半ば蔭の女

 ゾラ・ニール・ハーストンは長いあいだ黒人文学史の困難な項目の一つだった。その名にほとんど初めて接したのは十五年ほど前。『北米黒人女性作家選』の一冊『語りつぐ』のなかのハーストン論「半ば蔭の女」においてだった。多くのアフロ・アメリカンの女性作家たちが先覚者として惜しみない賛辞を寄せるハーストンの像は必ずしも鮮明でも説得力があったわけでもない。ハーストン自身による主要作品の紹介が伴わなかったからである。
 近年になってようやく紹介が評価に追いついてきたようだ。作品集三巻(新宿書房)の完結が間近いし、黒人フォークロアの採集編として名高い代表作『騾馬と人』の完訳版に加えて、これも名のみ高かったロバート・E・ヘメンウェイの文学的伝記ゾラ・ニール・ハーストン伝が相次いで出た(ともに中村輝子訳、平凡社)。
 ヘメンウェイの伝記は、いかに後世がこの文学者の生涯と作品とを不公平に判断する材料にしか恵まれていなかったか、を痛感させてくれる。彼女の作品は――こういってよければ――自らの民族の共同体によって先ず審判を受けてしまったのだ。後代の作家たちのオマージュの豊饒さも、結局は、ハーストンの作品そのものによって証明される必要があった。ヘメンウェイの伝記は、例えば路上の砂塵が白人の出版社によってどれだけの検閲(事前と事後)をこうむったかを実証する。白人向きに口当たりのいいスタイルを選ばされただけではなく、逸脱した主張は容赦なくカットされたという。読者はハーストンの全体像を視野に入れることから妨げられているのだ。ただ、彼女の複雑な個性が損傷を受けるかたちで、晩年に政治的保守主義と結託していくことに悲劇をみるなら、それにたいするヘメンウェイの考察は表面的すぎる印象を持った。
 なおアリス・ウォーカーが寄せている序文の末尾は、彼女が書いた散文のうちでも最高に力強いものだ。《わたしたちはひとつの民族だ。民族はその生来の才能を打ち捨てない。もしそうするなら、わたしたちの子供たちのためにもう一度集めるのが、未来の証人としてのわたしたちの義務である。必要ならば、骨を重ねてでも》
 必要ならば骨を重ねてでも、ハーストンの文学は、解き明かされねばならない。

『彼らの目は神を見ていた』
『騾馬と人』
『ヴードゥーの神々』

                            週刊金曜日1998.1.9