植 民 地 は 消 え 、 そ し て わ れ ら は 
  ――川村湊『満洲崩壊』をめぐって
              


 わたしが雑誌『文学』の「太平洋戦争下の文学・芸術」特集(一九六一年〜六二年)を寺町四条の古本屋で見つけてきて、勉強しだしたのは一九七五年ごろのことだったと思う。そこに収められた論考を中心に編まれた尾崎秀樹『旧植民地文学の研究』は、図書館で読 んだが、手元に購入することはできなかった。ほぼ連続してだったか、金允植(キムユンシク)の『傷痕と克服』を読み、そのなかの田中英光論と林和(イムファ)論にうたれた。あわてて『田中英光全集』を捜し出してきて、『酔いどれ船』を読んだ。そのときいくつか襲われた錯乱は今となってはなし崩しに散らばっているが、一つ明確に残ったことはある。――いつか、植民地文学をやらねばならぬ。という衝迫のようなものだ。そのころのわたしは己れの出自を確かめるに足る大きな文学的テーマを探し求めていた。見つからなければ書くことなど断念してしまえばいい。己れ一個が沈黙したからといって世界がそのぶん確実に貧しくなるわけでもない。見つけることなしに書かねばならぬ理由などなかった。といえば、格好つけすぎだろうか。植民地文学論はその岐路にぼんやりと姿を現わした巨大な幻影のようなテーマだった。
 無謀な投企に自分を投げこむことを阻んだ要因は、主として資料収集の問題だ。とても研究に要する資料を独力では集めることができないだろう予想された。基本行程がおぼつかなく気概とイマジネーションだけでは、文学研究は成立するわけもない。岐路のもう一方にあったのは、自分が「戦後日本というアメリカの植民地」に生を享けたことの意味を溯行していきたいというテーマだった。かんたんにいうと、わたしはこちらのほうを選び取り『北米探偵小説論』を書くことになった。両方選び取ることはまるきり不可能だった。以来、植民地文学論はわたしのなかで変わらぬ課題として生きつづけることになった。課題などというときれい事だ。一次作業を怠ってきたわたしの元には研究する材料そのものが集められていない。早い話が、植民地文学論はわたしのなかで二十数年前に断念されていたというのがより正確なところだ。
 したがって植民地文学論とは、いつまでたっても、他人の仕事の成果を楽しませてもらうページェントのようなものだった。何という悪趣味だろうか! あらためて見渡すと、一点だけ孤立して火を点したかの尾崎の仕事を継ぐものは、川村湊の一連の労作しかなかった。残念ながらこれしかなく、怠惰な観客には、スペクタクルを愉しむ機会がずいぶんと限られている。限られていればいるだけ、審美眼も底意地の悪いチェック機能も厳しく研ぎ澄まされて当然であるだろう。
 よその帝国主義国家の事情はともかく、わが故国は、植民地清算という世界史的過程にあって例外的に、血みどろの債務を払うことなく「無傷に」そこを通過した。敗戦によっていっさいの国外植民地を喪失したからである。まったく帝国主義は敗北してもタダではこけないという歴史の見本のようなコースだ。この能率性はわれわれの歴史意識をどんなにか歪め、狭隘なものにおとしめてきただろうか。じっさいは奪取されたのだ。奪われた屈辱に苦しまなかったことと引き換えに、責任意識を免れたのである。「あらゆる価値が転倒」した戦後日本において、われわれの植民地意識(正の意味であれ負の意味であれ)がどこかに消去されてしまったことは、状況の必然だったかもしれない。由来、植民地文学論という負の領域は、社会史からも文学史からも「抹殺」された。それ故、流れに逆らって出立する植民地文学論が第一に要求されたのは、消し去られた植民地意識を「時間の廃墟」から立ち上がらせることだった。一般の文学研究であれば、既存の環境があって研究者は一定のレッスンを経てからそこになじんでいけばいい。しかるに植民地文学論には、ふつうの意味の環境がない。ゼロではない。もっと厳しい。マイナスを埋めてまがりなりにも土壌を平らに馴らしてからやっと、他者に伝達しうる基本作業が始まるわけだ。植民地文学論の研究者は、それだけのエネルギーを要請されるのみではない。かかる面倒な行為にかれを駆り立てるものとはいったい何なのか、その根拠を明らかにすることも同時に要請されるのだ。
 幸いにしてしかし、植民地文学論が一人の孤立した営為ではなくなりつつあるような局面も、近年にはいくつか数えられている。岩波講座『近代日本と植民地』全八巻や、池田浩士『「海外進出文学」論・序説』などの強力な「援護」が配されてくる。川村自身の仕事も着実に点数を増やし、一般の支持を得てきているようだ。だが問題点は相変わらずある。植民地文学研究は、例えば、江戸期の町人文学を専攻したり、戦前の探偵小説を研究したりする選択コースと原理的に違う。……はずだ。これはモラルを、そして何よりも妄執を要求されるのではないか。
 小文のテーマはこのようにわたしに押しつけられた。川村の最新の成果『満洲崩壊』を素材にして、「川村に歴史のレヴィジオンから引導を渡せ」というのが、(わたしの年来の悪趣味をその炯眼で見破ったらしい)栗原編集長がわたしに渡した引導の中味である。ここまでがいささか長いマクラだ……。


 川村湊の植民地文学論に関する著作は、ここまで六冊を数える。『<酔いどれ船>の青春』(八六・十二)、『アジアという鏡』(八九)、『異郷の昭和文学――「満州」と近代日本』(九〇・十)、『南洋・樺太の日本文学』(九四・十二)、『海を渡った日本語』(九四・十二)、『「大東亜民俗学」の虚実』(九六・七)である。他の著作は、『異様の領域』『批評という物語』などあるが、むしろ植民地文学論専攻の研究者というイメージも強くなっている。書評コラムなどでの活躍も目立つが、その面をわたしはあまりカバーしきれていない。六冊を踏まえた新著『満洲崩壊』について、少数者の営為である点から客観的な儀礼は必要だろう。わたしという容れ物からは逆さに振ってもそういうものは出てこないので、ここは、池田浩士の書評「植民地文学批評の分野に新しい地平と飛翔」(『図書新聞』九七・十一・二十二)を借用する。池田は、川村の仕事が従来の植民地文学から新しい地平を克ち取っているとして、二点をあげている。一は、植民地体験・戦争体験をまったく持たない世代からの発語である点。それによって、戦後に書かれた「植民地文学」から逆照射するという方法が可能になった。二は、植民地支配や侵略戦争を「悪」とする前提にした研究パターンから植民地文学論を解放した点。
 そして評価は明確にした上で池田は、川村のこれまでの著作が《未発表資料の紹介、整理ないしは配列といった色彩を強く帯びすぎていた》と指摘する。そして、その研究がともすれば、外国文学業界などの「日常業務」と似て非なるものでありながらも、スタイルにおいてそっくりな退屈きわまりない論述に流れてしまっていることに《口惜しい気持ちをいだ》いてきたと続ける。そして『満洲崩壊』がこれまでの文献学的探索の平板な報告調から一段飛躍して、《ついに、川村湊にかれ自身の本来の語り口で語らせた》と評価を決定づけている。そして「花豚正伝」という章を例にあげて、川村の語り口の勝利もしくは飛翔を絶賛している。この「花豚正伝」の褒め方にだけはちょっと閉口するほか、わたしは池田の評価に、ほぼ全面的に同意する。人様の文章を借用しておいて「同意する」などと盗人たけだけしいといわれそうだが、ここまでは共通の認識ということにしていただきたい。そこを踏まえた上で、わたし自身の『満洲崩壊』論を積み重ねていきたいと思う。 『満洲崩壊』において重要な位置をもって触れられたテクストのいくつかをわたしも持っている。先に書いた『傷痕と克服』、全五巻の『小林勝作品集』、金文輯(キムムンチプ)の『ありらん峠』、松本清張の『北の詩人』など。本棚に並べているだけで、利用していないものもある。『ありらん峠』など大事そうに飾っていたが、それほど恐れ入った内容とは、川村の本を読むまで知らなかった。『北の詩人』あたり珍しくもないが、中公文庫版の他に角川文庫版があることなど知らなかった。
 川村のベストな論考は『<酔いどれ船>の青春』に収録された「東京で死んだ男――モダニスト李箱(イサン)の詩」だと思っていた。本編の田中英光論はまったく面白くなかった。田中英光というデーモン、植民地朝鮮に一瞬の光芒を放って咲いた毒々しい天使の像を、ほとんどとらえきれていない。何となく日本的にみみっちいデーモンだが、戦後文学が決着をつけていない項目であることに違いはない。夢野久作の猟奇歌に《人を殺した人のまごゝろ》という一節がある。それにならっていえば、植民地文学論の根底的なモチーフには、植民地主義者の「真心」がなければならない。「植民地を持った人の真心」である。反省とか贖罪とか(あるいは昨今はやりの)自虐とかではなく、誤解をおそれずいってしまえば、植民地を哀惜する心だ。もちろん植民地文学論に文学研究としてのニュートラルな地平を保証する作業は、池田のいうように、優先させられることが当然だ。しかしそのものを解放してやるなら、どこに解放してやるのか? いったいどこに? 本質的な問いを回避することはできない。プロパーな文学研究がしめる非政治的な場所などどこにもないことを、まさか池田のような原理的な政治主義者が失念しているとは思えない。植民地文学論をいたずらな贖罪意識から解放することは必要な作業ではある。しかしそのものはただちに「どこか」へか返還されなければならない。「どこか」という場について性急な定義はしないほうがいいと思える。植民地を持ち、他民族を蹂躙したという歴史は改変しようがない。われわれに流れるのは「侵略者の血」であるし、それを無化することも、ましてや解消することもできない。意識せざる非政治化は結局のところ、文学研究を頽廃させてしまうだけだ。といっていいすぎなら、植民地文学論という枠組みそれ自体が「趣味」のレベルに後退してしまう。『酔いどれ船』は、かつての植民地知識人のぐらぐらと目眩のするほど醜悪な日常を暴いた「記録文学」だ。かれはカレでなく、狂気の日本人のシルエットそのものだ。『オリンポスの果実』の作家なら文学史的に通過してしまってもいい。『愛と憎しみの傷に』の作家としてももう忘れられてもかまわないだろう。しかし『酔いどれ船』は違う。田中英光とは、じつに厄介な文学者だ。きわめて正当に葬り去ってやるべき存在なのだ。それができぬかぎり、われわれの植民地文学論は脆弱可憐な島国性にとらわれるだけではないか。
 川村の田中英光論は、植民地文学論のスタートとしてふさわしい対象を狙ったにもかかわらず、モチーフそのものを曖昧に流すような達成でしかないと思う。較べて、付録のようにつけられた在日朝鮮人詩人の短い生のデッサンは、よりいっそう著者の資質を自由に開花させているように読めた。このおかしな対称は、長く川村という書き手にたいするわたしの不審として残っていた。
 『アジアという鏡』の問題意識にもほとんど共感しえなかった。「〜という鏡」という認定そのものが相容れないと思った。たぶん、この時点と現在の川村の立脚点とはかなり隔たりができたとも推測できる。何がどうとか、細かい分析は避けるが、変容(あるいは転向というべきか?)は川村のなかにあるのだろう。ただわたしは池田のようには、『満洲崩壊』が川村のスタイルの飛翔だという手放しの評価はできない。
 『異郷の昭和文学』を、川村は、一種のブリコラージュと自己規定している。乏しい資料と貧しい調査をもとにした、ありあわせの手仕事だ、と。長いことわたしは、ブリコラージュを「不器用仕事」と記憶していた。これを書くために調べなおすと、器用仕事になっていた。不器用仕事と取り違えたのは、やはりそれなりの読後感に引きずられてのことだと思う。事実上の植民地文学史論は、この作品から始まったというふうに理解していた。ブリコラージュ=不器用仕事が進行していくと「観客席」から眺めていたのだ。「不器用仕事」と規定するのはむしろ褒め言葉だと考えてもらいたい。『満洲崩壊』もまた、こうしたブリコラージュの延長に産された仕事である。
 良くも悪くも川村の方法は、実感主義に縁取られている。甲羅のなかから慎重に獲物を狙っている亀のようなところがある。決して華麗な論理の舞いを見せてくれるわけではないが、ショットは確実である。熱狂がまったくないわけではない。対象に食らいつくことに夢中になると、伸ばした首のぶんだけスキができてしまう。植民地文学論も、かれにあっては、フィールドワークの側面が強くある。或る種の体験に遭遇することがなければかれは植民地文学の研究者にはならなかっただろう。韓国に教師として赴き、暗い図書館のなかに日帝期の膨大な文献が眠っているのに出会ったことが、自分の出発点だったと川村はくりかえしいっている。植民地時代の時間のエアポケットに落ちこんでしまったということか。この体験がなければかれは、べつの道を選んだに違いない。月並みにいってしまえば、これは川村の仕事の強みであるとともに、最大の弱みでもある。弱点として露呈した一番の例は、田中英光論だ。八十年代の韓国に滞在した個人的な体験が、植民地文学者の狂気の舞台を矮小化してしまっている。「『酔いどれ船』は自分にとって他人事とは思えなかった」というのは制作モチーフとしては初歩的にすぎる。体験主義で対象との距離を埋めることは必要な行為かもしれないが、過信されるべきではないだろう。実感を引きこむだけ非歴史性があらわになってしまうのだ。そしてこれこそが、植民地文学を偏向した贖罪意識から解放してやる、という内実である。この場合の川村の欲求は、たんに実感に依拠することだけであって、歴史にたいしては無自覚さを露呈してしまうのだ。いうまでもないが、植民地文学論にとって歴史の無化は致命的な失策につながりかねない。
 『満洲崩壊』が、池田のいうように、川村のこれまでの仕事に一線を画しているのは、フィールドワーカーの地の文の報告スタイルをとっているからだ。時間の溯行ばかりではなく、地理的な移動でもある。かつての大東亜共栄圏の跡をたどり、いま発掘せねば二度と歴史の表面には現われないかもしれない植民地文学者を追跡する。研究の基礎作業を終え、フリースタイルの自己表現の沃野に出て行こうとしている感動はたしかにある。眠気を催すほど退屈な発掘資料の「講義」ではなく、ニュージャーナリズムふうの文体も取り入れられている。例えば、《案の定、彼の本は『肉体の山河』と『花の海』しかなく、私はわざわざ北海道まで飛行機で飛んできた自分の気紛れを呪おうと思った》とか、《……の四冊が出ているが(たぶん彼の著書はこれだけだろう)、苦労して手に入れたわりにはその小説は面白くも、タメにもならないのである》とか……。著者の素顔が洩れ出てくる行間に安堵する。
 さらには、各章がそれぞれ一個の独立した作品として楽しめることも指摘できる。「花豚正伝」「林和別伝」「小林勝外伝」「蒙疆の人」「樹海の人」とつづく中盤は、とくに面白く読めた。一個の性格破綻者の朝鮮人親日文学者の生涯を追う「花豚正伝」は、なかでも傑作だ。ブラックユーモアあふれる短編小説のような仕上がりである。ただ注意しておきたいのは、これが方法的には「東京で死んだ男」の踏襲となっている点だ。とくに新しい地平を克ち取ったというのではない。文学史上ではおそらく数行の記述しか要求されないだろう泡沫的な存在。しかもかれらは植民地支配の時代に悲喜劇を演じたゆえの烙印を背負って断罪される名前でしかない。そのエピソードを語るとき、川村の筆はもっとも冴えるようだ。かれらに作者は己れの似姿を見出しているのだろうとか失礼な深読みはしないが、作品評価とはまったく別として、いくらかの興味を引く事柄だ。
 それらを認めた上で、二点だけ批判を試みる。断っておくが、二つともどちらかといえばそれほど本質的な論点ではない。いいたいことは先にあるが、こちらを先に片付けてから進みたい。
 一つは、スタイルの問題。批評は《自由な語り口を持つべきであり……小説、伝記、紀行文仕立て》など、多様なスタイルを試みたと川村は、あとがきで書いている。フリーエージェント宣言みたいなものかと思うが、「批評という物語」という身振りはまったく支持できない。原則的なことだけをいっておく。フリースタイルの評論を試みることは、たんにテーマの捕捉をルーズにするという結果を招くだけだ。いや、スタイルとテーマ把握とはじつは関連はないというべきである。スタイルを闊達にすること自体はたんに形式上の問題にすぎない。だがそれによってテーマの深化が疎外されることはしばしば起こりうるだろう。批評もまた盲目で気まぐれな作業であって、恣意的にスタイルを引き回したりすると、ほんらい捕らえるはずだったテーマを取り逃がすおそれがある。作者はあまりにナイーヴにしかそのあたりを計算していなかったようにも読める。成功よりも失敗のパーツが際立ってしまう。失敗した部分が多いとか目につくとかいう意味ではない。一行だけのキズであっても致命傷になりかねないという意味だ。多様なスタイルは必ずしもこの書物に豊かな結実をもたらせたわけではないと思う。
 「蒙疆の人」「樹海の人」が、紀行文に錬成されたスタイルで成功しているのは、もともと植民地文学研究が時空の旅とでもいった質の調査を含まざるをえないからだろう。文献の掘り起こしにとどまらず、歴史の特殊なタイム・トラヴェルであるからだ。それが作者の資質ともっともマッチしているからでもある。批評もまた自らの全能を求める形式だ。作者が楽しみながら書いている質感は、読者をも解き放ってくれる。
 「林和別伝」はどうであろうか。『北の詩人』の代作説をほのめかしながらも否定し、その謀略小説的骨格に松本清張史観の一貫したモチーフを読み取ろうとする強引な論旨も悪くない。ただ「粛正された詩人」という歴史的に確定した像をいささか間延びさせて引き延ばしすぎているようにも感じた。林和と中野重治との対比から下される結論が凡庸なのでいっそうその感が強い。両者の「詩人と革命家」の葛藤について重要な洞察を探り当てかけながら、それを手の中でごにょごにょといたずらに弄ぶことに終わっている。叩き台にした『傷痕と克服』の「林和研究」が提起した問題を後追いするにとどまっているのだ。
 また「小林勝外伝」の、自らの青春とパラフレーズさせる形で、非命に死んだ一人の文学者の生を浮き彫りに書き進める形式も悪くはない。好みをいえばきりがないが、一般的なレベルでは是認しうる。小林の死後、「ある作家への愛とエレジー」と副題されたミザリーなモデル小説が出現していたとは知らなかった。教えられた。ほぼ結論にあたるところで川村は書いている。

   「真っ向から正眼に構えてひたむきに追求」すればするほど、小林勝の「朝鮮」は現実の朝鮮・朝鮮人から解離し、遊離していったという悲劇は、小林勝一人の問題ではなく、日本における「朝鮮」への関わり方そのものに内在する偏りであるように思える。「贖罪意識」から出発する小林勝のような、進歩的で、革命的、そして反体制的な知識人の陥る罠がそこにあり、小林勝という小説家は、その一つの典型的な例だったのではないだろうか。

 とする評価も、小林勝とはそれを大きくはみだすことのなかった書き手だという限定においては、是認する。もう少しナンとかいいようがないのかネ、とは思うが。
 ここに川村の基本的なスタンスがある。そして進歩的知識人の虚妄をつくという点では、それほど新味のない考察でもある。おそらくここには五重六重もの論理の詐術がある。川村が自覚的に「革命的文学者」の概念的贖罪意識を批判するレベル以上に深く、いくつもの議論の水準がここには交差している。日本と朝鮮、かつての帝国主義本国と植民地、その歴史と現在への決して公式化・平準化しえない逆巻く怨念と無告の声がこだましている。小林勝は典型ではない。小林勝ていどを典型にあてはめて事足れりとしている貧しき日本文学の「典型」があるばかりだ。こうした認識を指して、「植民地文学論を贖罪意識のたてまえから解放した」と位置づけることはできない。いっけんものわかりのいい位置づけであるが、「どこに」という議論が決定的に欠落している。むしろ暴かれるべきは川村の議論に内在している詐術の構造なのである。個別の川村の論調が問題なのではなく、これでなんとなく腑に落ちてしまうようなレベルが困るのだ。確かに左翼スコラ論争の消耗な泥沼からは解放されたかもしれない。しかし「どこに」また「だれに手渡すか」という方向なしには、このものはまたしてもうらぶれた別種のスコラ論争の汚穢のなかに転落していくばかりなのではなかろうか。
 問題は変わらずに、スタイルではない。批評の標的が問題なのだ。批評が実感主義の砦であったり、進歩的文学者の良心の形式性を嘲笑するための愛玩物であったりすることは、本質には関わらない。批評そのものが対象をとらえつくすことが問われている。「批評という物語」はフリースタイルをとることによって気まぐれを気取っている。小林勝批判は紋切り型にすぎないが、それを川村は装飾でごまかしているとも読める。
 二点は、スタイルとつながるが、著者の筆のすさびの逸脱が気になるところである。ちょっと我慢の限界を越えるパートがある。
 「満洲離散」の章の「ある建国大生の日記」の項目はとくにいただけない。パロディのモチーフがまったくつかめない。読み流して片付くようなことではない。べつにモラルで弾劾するといったレベルのことではない。たんに不細工でどうしようもないといっているだけだ。安彦良和の『虹色のトロツキー』が眩しかったのか。『虹・トロ』をパロッたにしても、何か惨めったらしくて気がかりだ。
 スタイルの闊達さはこの書にかえって不透明な効果しか与えていない。結論としてそう読める。成功は散文家としての川村の才能を広げるかもしれない。そのことはまったく否定しない。だがそれ以上に、わずか一行の逸脱でもモチーフの喪失まで作者を迷わすところがあるように危惧されるのだ。『満洲崩壊』崩壊である。いくつかの章の結語の部分でそれは看過しえなかった。たんにレトリックが空転しているだけなら、それでいいのだが……。

   この小特集こそ、私にとって満洲のいずこかの土地に埋もれている(と思われる)建国神廟の御神体と同様、満洲国崩壊とともに姿を隠した幻の宝物にほかならないのである。――64P

 見つけようとして発見できない文献との対比だが、大仰な修辞がイヤミだ。そして気のきいた対位法のイメージのつもりが、書き手の歴史意識のいいかげんさをはからずも丸出しにしてしまった。

   藤山一雄にとっては、満洲国も「新世界」も千年王国も、一つの遊園地であり、博物館であるという考え方が、どこかに潜んでいたのではないか。遊園地国家、博物館国家としての満洲国。私のこうした言い方は、歴史に対してあまりにも不謹慎なものだろうか。――92P

 最新の満洲文学として村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』を論じた章のシメなのでこうなるのか。確信犯として不謹慎を貫徹せずに、おずおずと「不謹慎でもいいかしら」とお伺いをたてるところが著者の個性であるようだが、これではたんに何をいいたいのか不明瞭というだけだ。むかし磯田光一という「文芸評論家」がいて、この手の歴史相対主義の胸クソの悪い対位法を連発していたのを思い出す。
 磯田的ロマネスクとしては次の用例もある。

   ……結局、彼は共産主義というイデオロギーに“植民地化”された社会においてスパイとして処刑された。――197P

 ナンジャこれは。この「植民地化」の用例は、植民地文学論にとって致命的な判断停止であるように思うのだが。いかがか? 比喩として出来そこないだがら余分に無様だ。磯田の変態的アクロバットの手口はカードのシャッフルの仕方一つでも、それなりに芸にはなっていた。川村の手つきは進退きわまって見え透いたズルを仕掛けてくるようなところがあるから芸にもなっていない。まだ可愛らしいとはいいたくもない。窮余の策で磯田的図式のカードを袖口から引っ張り出してくるような不細工なことはいいかげんに止めてもらいたい。
 これらはべつに粗さがしの結果ではない。批評の主体の軸がブレているから、こんな腰の定まらない思いつきが出てくるという証拠品だ。
 例示した三つのセンテンスは、まあ抹消してしまえば気にならないといった類いのものだ。少しくらいシャレた技でフィニッシュを決めようとしたら、引っくり返って醜態をさらしたというところか。無骨で迫ってくれるほうが観客としては白けないで済む。
 『満洲崩壊』は、一話完結の連作リレーの体裁をとりながら終盤にかけて長編評論の骨格の全体像を見せていく。まがりなりにもテーマの発見である。発見とは、なぜかれがこのようにも植民地文学論に偏執的にかかわるのかという根拠を疑いようもなく見出すことにかかっている。この根拠にふれることを川村はこれまで細心に避けてきたように印象される。あるいは、根拠は自明すぎて問われるべくもないという具合に、巧妙に瞞着されてきた。いささか人並みでない旧植民地との交渉という実体験から研究の道に踏みこんだと、かれは折りにふれて「根拠」を明示してきた。そしてすぐに亀のように頭を甲羅のなかに収めてしまう。甲羅は硬く頑丈だ。しかしそれは正確にいうと動機にすぎない。長い歳月をかけた文学研究を深みから支える或るデモーニッシュな人間の衝動をきっぱりと説明するものではない。思い出したように動機が語られると次には退屈な「講義」がつづくというわけだった。『満洲崩壊』は根拠の追跡まで降りてきている。降りざるをえなくなったともいえる。これは語り口の自在さとは関連を持っていない。むしろ語り口のノンシャランスという自己欺瞞の装置を打破してまで根拠を問わざるをえない深層に著者は立たされたのだ。批評のそれ自体の力だと思う。植民地文学論が要求する狂気の片鱗に川村はおそらく初めて突き当たったのかもしれない。
 なぜいったい自分はものを書くのか。これはおよそ不条理な名状しがたい問いだ。この問いに鷲掴みにされたことのない書き手に幸いあれ。そうした者らの書くものはわたしにとってほとんど白紙に等しい。
 根拠の発見について、ようやく論じられるところにきた。


 雑誌連載時の終章「大地の人」は五味川純平『人間の条件』と山崎豊子『大地の子』を扱っている。発見はここに端緒をつくっている。植民地の子弟。戦争も植民地も知らない。訪れた場所は歴史の遺跡であり、渉猟した文献はすべて歳月の埃をうずたかく積み上げている。考えてみれば当たり前の自己認識である。なぜここに思い当たらなかったのか。自明すぎてかえって盲点をつくっていたのかもしれない。とにかく一回りめぐって川村はその痛切な認識に対峙させられていったと思える。だが歴史を弄びたい思考が完全に排除されているわけではない。著者は、『大地の子』を「父と子」の感動の物語とし、それが書かれた当時、日本では《偉大なる「父」の死》が進行していたことに注意を向ける。ヒロヒトの大喪に「大衆」が代替物を求めたとかいう俗耳に響きやすい議論だ。またウソダ・ズルイチをやりだすのかと鼻をつまみたくなったが、幸いなんとか軌道は保たれた。「大地の人」の結語は次の通りだ。

   戦後文学において、「満洲」が、あるいは「大東亜」と呼んだ日本の植民地、占領地を舞台とした優れた小説が、あるいは文学が決して多くないのは、体験や知識や関心の不足ということだけでなく、「戦後」という精神空間そのものが持つ歪な性格のためであったように思う。それは『人間の条件』と『大地の子』という「満洲」体験を描いた二つの長編小説を「戦後文学」の問題として考えてこなかった私たちの問題として今も残っている。

 ――このように川村の植民地文学論が獲得した地平はしごくまっとうに正当である。このような正論に疑いをぶつけるなら、こちらの人格を疑われることになるだろう。しかしまあ。……なおわたしは依然として不審を消し去れないのである。この取り澄まし方が何か演技のように感じられてならないのだ。わたしの不審は依然として、この結語が一種の紋切り型に聞こえるところから発する。
 さて戦後という偶然に生を享けたわれわれは何をすればいい? 川村の田中英光論への不満はすでに書いた。また英光の実子のSF冒険作家田中光二の書いたレクイエム『オリンポスの黄昏』にも不満である。狂いまわった荒涼天使のシルエットは戦後日本の時空には解き放たれていない。われわれのDNAには侵略者の血がめんめんと流れている。謝罪や忘却によってそれは贖われるものではない。植民地を奪われた者の無念というテーゼは戦後日本には発生していない。そしてわれわれの生きる戦後社会も著しい変容を被っている。植民地文学論への正当な視座も、したがって、不動ではありえない。新たな植民地再編というプロセスは、世界システムのなかで、かたときも静止しない。旧植民地文学論の立脚点がそのものに無縁であることはできない。たしかにわれわれの植民地文学論は数十年遅れのハンデを背負っている。しかしだからといって、少数者の孤立した営為をそれが少数の栄光に属するという理由のみにおいて過大評価することはしたくない。儀礼はかえって少数者にたいしての侮辱ですらあるのではないか。
 書き下ろしのエピローグ「ワタクシドモ ハ マンシウ ノ コドモ デス」で、作者は、満洲映画の実務者の赤川幸一という人物にスポットを当てる。現代日本随一の人気作家赤川次郎の父親である。戦後の赤川の個人史が辿られる。父親の落魄と家庭崩壊などの事例に女房的リアリズムのレンズを当てたあと川村は書いている。

   父親不在、あるいは意図的な父親の存在や欠落や無視が赤川次郎の作品世界の特質、特徴であることはこれまでにもいく人かの論者が指摘している。それは敗戦や植民地の喪失によって、それまでの家父長的な権威さえも喪失してしまった日本の「父親」たちの、戦後における存在感の希薄さということに通じているのであり、その意味で赤川次郎の小説は、まさに「戦後文学」という刻印を押されている。彼がその半自伝や年譜や作品世界から「父親」というものをまったく消去しようとしていることこそ、「満洲」という戦前・戦中に拘わったその「父親」の逆説的な「大きな影」の存在を物語るものにほかならないのである。

 赤川次郎論としてはいささか強引でエキセントリックな立論だが、これを川村自身の位置の確認というふうに了解すれば、違和感なくハラに収まる。そしてこれは同時に、『満洲崩壊』全編の結語である。――つまり川村は赤川という個別ケースに仮託して己れの出自と発語の根拠を確定しているのである。赤川における「父親像」の消去こそ満洲という父性の逆説的な巨大な影だ、という主張が妥当かはとりあえずはどうでもいい。満洲という赤い沃野に囚われているのは他ならぬ川村自身なのである。引用部は、そのことの批評家的な告白として読むのでなければ実りは薄い。かれはいっているのだ、ワタシハ満洲ノ子供デス、と。批評家とは余人の思いもつかぬ形式において自己を吐露するものだ。また思いもつかぬかたちを借りなければ告白すらできぬ者を批評家と呼ぶともいえよう。これはどうにも自己破滅的な自己認識であると考えられる。初めてかれは、慎ましい文学研究者としてではなく、植民地のデーモンにとらわれた者として己れを語ったのである。これが断固とした地平なのか、あるいは甲羅から少しだけ首が伸びすぎてしまった結果なのか、依然としてわかりにくいのだが……。しかし一つだけはいっておこう。――いずれかれはそのような奈落から退却できなくなる。そこに自分を突き落として発語することを強いられるかもしれない。
 特殊日本帝国の脱植民地化過程を体験した戦後の子弟が、植民地体験を、植民地責任をわがものとフィードバックさせるためには尋常な方法なんてない。われわれの植民地の物語はその血ぬられた姿を全面的には現わしていない。脱植民地化過程の暴力性をわれわれはどんな局面においても経験していない。われわれはそれだけ歪んだ自画像しか持っていない。過去の抑圧民族は今日も変わらず抑圧民族だ。だがいずれにせよ被抑圧民族はいつの世界システムにおいても絶え間なく「生産」されていく。一国内にも一国外にも。植民地文学論の負の遺産はかれらに向かってこそ解放されねばならない。

レヴィジオン1号 1998.6