在日女性文学論の意義
文芸評論の与える醍醐味は、それが対象とする作品への思いもよらぬ興味をかきたててくれるところにある。もちろんそれ自体が作品たりえている評論も存在するが、出会うことは稀だし、通常はこのジャンルに過大な期待はかけない。思いもよらぬ興味とは、未知の作品を教えられる場合と、既知の作品の未知なる読み方を教えられる場合との、二方向がある。
金フ我 KimHuna の『在日朝鮮人女性文学論』(作品社)は、どうであろうか。この本は、韓国人女性研究者による在日朝鮮人文学研究であるという側面と、論考の対象がタイトルにあるように女性文学に限定されている側面とにおいて、上記の二つの要件を満たしているといえそうだ。
宗秋月から柳美理まで。男性主流を疑われることなく流れてきた在日文学にあって、その女性パーツは歴史も浅く、現在も多様に咲き乱れているとはいいがたい。だが固有の問題がそこに埋まっていることはだれにも否定できないだろう。とりあえずそれを発掘してみせることが必要だ。
「少数被抑圧民族」の訴えとして始まった在日文学は、故国の朝鮮(分断された二つの国)にも在住する日本にも所属できないという点、母国語でない日本語を表現手段とせざるをえない点で、独特の陰影を帯びた。(そこには次の要素もつけ加えられる。同じ民族集団内で発動される抑圧が作家の言論活動を規制する――あるいはそういった傾向はすでに過去のものだから視野にいれずに済ますという観点があるかもしれない)。
在日朝鮮人女性文学への興味は、ポストコロニアル批評のサバルタン研究によく対応している。在日のオモニやハルモニたちからの聞き書きを掘り起こす試みは以前からあったし、それが慰安婦問題を機ににわかに脚光を浴びたことは記憶に新しい。だが女性自身の表現者によるものがまとまった論考の対象となるのは、ごく最近のことだろう。
こうしたアプローチが可能になった背景には、韓国社会の変容と在日社会の変貌とがあげられる。もちろん「在日僑胞」の言葉が消えないように、異国に取り残されたマイノリティ集団の問題が、韓国社会において正当な理解をかちとることができるとまでは期待しないほうがいい。
従来の在日朝鮮人文学論の特有の陰りは、作家がどう問題と向き合ったかに論の重点を引きずられることにあった。テキストは文学作品としてよりも問題提起の真摯さにおいて評価軸を左右された。問題の豊富さへの評価が常に文学的形象力の鑑賞よりも上回る。文学論はごく素朴な意味合いで、作家のモラルを問うていたのだ。『在日朝鮮人女性文学論』もまた、その一環たることを免れないようだ。
ただこの本の画期的な価値は、別の面から救われねばならないだろう。こうしたマージナルな研究を志す韓国人をつくりだすほどに在日女性文学の影響圏が拡大されたこと、日本語を手段として書かれた朝鮮民族文学が「外国人」の観点によって相対的な評価にさらされること。
――これらの点を、ともかく文学的な進歩と受け止めておきたい。
2004.9.8記