夜の終わりに

 作家はしばしば自らの運命を主体的に選び取るという。とすれば、夜とノワールの作家梁石日があの「9.11」に現場のわずか数キロ離れただけの場所で立ち会ったことは、何か黙示めいた因縁があったのかもしれない。とまれ本作『ニューヨーク地下共和国』はそのように成立した。
 地を這うような梁小説のローアングルの視点とアウトフォーカスで二一世紀開始の扉をこじ開けた「テロの瞬間」と。これらはいかなる衝突をみせたか。ここには、かつてだれも描かなかったニューヨークがある。地を這う視線はすでに地上の事象をなめ尽くして地下に潜行していくほかない。ニューヨーク・アンダーグラウンド・リパブリック。地下共和国といういわば手垢にまみれた言葉とイメージは、この「故国を喪った」在日詩人作家によって独自のパッションを注入される。共和国としての故国がもはや見果てぬ夢の彼方にあるとしたら……それは地下に求めるしかない。比喩的な意味でも具象的な意味でも――。
 小説は、白人警官による黒人銃撃から始まる。これ自体はありふれた犯罪映画のファースト・ショットに似通ったものだ。夜の街路をうろつく者は黒人であるだけの理由で罪に問われるという光景。撃たれた彼らの一人は「地下」へ通じる穴へ逃げこむ。このシーンの情感は、アメリカ最高の黒人作家リチャード・ライトの短編「地下に生きる男」の記憶とまっすぐに結びつく。ライトの小説は黒人男が警官に射殺されたところで終わっていた。後続する黒人作家のだれもそのイメージを引き継がなかった。
 『ニューヨーク地下共和国』はしかし、都市の地下に広大に拡がるという「無法地帯」を舞台にするわけではない(地下世界を描いた犯罪小説には、ジョージ・C・チェスブロの『ボーン・マン』がある)。逃亡者は友人を頼り、そこから主人公の一人が立ち現われてくることになる。繋留所のヨットに生活する建築士ゼムがその男だ。十八の人種が混血した結果、肌の色も眼の色も内面の変化によって変容する男。官憲に尋問されて、数十語にわたるフルネームを並べて驚かせもする。彼の名前は「彼らthem」からくるのだろう。というよりthemの黒人口語「やつらdεm」がいっそうふさわしい。だがこの男ゼムが一編の主人公だとする読み取りは正確ではない。
 地下を流れる水路に秩序がないのにも似て、物語の数かずのエピソードは主要な流れを見喪わせるかのように悠然と、むしろ拡散を思わせて散らばっていく。それは、「9.11」以後のニューヨーク・アメリカの現実の一端をレポートする側面を持つと同時に、想像力上のアナーキーな暴力によって透視される虚構の展開でもある。サイドに配されるいくつかのストーリーをあげれば――。
 テロを「予見」した勢力による大規模なインサイダー取引、グラウンド・ゼロの記憶を遺そうとする小劇場運動、イラク戦争復員兵によるテロ組織「ニューヨーク地下共和国」の暗躍、市民社会内の内なる敵を摘発告発しようとする公聴会の動き、などである。
 そこから強いて単純化して中心的な人物を取り出すなら、ゼムの原理的な対立軸に位置するのが高齢のロシア・マフィア頭目ウラディミールだ。ソ連解体期の政府高官だったこの男は、莫大な財産をアメリカに持ち出して大きな勢力を保持する。彼の五十歳年下の妻ソーニャとゼムとの隠れた愛が物語のロマン的な要素だ。またマフィアの同盟者がニューヨーク市警にいて、対立抗争を煽る尖兵の役割を果たす。ゼムの周囲には反体制派が集まり、彼らのさまざまな議論と行動に「9.11」ショックの迷走的な様相が映し出される。いうまでもなく、その最も過激な部分がテロ組織だ。
 最初のシーンに出てくる黒人グループは負傷したまま逃亡するが、警察からもマフイアからも追われ、仕方なく「正義のための戦争」を遂行する軍隊に逃れる。そして聖戦の現実に幻滅した彼らはその銃をアメリカ国家に向けざるをえなくなる。「地下に逃げた男」の論理的な帰結はそこにしかなかった。彼らは、『ニューヨーク地下共和国』の主流ではないが、きわめて重要なメッセージを託されるわけだ。
 彼らは警察および監視社会の眼にとっては代理敵だ。物語のなかばに、市警がゼムの隣人を挑発しロケット弾で屠る場面がある。「逃げたから撃った←テロリストだから逃げた」と、射殺後に正当化がなされる。それはもちろん、大量破壊兵器備蓄を口実にフセイン政権を征圧したのとまったく同じ「正義の」西部劇論理だ。テロリストは創造〈ネツゾウ〉される。「国外に五十のイラクを・国内にも五十のイラクを創出せよ」は、当分、アメリカ帝国のゆるぎない方針であろうと思わせる。
 この場面は、小説全体の結末を暗鬱に暗示してあまりある。だが終幕ページまで読み進むなら、物語はいったん閉じられるにすぎないのだという作者の確信(希望)は間違いなく重量をもって届いてくるはずだ。いささか紋切り型にいえば、本作は、多民族のアメリカvs白人石油帝国アメリカの二一世紀型「内戦」を呈示している。「オーライ、おれたちは二つの国民だ」という二〇世紀最高のアメリカ小説の一つ『U・S・A』の一行はなお解消されていない。歴史上初めて本土攻撃を受けた国家の衝撃もまた「二つの国民」に分裂したのだ。
 ちょうど本作と刊行が重なったネルソン・デミル『ナイト・フォール』に興味深い対照を見つけ出せる。非常に完成度の高いエンタテインメントであるが、その立場はWASPアメリカの深刻な動揺から生まれたと断言できる。事実としての世界貿易センタービル攻撃と灰燼に帰した都市中枢を物語のクライマックスに配することによって「感動」倍増をねらった。巧妙きわまる仕掛けである。
 梁石日の作品は比べてずっと素朴な構成法に支えられた。その方法はリチャード・ライトにつながり、また最近のブラック・シネマ『ヴァニッシング・チェイス』などとも共通する。スパイク・リー製作、リー・デイヴィス脚本監督のこの映画は、劇場未公開、DVD発売レンタルのみ、原タイトル『午前三時』をカーアクションと勘違いさせる日本版タイトルに変えられるという悪条件で流通した。経営者はインド系、運転手はアラブ系、プエルトリコ系、アフリカ系、東欧移民が入り混じるタクシー・ドライヴァーの深夜の数時間を切り取った秀作である。
 スパイク・リーが久々に放ったヒット作『インサイド・マン』にも「9.11」の影は濃厚だが、それはすでにストレートには表出できない要素だ。二つの国民を標榜しようとする黒人作家は商業性あるステージには立ちがたい。地下共和国への梁石日の熱いパッションが地下につながる坑道を大きくうがった。
週刊読書人2006.10.13

 ニューヨーク・アンダーグラウンド・リパブリック。つながりを持たない三語が得体の知れない地熱を発してくる。読み進めるうちに、梁石日ほどこのタイトルにふさわしい作家はいないと思わされる。久しく作者の魂の奥底に潜んでいた懸案のテーマがここに結実した。アメリカ、故郷を持たない旅人たちの停泊地。
 ポスト「9.11」のアメリカがこの小説のトピックだ。だが、作者はべつに「9.11」がなくても、これを書いただろう。たしかに「9.11」の現場近くに梁石日が運良く(?)居合わせたのは事実であるにしても、それは作家の宿命の星回りというべきだし、ましてやわざわざ事件後に「見物」に出かけて行ったわけでもないのだから。
 長大なこの小説の流れには、幾人かの主要人物が通過していく。十八の人種の血が混じった「世界中が自分の故郷」という不思議な男ゼムを始めとして、彼と対決する怪物めいた老ロシア・マフィア、その五十歳年下の妻でゼムとの身を焼く恋に落ちる女、イラク戦争に従軍し深く幻滅させられ政府に銃を向ける黒人男、テロの背後でひそかに進行した巨額のインサイダー取引を発見する証券マン。などなど。そこに、治安取締り側の人物、反体制側の人物がからまり合って、混沌とした支流をかたち作っていく。それらを細かく紹介していくと、とてもこの欄では足らないだろう。
 人物は仮装であり、小説の真の主人公は都市そのものなのだ。といっても本書は都市小説とかいった洒落たものではない。最も対極にある。本書が探るのは、都市――そのアンダーグラウンドに眠るカオスだ。地下の共和国を狂おしく夢見た者のみがこのカオスに招かれる。
 史上初の本土攻撃を受けたアメリカの「傷」は、当分は小説のテーマとなるだろう。グラウンド・ゼロの記憶もまだ語り尽くされてはいない。だが地下からの渇いた声が発されてきたのはこの作品をもって嚆矢とする。
東京新聞2006.10.15