梁石日『魂の流れゆく果てに』書評 

人は己れの人生を意のままにはできない。だがそれを書き綴ることによって人生の不条理を自らの膝下にねじ伏せることもできる。その作業を修羅と呼ぼうと文学と呼ぼうと、名辞が内実を変えるわけではない。だがこの闘いがどちらかの勝利で完結することはないように思える。人は闇をよろばうように生に翻弄され、その途上にたまさか生の暴虐にうちかつ。己れの恥を切り裂き、解剖見本図のように拡げて、ここに固有の人生があると顕示することもできる。しかし――。
 しかしその瞬間から人生はその当事者に新たな不条理の触手を伸ばしてくるだろう。この闘いには本当の勝利も敗北もない。始まりの始まりは知らず、終わりのない始まりとは、そうした事実を認めることだろう。だから完璧な自伝というものはありえない。ムヒカ=ライネス『ボマルツォ公の回想』のように、主人公=記述者が自分の死後四百年の後に全能の視点で自らの全生涯を語るという「形式」は、やはり文学の限定的勝利の記録とするのがふさわしい。また現在、映画化作品が評判を呼んでいるレイナルド・アレナス『夜になるまえに』のように、すでに決定的になった目前の死に急かされながら、自らの人生をカーニヴァル的に復元していくという驚くべき試みもあった。
 例えば、いくつかのポートレートを並べ、一人の男が「ああ、そういえば、こんな話もあったよな」と語りだす。その語り口。低声の背後に切り立っている闇のような戦後史。梁石日のフォト&エッセイ集と銘打たれた新作『魂の流れゆく果て』は、そのように成り立った書物だ。この本は『血と骨』の刊行前後の内的風景を映しているので、作者にとって宿命的なカルマの決済という意味を持つ大作がもたらした、悪夢も覚醒もともどもに絡み合ったカタルシスと、その後にきた現世的成功の興奮とを切れぎれに含んでいる。また、『修羅を生きる』が通時的な自伝だとすれば、本書はその行間に置き去られたエピソードの拾遺といえるだろう。
 拾遺とは、価値の低い派生エピソードという意味ではない。生の真実の別の断面、異なる闇に読者が立ち合わされるということだ。本書で言及されている中田統一『大阪ストーリー』はわたしも観ている。基本的には、ナイーヴなホーム・ムーヴィーの域を脱していないが、その家庭の問題は日常の幅をはるかにこえている。この作者は、在日ナショナリストの父親に祈願をこめて「統一」と名づけられながら、外国に出奔し、ゲイであることをカミングアウトするために故郷に戻ってきた。父親との葛藤に代表されるような祖国と民族の問題が、ガラスの破片のように突き刺さって不協和音をたてる。だが梁石日の語り口はこういった要素に一瞥を与えるのみだ。
 梁石日が映画の父親にみたのは別の「再会」だ。その父親とは、数十年前、やくざ絡みの借金取り立てで危うい目にあったとき、追いこみの側にいた男だった。《なんという因果だろう》と作者は嘆じる。これが梁石日の固有の生であり、終わりなき語りの闇なのである。
 魂の流れゆく果てにどんな美辞麗句もない。

週刊読書人2001.10.19