『民族主義・植民地主義と文学』は、アイルランド小劇場運動のために書かれた合本だ。著者は、テリー・イーグルトン、フレデリック・ジェイムスン、エドワード・D・サイード。テーマの視角はジョイス論やイェーツ論を中心にしている。だが三人の論客が揃ったところから、アイルランド文学から見た第三世界文学論の地平はかちとられているようだ。
読みながらしきりに思い出されたのは、約二十年前の『現代アラブ文学選』だった。そこで知ったパレスチナの詩人マフムード・ダルウィーシュの名がエメ・セゼールやパブロ・ネルーダなどとともに引用されていたからだ。これらの事項がつくる「幻想の地図」がぼんやりと像を結びかけてくる。しかし手に掴もうとするとそれらは四散する。植民地主義文学もポスト・コロニアリズムも所詮は「輸入的教養」なのか。『ユリシーズ』は歴史的矛盾に向けての一つの大がかりな芸術的調停なのだ、とイーグルトンはいう。
《『ユリシーズ』の美学は、この意味で、かなり標準的なヘーゲル的素材であり、とりわけ、追放者の苦しみに相応しい償いである》。これはおおむね他の二人の著者にも共有されている認識であるようだ。
じつにわれわれの風土は植民地を喪って久しい。敗戦によって植民地を根こそぎ奪われた経験を誤用し、植民地を持ったという記憶とと反省すらも昇天させてしまった。その結果、戦後において、西欧帝国主義がたどった脱植民地化過程をすべて免れることになった。なにしろ身ぐるみ奪われてしまったのだから。そして、ついでに歴史的反省まで免除してもらったわれわれである。植民地主義文学論は完璧に輸入文化に化した。これは奇怪な風景ではないか。
帝国本国のグローバルで「普遍的な」生活世界と、植民地都市の人工的な風景の隔絶。モダニズムの発生もまたその〈中枢-従属〉構造の絶対的分裂に根を持つものではないか。そうしたものもまた、西欧文明の「遺産項目」として学ばなければならないのだとすれば、じつにそれは奇怪な精神風景だろう。ここに「越境する世界文学」への、ポストモダンな、勤勉きわまりない興味が加えられる。それはいっそう非歴史的な「文化」の滞積なのだ。週刊金曜日1997.4.4