裏と表 解説

 人間性に裏と表があるというのは常識である。経済社会に裏と表があるというのも、さらに当たり前のことだ。
 小説『裏と表』は、裏と表を、何のてらいもなく正面切ってレポートする。なまじの案内人では、この当たり前のことを当たり前に書ききることに役不足だ。そこは、「闇と炎の作家」梁石日の独壇場である。裏と表のはざまにうごめく人間の欲望と意地を描かせては並ぶ者がいない。金が金を産み、人間を狂わせ、醜く衝き動かす様相を抉り出して間然するところなし。表から眺め裏から観察し、また裏返しにして凝視する。凝視されるのは「われわれの」裏と表だ。
 話は、ひとりの男(三五歳)が神田神保町の一等地に四坪の金券ショップを開店するところから始まる。間口は狭いが、取り引きされるのは闇鍋のごとき商品。五百円のテレカ一枚から額面一億円の手形まで、じつに雑多で奇怪だ。この雑多さ複雑怪奇さこそが、すべて金によって動かされる社会のメカニズムの秘密そのもの。金券とはつまるところ金の代用であるが、かといって単純に貨幣に還元されるわけではない。金券は金とイコールで結ばれると同時に、一種のマジックの道具だ。こうした奇怪な成り立ちについては、どんな経済学者も明らかにしてくれなかった。経済学はだれのためにあるのか心を痛める良心的な学者であろうと、アングラ・マネーの規模に注目する気鋭の研究者であろうと同じだ。表から見るだけでも駄目、裏から見るだけでも駄目。――裏と表の両側から凝視しなければいけない。
 闇と炎の両側から。
 それがこの小説の独創性だ。
 かつて野間宏は『さいころの空』で、株式取引所の生態を描くことによって日本型資本主義の根幹に迫ろうとした。野間の(遠い)弟子筋にあたる梁石日は、さらに周縁的な現象から同一のテーマに向かったともいえる。地を這うようなローアングルの視点がこの不可思議なビジネスを捉える。
 その奇態な生態の一端を本書から紹介しておくと――。
 三百万円相当のビール券を売りにくる無精髭の男。
 拾ったテレホンカード一枚を換金しにくるホームレス男。
 会社から押しつけられた(客の入りそうにない)映画チケットを持ちこむサラリーマン。
 デパートの商品券を十枚単位で買っていく遊び人。
 カードで購入した新幹線や飛行機のチケットを売りにきて資金繰りに当てている零細企業の経営者。
 五十枚綴りの千円切手を一千万円分売りにくる謎の男。
 などなど……。
 いずれも百パーセントの換金率で取り引きされるのではない。百円のチケットが九十円で売られたり、九十二円で売られたりというように――。この差額こそが金券ショップの存在意義だ。差額をいかにしてビジネスに結びつけるか。水の流れはそのままでは自然現象だがダムによって「落差」を作れば電力エネルギーに転化できる――それと同じ理屈だ。差額を作り出すことによって、ひいてはわれわれの生きる貨幣社会が支えられる。
 作中から一例をあげると、三百万円のビール券を盗品だと見抜いた金券屋の店主は、七十パーセントで買うと返事する。ちなみに作者が紹介する、ビール券の相場は八十八パーセントの買い取り値に、九十三パーセントの売り値だ。相手の足元を見透かして言い値で買い取った店主は、九十パーセントの売り値をつけ、一時間で売り切ってしまう。盗難の証拠品が手元にあるあいだは、冷汗の出る危険な取り引きだが、終わってみれば、三百万円の二十パーセント、六十万円の儲けだ。元手いらずの、たった一時間の純利益。
 金券は紙幣の代替物ともいえる。原価は算定しにくい。原価率をイメージさせないものは、一般に、商品とはみなされがたい。紙幣の代用にはなるが、非常に限定された用途においてのみだ。バスカードで電車には乗れないし、東京ドームのS席チケットで国技館のマス席に座れるわけはない。そうしたことは子供でも知っている。金の代替物相互の互換性というものはない。われわれは物々交換の社会に生息しているのではないから、そうしたルールを当たり前と受け取っている。
 ――というようなことを経済学者はどう分析するのか。専門家の意見はどうか知らないが、作者の哲理は、いつもながらに明快だ。金(それ自体)が人を動かすのではない。金への妄執が人を動かすのだ。金券は金の代替物(あるいはそれ以上の何物か)である点において、人を使嗾する。人を歓喜の頂点に舞い上がらせもすれば、破滅にも追いこむ。金に操られる人間にとって裏も表もない、と。作者はその真理を、百円の商品を八十八円で仕入れ九十三円で売って五円の利益を得るという一見単純な商売のプロセスを呈示することによって、説明している。そして単純なプロセスに秘められた複雑怪奇なる様相を、あたかもマジックのように垣間見せてくれるのだ。


 ストーリーを紹介しよう。
 主人公樋口は、念願だった自分のショップを開店するさいに二人の友人の世話になった。高校時代からの親友高瀬には資金面で、仕事で知り合った少し年上の諸橋には商品の品揃えの面で。商売はいちおう軌道に乗った。高瀬は大手運送会社のやり手の営業課長だが、会社への忠誠心はゼロ。社への背任という形をとっても独立して一旗あげたいという野心の虜になっている。諸橋は金券ショップを知り尽くしている凄腕ブローカー。だれにも明かさない過去が後半になってさらされてくる。
 樋口は、店のオープンの日にやってきて、一目で偽造とわかる高速道路券を四百万円分持ちこんできたグラマラスな美女を忘れかねていた。金券は四十パーセントで買い取り、高瀬に換金を頼んだ。女のふりまく危険な蠱惑の匂いにころりと参ってしまったのだ。女は貴子といった。
 この四人の人物が、裏では背信し合い、表では協力する――といった役柄をそれぞれこなして、物語は弾けていく。弾けて、転がっていく。
 格安で借りたショップの家主のトラブルにまきこまれ、樋口は金券屋のおやじが見る以上の闇にはまりこんでいく。高瀬は大がかりなマネーロンダリングの片棒を、樋口に担がせようと画策する。選挙資金の裏金つくりから始まって、高瀬の会社のワンマン経営者一族を相手取った巨額の手形詐欺のプランが動き出す。計画のキーを握って樋口を翻弄しつくすのは貴子だった。そこに諸橋が顔つなぎした関西の大物コンサルタントが一枚噛んできて、金融ノワールの世界はますます弾けていく。
 さて題材、ストーリー展開とみてきて、この小説が従来の梁石日作品と大きく異なるところに注目してみよう。まず作者初めての新聞連載小説であることにあげられるが、これは本文庫を手に取る読者には、とりあえず関係ないだろう。
 『裏と表』は、作者としては、日本人のみしか登場しない、初めての作品になる。在日朝鮮人作家として梁石日は、自伝性の強いものであれフィクショナルに構成されたものであれ、在日朝鮮人を主要に描いてきた。その歴史と現在と潜在性とを。これは取り立てて強調されるべきでもない自然の結果ではあるけれど、そうした「制約」がここで廃されているのを読むと、逆に、無視しえない意味を帯びてくるように思える。出てくるのは日本人ばかりだ。もちろん小説中の名前というのは単なる便宜的な符牒にすぎず、彼らを、日本人の通名を作者から与えられているだけの「隠れ」在日朝鮮人だと読むこともできないではない。裏と表を輪舞する四人の主要人物の質感はどことなく日本人離れしているようにも感じられる。むろんこれは不純な読み方である。こうした疑問を呈しても、作者はそんな裏目読みを喜びはしないだろう。
 本書は特殊な具体相に照明をあてた破格の金融ノワールであり、その迫真のタッチに余分の解説などは不要ともいえる。解説子が最後になって何をいわんとしているか、不審に思われる読者もいるだろう。なぜ日本人のみの小説空間という成り立ちにこだわらなければならないのか。それは一つは――小説のラストに置かれたアンリ・ミショーの詩の引用が気になるからだ。むろん、引用された詩について、それがいくぶん唐突な感じをもたらせるとはいえ、何事かの意味をつけ加えようとするのは、解説の分をこえた野暮な試みかもしれない。
 ただ元詩人(失礼!)現無頼派作家の梁さんとフランスのシュールレアリスト詩人との結びつきが奇妙な印象を与えるとすれば、それが、じつは奇妙でも何でもないということを少し説明しておいたほうがいいかとも思うのだ。《フランスの詩人アンリ・ミショーは私のもっとも好きな詩人である》と梁石日は書き、次のようにつづける。《あの名状し難い言葉の不思議な世界は、私たちのいっさいの説明や言説を拒否する。しかも人間の内奥に巣喰う得体の知れない自我をあぶり出してみせる。やさしさと残酷さ、この両義性に隠されている言葉のメタファーから、私たちは人生の不断の戦いの中でくりひろげられている悪夢のような、しかし現実にほかならない深い下意識の世界へと誘導される》
 これは――作者自身が自己の文学世界を自己解説した言葉にも読めるのではなかろうか。『裏と表』は小説であるから、凝縮されたメタファーの喚起力を詩語のようにもたらせてはくれない。だが「いっさいの説明や言説を拒否」し、心の闇に潜む「得体の知れない自我」を突きつけてくる「やさしさと残酷さ」は、そのまま梁石日の固有の文学が到達し、またさらに深めつつある本質であるだろう。
幻冬舎文庫  04.2