金時鐘の時 

 小文集と銘打たれたエッセイ集『草むらの時』(海風社)が発刊された。詩人、金時鐘の近年の文業を集めたものだ。《落ち穂集のような小文集である》と詩人は、例によって含羞をあらわにしているが、どの小文においても「思想詩人」の頑なな立ち姿は明瞭すぎるほどに明瞭だ。金詩人に特有の、輻輳する論理と情感との波打つ紋様は、静かにそして執拗に流れては寄せかえし、読む者の怠惰な安寧を揺り動かさずにはやまない。詩人は日本と朝鮮とのはざまに立って言葉(日本語なのだが)を放つ、と構えて読むだけでは充分ではない。詩人の祖国である朝鮮は、植民地支配をはるかにこえる南北分断と「在日」とに分裂した歴史を引きずってきた。「在日」のなかにも分断はもちこまれ、そこに世代体験の落差が加わり、さらには、在住国日本からの差別同化融合という要素が重ねられる。そのように複雑に捩り合わされた民族精神と「自明に在日する日本人」との<距離>が、まずもって測られねばならない。距離をいたずらに「遠い」とか「深い」とか拝跪するような逆差別はしたくない。しかしこの民族精神の錯綜(日本人の責任はここにもかかわっているのだから)には、注意深く目を向けるべきだろう。
 わかりやすい例でいえば、「在日」にはいまだ許されていない公民権としての選挙権の問題。本書では三二七頁にかんたんに触れられているが、「在日」の内部での議論は複雑多岐にわたっていて、ほとんど日本人の理解を超えているような主張もある。それはそのまま詩人が発する言葉を過度に輻輳させる動因の一つでもある。
 全エッセイ『「在日」のはさざまで』から十年の歳月を経た。そこから洩れた文章も収録されているという意味でも、本書は詩人の単なる近況集として扱われるべきではない。例えば、死者に鞭打つかの苛烈なトーンを秘めた「金素雲追悼文」、幾重にも屈折した襞を通して語られた先駆的民族作家への苦々しくも愛惜にみちたオマージュである「金史良論」など。まさに《苦き遺産の開示》なのである。わたしはこれによって、自分が金史良をいかに浅く読み誤っていたかを、痛棒に打たれるように教えられた。いつか己れ自身の金史良論を書いて金詩人が問いかけた愛惜に答えることをしたい。

週刊金曜日1997.10.3