在日朝鮮人による日本語文学素描    

 二十数年をかけて書き継がれた金石範(キムソッポム)の大作火山島が完成した時、在日朝鮮人文学は一時期を終えた。この時点は、日本国内における戦後五十年の線引きと、ほぼ重なっている。『火山島』全七巻(原稿枚数にして一万一千枚)は、済州島蜂起の歴史的復元を半世紀の後に果たした物語である。歴史の闇に葬られた済州島蜂起が、一個の文学作品のかたちで復元されねばならなかった点に、在日朝鮮人文学の固有の問題点がある。
 二十世紀の始めに、朝鮮半島は日本によって植民地化された。日本の植民地支配政策は、日本語を植民地人に押しつけることを選んだ。その結果、日本語で小説を書き、日本文壇で認められるという形で、『餓鬼道』張赫宙(チャンハクヒョン)光の中に金史良(キムサリヤン)らの朝鮮人作家が出た。彼らの存在を在日朝鮮人文学の序曲と捉えられるだろう。ここに、朝鮮語詩や民謡の日本語翻訳者としての金素雲(キムソウン)の名を付け加えてもよい。張は戦時下に強まった酷薄な植民地政策の圧力によって転向し、皇国文学者となり、さらには野口赫宙を名乗って日本人に帰化する。金史良は短い日本語創作の時期を残すが、朝鮮戦争に従軍し生命を落とした。二人の作家の対照的な軌跡は、以降の在日朝鮮人文学に投げかける明暗の予告のようでもあった。 

 なお戦時下の親日文学者の生態が戦後、田中英光の問題作『酔いどれ船』に描かれている。
 日本の敗戦によって植民地朝鮮は解放された。しかし朝鮮半島の情勢は、戦後世界が自由社会の方向にではなく、新たな冷戦体制へと再編成されていく実験場でもあった。いくつかの政治勢力が激突し、指導者が暗殺され、南北分断という不幸な収束に向かった。日本にとどまった朝鮮民族も、政治的対立と祖国分断の悲劇から逃れられなかった。戦後にスタートした在日朝鮮人文学の第一頁は、内に対立を孕みながら日本に残留した朝鮮人が、自分たちのアイデンティティを希求し続けるところに生まれた。
 類似の文学として、台湾(現・中華民国)からの政治亡命体験を作品化した、邱永漢『密入国者の手記』がある。邱はこの作品によって日本文壇に認められたが、小説家としては長く活動していない。
 注目すべきは、邱が題材とした台湾の「二・二八事件」と済州島事件との共通点である。どちらも統治を暫定的に引き継いだアメリカ軍への闘争という形態を取ったが、歴史的な根っ子は日本の植民地支配への闘いにあったのである。
 戦後にスタートした革命勢力に同伴する形で在日朝鮮人文学の第一歩は踏み出された。『朝鮮冬物語』の叙事詩人許南麒(ホナムキ)『玄海灘』『朴達の裁判』金達寿(キムタルス)などの名が記憶される。これと輻輳して、済州島からの政治亡命者が日本に流れてくるプロセスがあった。一種の難民という理解ができるが、当の日本社会には政治難民を受け入れる余地は、今にいたるまで全くない。蜂起の体験の証言から構成された金石範『鴉の死』が書かれるのは、一九五七年のことだった。
 一方で、大阪に定住した朝鮮人の一部が、空爆によって破壊されたままの旧日本軍の兵器倉庫から鉄屑を持ち出して生活の資に変え、日本の官憲と衝突した。事件に取材した開高健日本三文オペラを書き、同じ題材で小松左京日本アパッチ族を書いた。ずっと後に、当事者自身の観点から梁石日(ヤンソギル)夜を賭けてが書かれる。大阪は在日にとっての特別の土地となるのである。 在日朝鮮人は戦後日本社会のさまざまの領域に大きな足跡を残していく。裏社会、スポーツ界、芸能界などにおいて、それは顕著だ。日本人の「心のふるさと」を体現する人物の出自が朝鮮民族であるというケースはいくつか見られたが、日本社会はそうした真実を受け入れる寛容さを持たなかった。五十年代の末には、「北」の社会主義共和国を地上のユートピアとみなし、祖国に帰っていく「帰国運動」が盛んになった。期を同じくして小松川女子高生強姦殺人の犯人として十八歳の少年李珍宇(イジヌ)が逮捕された。李が少年法の適用外の扱いを受け、極悪犯人として処刑されたことは、日本社会の根強い民族差別を表わすものといえる。
 また李への在日社会の反応も複雑なものだった。李と朴寿南(パクスナム)の往復書簡集罪と死と愛とはベストセラーになったが、問題を感傷的に流した。この件の文学的な位置づけは、野崎六助『李珍宇ノートに詳しい。一九六八年には金嬉老(キムヒロ)がダイナマイトとライフル銃で武装し人質を取るという事件を起こすが、これも根幹は、民族差別への糾弾を動機とした。
 それらの事件とは別に、六十年代で特筆される作品をいくつか挙げておく。歴史書として先駆的な価値を持つ朴慶植(パクキョンシク)『朝鮮人強制連行の記録梶山季之が植民地時代を描いた李朝残影。混血の苦悩に託して問題を捉えようとした立原正秋『剣ヶ崎』など。立原の活動は、出自を隠さないが、日本人作家として書くという姿勢で独特の屈折を残した。『凍える口』でデビューした金鶴泳(キムハギョン)も立原とクロスするテーマを抱えていた。
 在日最大の詩人金時鐘(キムシジョン)『新潟』『猪飼野詩集』で本格的な活動を始めるのが、これらの事件の後の七十年代に入ってからだ。政治的対立は詩人から発表の場すら奪っていたのである。金時鐘はエッセイの書き手としても卓越し、ともすれば日本社会への声高な告発一辺倒に染まる呉林俊(オリムジュン)金一勉(キムイルメン)らの論調を補う深みを見せた。
 在日作家の目立った活躍はこの頃から始まる。『またふたたびの道』『砧をうつ女』などの李恢成(イフェソン)は最も日本文壇から好意をもって迎えられた。一時、李は在日朝鮮人文学のスポークスマンとみなされる。金石範の名も『万徳幽霊奇譚』などで一般に知られていく。他に、裸の捕虜鄭承博(チョンスンバク)『骨片』金泰生(キムテセン)『夜がときの歩みを暗くするとき』高史明(コサミョン)がいる。わが屍に石を積めなどの麗羅はミステリの領域で活躍した少ない例である。
 在日社会は、ある意味では、日本社会以上に男尊女卑の風習をかたくなに保持している。その中で、猪飼野タリョン宗秋月(チョンチュウォル)『かずきめ』李良枝(イヤンジ故人)などの女性作家の仕事も見逃すことはできない。
 韓国が軍事独裁政権下において、日本を追う高度経済成長社会へと移行していく一方、「共和国」は社会主義体制の破綻を明らかにする。故国の動向は作家たちにとって無縁ではありえなかった。近年、金静美(キムチョンミ)『事実を明らかにし怒りをとき放つ』で、反差別の立場から部落解放運動への激しい批判を展開した。従軍慰安婦の問題も遅れて浮上し、置き去りにされてきた植民地主義の問題が掘り起こされた。それに対する日本社会の反動の根強さも改めて明らかになった。戦後=植民地解放から半世紀経たが、問題の未解決とは別のところで、どんな少数民族の文学も共通して直面する世代交代に、在日朝鮮人文学も立ち会わされている現在である。

宋秋月 『サランヘ』



 金石範     在日文学全体の代表者であり、牽引者であるが、その作品世界の本質は写実主義とは別次元にある。ラテンアメリカ作家の世界文学性ともつながるマジックリアリズムの作法は、在日体験の抑圧と差別の錯綜から生まれた。私小説的とみなされる題材を扱うとき、この作家はとりわけ夢幻的な衝撃を形象化するのである。
金石範『鴉の死 夢、草深し』
金石範『鴉の死』
金石範『新編「在日」の思想』
金石範『万徳幽霊奇譚、詐欺師』
金石範『夢、草深し』
金石範『地の影』
金石範『海の底から、地の底から』
金石範『故国行』
金石範『虚日』

 金時鐘     講演者、自作の詩の朗読者としても豊かなユニバーサルを体現する。華麗に、しかし含羞をもって語りながら、時にネイティヴではない日本語を口ごもる時、失われた「口誦文学」が詩人のもとに蘇る。在日同胞によって表現活動を抑圧されるという不条理な条件のもと、否定が否定を呼ぶ独特のリズムを日本語詩に刻みつけた。
金時鐘『草むらの時』
金時鐘『化石の夏』
金時鐘『「在日」のはざまで』
金時鐘『原野の詩』

 李恢成     在日朝鮮人にとっての苦悩がまず第一に個人的な苦悩であるとすれば、その苦悩を政治的・民族的な公式から切り離す方向も求められた。李恢成の世界は、そういった要請に応えた日本人好みの私小説的な空間だといえる。もちろん創作の一方で時局的発言も多く、『北であれ南であれわが祖国』などの著書がある。

 朝鮮戦争    植民地支配は大日本帝国の敗北によって一挙に清算された。戦後世界の覇権争いが、戦勝国の中で緊急のテーマとなる。アジアの諸国は独立を克ち取っていくが、中国および朝鮮半島は冷戦体制の前線基地として残される。三十八度線というごく便宜的な線引きが半世紀を超える分断となって二十世紀を引き裂く結果になった。

 猪飼野     日本国には、人間がたしかに住んでいるのに、地図に載っていない町が少なからずあるが、大阪市生野区のこの在日朝鮮人集落は最も有名なところだ。金時鐘の詩にある。《どうだ、来てみないか? /もちろん標識ってなものはありゃしない。/たぐってくるのが 条件だ。……/猪飼野は/イカイノさ。》

 小松川事件   李珍宇は自分が犯人であると、かなり情緒的に書き綴っている。あまりに情念過多で文学的なので、その発言のみが後世に残ってしまう。李の名前は民族的には「恥辱」と受け取られているのか。だが公正な裁判が行なわれたのかどうかは検証されるべきだ。小松川事件は、一つの未決である。

 金嬉老事件   金嬉老は、借金の取り立てで追い込みをかけてきたやくざを射殺した刑事犯だ。彼と李珍宇との違いは、金がより雄弁に民族差別を告発する機会を持ったことであり、そして日本の法機構が金を死刑にできなかったことである。金は無期懲役の判決をくだされ、三一年間、獄中にあった後、「国外追放」された。

週刊朝日百科「世界の文学79」 2001.1