな詩人を逆立的に形成していったかという事実過程なら、ある一定の精度をもって辿っていくことは出来る。すでに金詩人自身が折にふれ語ってきていることであるし、梁石日の優れた詩人論にも問題の所在はくまなく呈示されている。今さらわたしごときが何を付け加えることがあるか、と躊躇する気持ちがあるわけではない。それとは別個に、わたし自身、在日朝鮮人文学について何故語るのかというひどく初歩的な問題の解決の、いまだ途上にいる。もちろんこうした意識が、是非とも語らねばならないという要請に対して、エクスキューズに作用することは知っている。当然述べねばならない発語の責任を、初歩的な問題の未解決を理由に、回避してまわる結果に陥るからだ。わたしは別に言い訳に言葉を費やすつもりはないけれども、わたしのような帝国主義本国人の末裔(あるいは隠微に継続する本国人本体)が、在日朝鮮人文学を研究する先験的な「権利」はありえないという点だけは明確にしておきたい。これはわたしにとって基本的な前提事項である。少なくともわたしは、無自覚に(もしくは無邪気に)在日朝鮮人文学にアプローチを試みる日本人すべてに対して絶望的な違和感を持たざるをえない。だから前提事項を横に除けたままでは、容易に語りたくないのである。
金時鐘は、「居場所のなさ」について、その独特の口ごもりとともに語っておられる。おこがましい限りの話のつなげ方ではあるが、わたしもまた一種の「居場所を失った」人間であるようだ。帝国主義文化の只中に育って、常にその中心部からは逸れつづけ、帝国主義文化を相対化する方向に捩れていくという志向(嗜好でもある)一つを取っても、それは疑えないのだ。
機会を与えられたこの小文においては、わたし自身の居場所のなさを探ることによって、対象との絶対的な距離を埋めていくことを試みていきたい。それは、在日朝鮮人文学を語ることの発語の根拠を己れに課する作業でもある。したがって以下の論考は、詩人論ではなく、それを用意するための序論と位置づけられるものだろう。
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在日朝鮮人文学は、世界史的にいっても、ごく特殊な、類例の見出しにくい領域である。特殊なローカリティはそのまま世界文学性に突き抜けることの可能な普遍を保証する契機であるにしても、しかし、事実としてこのものは日本語文学のマイナーな分岐のなかにしか「居場所」を見つけられない。彼らは民族的には朝鮮人だが、日本に生育し、日本に居住し、当たり前のことに日本語を使用する、少数の「外国人」だ。
在日朝鮮人文学とは何か。
いつもこの問いに直面する時、定義のための最低限の言葉を正確を期して打ちこむ作業とは別のレベルにおいて、わたしは己れの根拠を揺るがせるような名状しがたい想いに捕らえられる。
日本に生まれ、外国語による表現伝達の必要や強制を体験したことのない自分に、他民族でありながら日本語による創作表現を選び取らざるをえない表現者たちの苦衷や断念の激しさを真に理解することは出来ない。理解できないとは、本質的に不可能だという意味ではなく、いくらかは想像力を引き伸ばして深奥まで辿っていくことは必ずしも絶対不能というわけではないにしても、その中枢にまでは到達できないという意味だ。
こうした理解の欠損をかかえて、ある一面ではそんな欠損はないかのように振る舞いながら、在日朝鮮人文学にアプローチすることは困難ではない。だとすれば、この不充分な、そして日本語使用者たる権利の自明さを疑わない傲慢な研究は、在日朝鮮人文学のいったい何を了解してこれるというのだろうか。わたしには疑問だ。在日朝鮮人文学に世界文学的な普遍性がもしあるとすれば、それは日本人の目には最も見えにくい普遍性ではなかろうかと思えさえする。日本人にとって、在日朝鮮人文学を研究することは、例えば、イギリスのヴィクトリア朝文学を専攻することや、他のヨーロッパ中世文学の専門家を志すことと等価なレベルにあるのだろうか。等価だと答える人がいるとすれば、彼は幸福な文学至上主義者と呼ばれる他あるまい。いや、もっというなら、この国の風土にあっては多数派を形成する心穏やかな研究者としての完結を約束されているのだ。
言い換えれば、彼は自分の居場所を見つけるための苦労とは無縁に生きていく、ということだ。わたしは多分そうした研究者とは対極のところにいる。
それを説明するためには、わたしのささやかな経験から、一つのエピソードを拾ってみることが適切かもしれない。『週刊朝日百科 世界の文学』という、週刊誌形式で世界各国の文学史情報を網羅したヴィジュアル文学百科のシリーズが今、刊行中だ。写真や図版を主体にした形式ではあるが、ワンテーマ一冊、ぜんぶで百二十冊の内容は、たしかに世界文学史を「網羅」しているかのように思わせる。そこでの執筆依頼を何度か受けていたわたしに、最新の依頼が舞いこんだ。テーマは「ヨーロッパ文学編」の一冊、『亡命と越境』である。目次予定には、ベケットとクンデラを中心に、ゴンブローヴィッチ、シオラン、クリストフ、ジョイスなどの名前が並んでいる。その中で、わたしの与えられた小テーマは、「難民たちは如何にして日本文学に介入したか?」であった。内容としては「朝鮮・韓国系日本語作家・詩人の群像を、見取図的に」(どちらも執筆依頼の文面のまま)という趣旨であった。
地続きの国境を越境していった作家が複数の国家と複数の言語に引き裂かれたことが、二十世紀文学を語る上では、欠かせない項目であるのは間違いない。そしてヨーロッパの亡命作家たちと在日朝鮮人作家との存在に強い照応関係を見つめようとする視点は歓迎できるものだった。さらには、研究者を主体とする執筆者のなかにあって、在日朝鮮人文学の見取図を書くべくわたしが指名されたことも有難かった。しかしにもかかわらず、依頼を受けたわたしはひどく戸惑わずにはいられなかったのである。
一つは、小テーマの問題。「難民」という平準化レベルをいったいどう受け取ればいいのか。そして「介入」という動的な規定の不当ともいえる意味についても同じである。言葉に瑣末にこだわっているつもりはないが、二十一文字のテーマ・タイトルにおいて二点への疑問は決して小さくはない。二は、在日朝鮮人文学がこのシリーズでどれだけの照明を与えられる予定なのか、という点。その時点では、何も知らないので、どういう脈絡で執筆が要請されているのか測りようがなかった。三は、与えられた原稿枚数のあまりの短さ。――四枚だ。この枚数で見取図を書こうとしても、主要作家と作品を羅列するだけでほとんど埋まってしまう。この小文で書いているような、在日朝鮮人文学と取り組む心理的な葛藤などという「非商業的内容」を盛りこもうとすれば、前説の半分くらいで終わってしまうだろう。
やくざな売文稼業を生業にしている自分なりのけじめとして、わたしは一つの戒律を課している。それは要するに、依頼された原稿は原則として断らないということだ。わたしがどんな媒体に書き散らしたものであろうと、人がそのどれかによって野崎のイメージを決めるならば、たとえそれが甚だしい「誤爆」であっても、基本的には依頼そのものを否定しないということだ。ただミステリ評論家としてのパブリシティがあまりに一般化しているため、この方面からの無難にこなせる注文がほとんどである。選り好みするほうがおかしいのだ。昨年わたしに持ちこまれたテーマで最も傑作だったのは、「カルチュラル・スタディーズと毛沢東文化大革命の関連を縦横に論じよ」というものだった。縦にも横にも論じられない、そんなテーマは度外れたパラノイア・ポストモダニストにしか可能ではないと、編集者を苦労して説得しながら気づいたのは、彼がわたしを重度のパラノイアだと思っているらしいことだった。
閑話休題。『週刊朝日百科 世界の文学』には、別の号ですでに執筆しているので、どんな原稿が要請されているかは見当がつく。しかし、これまでのようにアメリカのミステリ作家について専門家として情報提供することと『亡命と越境』の号に執筆することは、全く次元の違う行為のように思えた。
二重言語性という視角を通してなら、アゴタ・クリストフと梁石日の文学を比較検討して書いたことはある。しかしそれはあくまで、読者の圧倒的な支持を、しかも時期を偶然同じくして、得たという、受容に関する側面に限定した粗雑な観察にすぎなかった。文学論ではなく、印象に頼った観測でしかない。わが身に照らして考えると、『亡命と越境』の項目設定も、どことなく安逸にヨーロッパ文学の一側面と在日朝鮮人文学の外面的表徴とを、思いつきで関連づけようとしている試みにすぎないように思えてくるのだった。項目のなかには「コンラッドのポステコロニアル性」とか「マグレブ作家とディアスポラ」とか、わりとわたし好みのテーマも散見される。しかし共感を持った点において余分に、警告を発する何かがわたしの内に生じてくるのだった。つまり、ポストコロニアル批評の気のきいた最新アイテムとして在日朝鮮人文学の見取図が要請されているだけなのかという疑いである。そしてそこに狩り出されているのが他ならぬわたしなのだ。しかもたったの四枚で。
わたし自身、日本におけるポストコロニアル批評が真に主体化(いやな言葉であるがとりあえず使う)されるためには、在日朝鮮人文学に取り組まないわけにはいかないという見通しを持っているし、それを表明もしてきた。しかしそれはあくまでポストコロニアル批評という教養を解体するためであり、活性化させるためなどではない。大ざっぱな言い方になるが、相変わらずの西欧かぶれの学問などで「オタク左翼」の良心が癒されているのだとすれば、そんなものは消滅してくれたほうがいいからだ。
『週刊朝日百科 世界の文学』は、一般向けの教養読み物の性格に規定されている。己れの見解を目いっぱい展開して、獅子吼するようなステージではない。そうした限定を受け入れた上で責任を持って、依頼を受けたテーマを果たさなければならないのだ。このようなハンデ戦を回避するなら、偉そうな売文渡世なんぞは務まらない。筆で立つ者は、原稿用紙一枚の下に地獄を持っている。たった一枚のコラムの失敗ですら、わたしの筆を折らせるに充分な責務を課するだろう。このケースは特にわたしに緊張をもたらす例となった。
さてこういうわけで、わたしは、いくつかの条件をつけて依頼を受諾したのである。一、「難民」という視点は正確さからかけ離れるので取り入れないこと。二、枚数を四から七枚に増やしてもらう(ヴィジュアル主体の頁割りの関係から、それが相手媒体の字数拡大の限界であることは知っていた)こと。
ついでに、在日朝鮮人文学へのアプローチはこのシリーズの他の号でもなされるだろう(あくまで予定だが)ことを確認しておいた。
文筆労働者のささやかな体験から問題の所在を探ってみたが、いくらかは明瞭になった点があれば幸いである。
もう一つ、私的なエピソードをつなげることをお許し願いたい。
例えば出会うというほどの強烈な衝撃を受けることもなく、というより、体験に対して学ぼうとする謙虚さもなく、二十代なかばの支離滅裂を生き惑っていたわたしは、壮年時の詩人金時鐘と遭遇している。話の背景から語り出すと、あれの前段階はこうで、これの反響はああで……とか、際限なくつまらない回想がずるずると引きずられてくるから、ただ具体的なシーンに限定して再現してみよう。一九七四年の夏だったと思う。下京区のS宅にわたしらは集まっていて、話題の中心は、韓国の軍部独裁、いわゆる「維新体制」において死刑判決を受けた詩人金芝河をめぐって旋回していた。わたしらのグループは「黒人文学研究会」を名乗っていた、ある意味では非常に同質性の強固な、日本人、在日朝鮮人の混じった集まりだった。
尊敬する詩人への死刑求刑という暴挙にセンチメンタリズムを掻き立てられ、抗議の行動を何か起こせないだろうかと話し合っていた。行動はおよそ、三つの方向に集約された。講演会、詩集つくり、ステッカー貼りの三つ。金芝河の詩集は、わたしが『長い暗闇の彼方に』を書き写したものを持っていた。(ちなみにいえば、何年か後、金時鐘の『猪飼野詩集』をわたしは筆写する。一冊丸ごと書き写した詩集は、この二点のみだ)。それを元にガリ版原紙に筆耕する者、輪転機で印刷する者、製本する者、と手分けして、詩集はすぐに出来上がった。海賊版をつくり、それをアピールの道具にする、といった典型的な七十年代の運動スタイルだった。
ステッカーは金芝河の「緑豆の花」を書き写したものに、「金芝河氏への死刑求刑に抗議する」の一行を付け加えた。電柱、塀などに貼っていった。いちおうは「犯罪」行為に属するので、少数の人間だけに限り、夜間の行動で行なった。
最後は講演会である。場面の子細とか、だれが何を発言して自分が何を言ったのかなど、すべて忘却しているが、とにかくわたしが第一の講演依頼の役を引き受けることになった。電話だ。ダイヤル式の黒電話。鶴見俊輔さんですか。わたしは名乗った。鶴見氏の講演のうまさは知っていたし、仕事にたいする一定の信頼は持っていた。だが相手はわたしのことなど知らない。用件を述べた。金芝河の死刑に抗議したい。文学に関わるグループとして、その抗議を外に開かれた集会として持ちたい。つきましては先生に講演をお願いしたいと。
夜分の失礼も顧みず、要求だけを突きつけ答えを求める。わたしはあなたを信用しています、だからわたしの要求を断らないで下さい、と。七十年代のなかばという時代、二十六歳のガキだからこそ出来た無体な要請だった。
鶴見氏はスマートに断ってきたが、自分よりふさわしい人物がいるといって、その人物の連絡先を教えてくれるほどには親身を示してくれた。こちらはそれを図々しくも紹介状も同様に使わせてもらったわけだ。次の日だったと思うが、わたしは当時働いていた北山通りの二階のレストランの電話を通して、その紹介してもらった(単に連絡先を教えてもらったにすぎないが)人物、金時鐘氏と話した。夜であれ昼であれ、とにかく無礼きわまりない突然の襲撃だ。同じ趣旨を述べ、講演に出かけてきて下さいと要求する。あなたの文学と社会との関わりによればイエスの返事しかないでしょう。と真っ向から決めつけるのである。
金詩人は、突然に電話での強要をしてきた、見ず知らずの若造の要求を、その場で快諾してくれた。
これが、正確にいうと、見ず知らずでもなかったのである。とくに説明が面倒になるところなのだが、最小限のことだけ書いておく。金先生はその時「あなたは京都で暴れている人ですか」という意味のことを訊かれた。言葉は正確でないかもしれないが、意味はその通りだった。わたしは他に答えようもなかったので「そうです、わたしがそうです」と言わざるをえなかった。その部分だけは鮮明に憶えている。当時の大阪文学学校と京都文学学校の歪な関係について注釈するときりがないのですべて省略するが、ただ後から考えれば、金氏の立場としては非常に引き受けにくい事情があったにもかかわらず、それを曲げて承諾してくれたのだと推察できる。
その電話だけで、講演会は、当時の京都文学学校の教室が置かれていた川端荒神口の教会で実現した。わたしにとっては若い頃の汗顔の思い出となるが、面倒を承知でこちらに足を運んでいただいた詩人の進退の見事さは忘れがたかった。
わたしは講演の段取りをつけ、詩を朗読してくれる女性二人を頼むところまでやったが、労働時間の都合で、講演会そのものは聞き逃している。わたしが教会の前に到着した時、ちょうど集まりが終わって人びとが外に出てくるところなので、ひどく情けない思いがした。二次会の飲み屋の階段をあがつていく途中で、金先生は、後ろに続いているわたしに「四条河原町裏の労働会館の食堂、あれ、まだありまっかいな」と訊かれたのだった。わたしはその直ぐ近くに住んでいて労館食堂はテリトリーだったので、質問が嬉しくてならなかった。
厚顔無恥というか、わたしが金詩人の詩業に親しく触れるのは、もっとずっと後のことだったのである。
わたしは幼く、あまりにも未熟で、在日朝鮮人文学のほんのとば口に立っているだけだった。金石範の『鴉の死』は読んでいたが、たんに読んで震撼させられたというだけで、己れの言葉を何かそこに刻印できるとはまったく思えなかった。居場所を埋められさえすれば良いと思うばかりの時もあった。その頃の私的なメモリアルに大した意味があるわけでもない。わたしにとって、詩人金時鐘は、さいしょから越えられない山巓さながらの金時鐘であったことを確認しておきたかった。**
歳月がわたしのなかで如何ように過ぎて行ったのか、わたしには確言できない。現在、こうした小文を書く機会を与えられたことに一つの答えがあるのかもしれない。わたしは在日朝鮮人文学研究の専門家ではないが、だれよりもこの領域への問題提起者でありたいとは思っている。だが、繰り返しいうなら、日本人であるわたしの問題提起に何の自明な根拠があろうか。詩人との絶対的な距離について、続けて考えていこう。
金石範の新作『海の底から、地の底から』(『群像』九九・十一)に次の一節がある。少し長い引用になるが、ご容赦願いたい。東神戸の故人を偲ぶ集まりの場で、四・三シンポ参加の私がソウル経由で到着したばかりだったこともあって、話題が四・三事件に移ったとき、イム ジョは半世紀前の父母を残しての自分の済州島脱出に触れた。そして親が死んだあとになって親孝行も何もあったものではないが、この秋にはいまようやくその所在を突きとめた父母の墓前にぬかずくために、済州島へ行くつもりだと涙ぐんだ。
十数人の参席者のうちイム ジョと私の他は全部韓国籍だった。内心、私に敵意を抱いているだろう人たちもいた。昔なら、そのような話の政治性に敏感な彼らは、席を立って出て行っただろう。
すでに彼の手許には故郷訪問団の申請用紙が来ており、あとは所定事項欄に記入するだけで、事は機械的に進む。おい、おいッ、何ということを、私は酔いもあって、声を荒らげた。絶対、それはやめろよ、イム ジョは一体何をしようとしているのだろう! 人は何と見る。やめてほしい、親しい友人としてもそれはやめてくれ、イム ジョ。
「どうすれば、いいんだ、兄貴…」彼は朝鮮式に私に対して、兄という。朝鮮語のときは兄(ヒョン)ニム と呼んだ。
「それはあとの話。とにかく訪問団はやめること。あとはあとでやる。朝鮮籍で行く。私のように。私は一旦大使館で拒否されたのが、向こうで入国させた」
「おれは兄貴とは違うよ」
「何が違うんだ? できる。もし、できないときは、残酷で傲慢ないい方になるが、済州島へ行くのをやめることだな。私はイム ジョにこんなことをいう資格がないことを知っていて、それでも口にしているんだ。しかし私はできると思うから、敢えていっている。私を引き合いに出したらいい、キム ・サンは入国させたではないかと。時代は変ってるんだ。安企部もやり方を変えねばならないよ」
イム ジョはテーブル越しに私を見つめて、泣いた。涙がだらだらと眼鏡の奥の二つの 眼から流れ落ちた。どうすればいいんだ……と、繰り返さんばかりに。私も目頭が熱してきた。おう、イム ジョが落涙する。大きな男が泣く。私はこれまで酒席で彼が泣くのを見た記憶がなかった。それが珍しく東神戸でも涙ぐんでいたが、涙を落して泣くのである。『海の底から、地の底から』は創作ではあるが、この場面は、「私、キム ・サン」=金石範、「イム ジョ」=金時鐘という対応関係を持った事実から構成されている、と読んで間違いないと思われる。この場面に行き当たって、わたしは、金詩人自身による次の一節を思い出さずにはいられなかった。
朝までかかって応じなかった好きな女が、私の体は梅毒だと言って顔もむけぬまま出て行った夜明けの話をされていたとき、崔先生の横顔にはソーメンのような涙が、筋をひいて流れていました。それまで私は、涙というのは粒だと思っていたんです。が、涙は本当に筋をつくってソーメンのように伝うものなんですね。
これは第二エッセイ集『クレメンタインの歌』に収録された「私の出会った人々」の一節である。もちろん全エッセイ集『「在日」のはざまで』にも収められている。
小説化されているとはいえ、二人の文学者が涙する場面の背景には、済州島四・三事件五十周年集会という事実が置かれている。韓国当局は、指導的な在日朝鮮人文学者の入国に条件をつける。かんたんにいえば、朝鮮籍を捨て、韓国籍に変更することを条件に入国が審査されるわけだ。《いわば転向装置、総連組織切り崩しの一端》である。これに関連して、金石範は「在日にとって『国籍』とは何か」(『世界』九八・十)を書いている。いわば踏み絵のように強要される「国籍変更」が、如何に作家のアイデンティティにとって危機的なものであるか、火山のマグマさながらの激しさで語られている。このエッセイは見解を異にする在日文学者への弾劾文という体裁を取っているが、言葉が火流となって人を打ち倒すものであるとすれば、まさにその苛烈さによって批判を受けた当の対象を憤死させかねないほどに重く衝撃的な文章なのであった。
わたしには、国籍変更の問題についていっさい論評したり感想を述べたりする資格はない。金石範に批判された文学者が果たして間違っているのかどうかの判定に関しても同じである。ただ注意しておきたいのは、未曾有の大作『火山島』を完成して以降の金石範の文筆活動のめざましさ、凄まじさについてなのだ。大長編を完成しながらも金石範の作家的膂力は、衰えたり平静を取り戻したりするどころか、いまだ醒めやらぬ熱狂にますます激しく猛り狂っていくかのようだ。『火山島』一万一千枚に畏怖をおぼえなかったわけではないが、とりわけ『火山島』完成以降の金石範には、これまで以上の根源的な畏怖をおぼえざるをえないのである。一国日本の戦後は、五十年を区切られて、あらゆる意味で終わってしまった。だがかつての植民地済州島の「戦後」は、遅れてきた五十周年の血済を日本国家の外延へと弾き飛ばすかたちでしか終わらなかった。日帝植民地支配の負債としてではなく、在日朝鮮人文学の未決の一項目として記録されるしかなかったのである。わたしが若年のころ尊敬し畏怖した日本人文学者たちは、すべて既に、去ってしまっている。わたしは、現代日本文学という術語を侮蔑のためだけに使いだしてから久しい気がする。在日朝鮮人文学に文学の根底的な蘇生力を見出すような受感は、日本人として許しがたい倒錯であるように思い続けてきたが、今、事実として尊敬に値する先人を在日朝鮮人文学の領域にしか見つけられない状況に当惑してもいる。わたしに祖国はあるが、誇るに足りる文学は祖国のなかには発見することができない。かえって祖国が疎外しつづけながら居住させてきた外国人の手になる日本語文学によって力づけられる。これが倒錯でないとはわたしには断言できない。
『海の底から、地の底から』や「在日にとって『国籍』とは何か」に語られる、祖国へ帰還することの困難さ、そしてまた、帰還(一時的滞在であってすら)が政治的・文化的なカードとして使われるメカニズムの混沌は、とても日本人の想像力の及ぶところではない。『海の底から、地の底から』は、人ならぬ幽鬼がつむぎだすような、異様なリズムを秘めた戦慄すべき幻想小説である。引用した場面に続いて、イム ジョは四・三事件とのかかわりについて重大な告白をすることになる。またその秘密を、彼が、自分のなかで折り合いをつけることもなく、数十年の長きにわたって沈黙し続けたことも明らかになる。
フィクションのなかにある人物を安易に、現実のモデルと対応させる読み方は、慎まなければならないだろう。しかしなお、この一連のシーンは、金石範と金時鐘という二人の文学者が、失われた時を求めて、失われた祖国を求めて、抹殺され失われた歴史を回復するために、飲み尽くせない苦い酒を酌み交わしている「現実の会話」として読まれなければ充全たる意味を掴めないように思えるのである。「先生ね」居眠りをしていたのではなかったイム ジョの妻がいった。「わたし、イム ジョと結婚して四十年近くになるけれど、こんなふうに四・三事件の話を聞くのははじめてです」
この一言が私の胸を刺した。一言、二言、断片的にこぼれることもあっただろうが、未だに冷めない疼きはイム ジョのなかに埋もれたままで、まもなくその怨霊たちの息吹く土地に向う。私もイム ジョから断片的なことを聞いたことはあるが、彼は四・三の体験を美化したり、日本への逃亡を逃亡として、合理化することもなく、半世紀を黙してきたのだった。わたしはもちろん、ここに呈示された「沈黙者」の像をもって詩人論が書かれるべきであるとか、傲慢な提言をするつもりはない。不充分な引用のために、イム ジョが否定的な人物像として受け取られかねないことをも怖れる。彼の沈黙、彼の恥じらい、彼の立ち居ふるまいを、彼の個性に還元してはならない。彼の沈黙の彼方には塗り潰された歴史の無念がある。植民地の時計と帝国本国の時計とは、同じ時間を刻まない。旧植民地人が在日として取り残されてしまった時、戦後の歴史もまた二重の時間軸に引き裂かれることになったのだ。是非とも注意しておきたいのは、次のことである。金石範は、金時鐘の行動を、あたかも自分が創作した『火山島』のおびただしく登場する青春群像の一人として捉えたということだ。作者にそれを可能ならしめたのは、抹殺された歴史に成り代わることを目論んだ巨大な小説『火山島』それ自体の力であるだろうし、金時鐘という存在そのものが金石範に典型化をうながし、創作に立ち向かわせ、『火山島』の活力を豊富化していったのだとも解せられよう。
わたしはこの小文を距離の測定にのみ費やしたが、果たして序論には辿り着けたのだろうか。金時鐘の詩2000.4 所収