ミステリ概観 2001年 一つの作品によって時代が予見されることはそう簡単には起こりえない。しかし、本年度をふりかえってみると、年頭に梁石日『死は炎のごとく』(毎日新聞社)が置かれていることは何か象徴的な意味を感じさせるのである。在日朝鮮人青年による韓国大統領狙撃事件は、二十数年後の現在にいたるまで「現代史の闇」に封印された事件だ。作者は事件を解説するのではなく、今も変わらぬ在日の状況からの雄叫びのように作品を呈示している。そこに描かれたテロリストの決起は特別の行動ではないのだと訴えられる。
9.11を境に、世界はすっかり変わってしまったのではない。だが、テロリズムという言葉の意味は、多くの人びとの共感を離れていった。数えてみると、トム・クランシーの作品(共著も含めて)が八冊も翻訳されている。それらはほとんど、世界貿易センタービルとペンタゴンへの攻撃以前に刊行されているが、『細菌テロを討て!』(二見文庫)のように十一月刊の「時宜を得た」ものもある。
元SAS(英国特殊部隊)の作者によるアンディ・マクナブ『クライシス・フォア』(角川文庫)も、テロの衝撃が醒めやらぬ時期に「緊急出版」された。なにしろ小説には登場しないビンラディンの名が登場人物表に載っている(彼の副官は出てくるけれど)。誤解を招くといけないが、作品そのものに便乗性はまったくない。むしろテロリストを狩る側の特殊部隊員の虚しい内面を浮かび上がらせた点で、特筆されるべきだろう。
――なにやらキナ臭い書き出しになってしまったが、本年度のミステリがとりわけ状況を色濃く反映しているわけではない。むしろ逆で、現実とは別個に「ミステリの王国」がますます堅固につくりあげられている、といったほうが正確だろう。ただ、かつて謀略スパイもののパターンとして使われた図式が現実世界に爆発的に現われたことの影響は、今後書かれる作品に深い影を落としてくると、一点だけ、指摘しておきたい。そのパターンとは、アメリカが自国の戦略にしたがって育成した「戦士」を方針転換によって切り捨てた時、裏切られた戦士はテロリストとしてアメリカに敵対せざるをえなくなる、という筋書きだ。これはシルベスター・スタローン主演の『ランボー。 怒りのアフガン』などを思い出してみると明らかだろう。あの映画では「自由の戦士」と讃えられていた勢力が、今回のテロの首謀者とみなされ、徹底した報復の標的になったのだから。
ミステリの王国に目を向けよう。
全般的にいえば、ミステリ・シーンの嗜好は多極化しているし、今後ともこの傾向はさらに加速されていくと思える。多極化の顕著なあらわれは、ここ数年ですっかり定着した、黄金期(もしくはそれに準ずる時期)に書かれた旧作の新訳だ。本格ファンによってすら曲者あつかいされていたアントニー・バークリーは、『最上階の殺人』(新樹社)、『ジャンピング・ジェニイ』(国書刊行会)の二冊を数えた。ニコラス・ブレイク『死の殻』(創元推理文庫)、G・K・チェスタトン『四人の申し分なき重罪人』(国書刊行会)など、翻訳ミステリの少なからぬ部分がこうした「年代もの」で占められる。カーター・ディクスン『第三の銃弾』(ハヤカワ文庫)は、エラリー・クイーンによる簡約版には割愛されていた部分をおこした完全版だ。ドロシー・L・セイヤーズも『顔のない男』『学寮祭の夜』(ともに創元推理文庫)で、全作品紹介に近づく。他には、ヒュー・ウォルポール『銀の仮面』(国書刊行会)や『M・R・ジェイムズ怪談全集1・2』(創元推理文庫)などの周辺作品がある。
ジム・トンプスンも再評価が目立つ書き手だ。『アフター・ダーク』(扶桑社)には、「安物雑貨屋のドストエフスキー」という高名な作家論が、併せて紹介されている。
年代もの嗜好は国内ミステリにおいても無視しえない勢いをもってきている。土屋隆夫、多岐川恭、天藤真、鮎川哲也などの復刻に加え、本年逝去した山田風太郎の選集十巻(光文社文庫)がある。小栗虫太郎『二十世紀鉄仮面』、福永武彦『加田伶太郎全集』(ともに扶桑社文庫)も出た。他に、飛鳥高、岡田鯱彦、楠田匡介などマイナーな物故作家の一冊コレクション(河出文庫)も並んだ。
簡単にいえば、こうした時代を異にする作品が、歴史をとびこえ、新作と同列に並び、かつ消費されているという事態が昨今の常態となってきた。読者にとって、黄金時代の新訳も、入手しにくかった国内作品の復刊も、いわば新作同様に読むことができる。こうした多様な嗜好は決して新作への飽き足らなさのあらわれではないだろう。しかし新作を追うことのみでは概観が得られないこともまた事実なのである。
翻訳作品で注目されたものをあげる。ロバート・ゴダード『永遠に去りぬ』、R・D・ウィングフィールド『夜のフロスト』、ジル・マゴーン『騙し絵の檻』(以上、創元推理文庫)、カール・ハイアセン『トード島の騒動』(扶桑社文庫)、トマス・H・クック『心の砕ける音』、D・E・ウェストレイク『斧』(ともに、文春文庫)、ジョージ・P・ペレケーノス『曇なき正義』、ジョン・ダニング『深夜特別放送』(ともに、ハヤカワ文庫)、クライブ・カッスラー『アトランティスを発見せよ』(新潮文庫)などおなじみの作家。ブライアン・ホッジ『悪党どもの荒野』(扶桑社文庫)、マイケル・フレイン『墜落のある風景』(創元推理文庫)、エリック・ガルシア『さらば、愛しき鉤爪』(ソニー・マガジンズ)、ボストン・テラン『神は銃弾』(文春文庫)、デイヴ・バリー『ビッグ・トラブル』(新潮文庫)などの初紹介作家。英米以外では、テア・ドルン『殺戮の女神』(扶桑社)、ジャン=クリストフ・グランジェ『クリムゾン・リバー』(創元推理文庫)。
ホラーでは、アンドリュー・パイパー『ロスト・ガールズ』、ジョー・R・ランズデール『ボトムズ』(ともに、早川書房)、レイ・ガートン『ライヴ・ガールズ』(文春文庫)、S・P・ソムトウ『ヴァンパイア・ジャンクション』(創元推理文庫)など。
なお翻訳ものから、あえて共通テーマを引き出すなら、それは「歴史」だ。D・L・ロビンズ『鼠たちの戦争』(新潮文庫)、M・A・コリンズ『リンドバーグ・デッドライン』(文春文庫)、スティーヴン・ハンター『悪徳の都』(扶桑社文庫)、ジェイムズ・エルロイ『アメリカン・デストリップ』(文藝春秋)と、アメリカ作家の作品を並べてみると二十世紀のいくつものエピソードが巻き戻されてくるだろう。デイヴィッド・リス『紙の迷宮』(ハヤカワ文庫)、ピーター・アクロイド『切り裂き魔ゴーレム』(白水社)、W・J・パーマー『文豪ディケンズと倒錯の館』(新潮文庫)では、さらに時代をさかのぼる。ドナルド・ジェイムズ『凶運を語る女』(扶桑社文庫)には暗鬱な近未来が描かれる。
国産ものに目を移せば、「本格ミステリ大賞」の発表など、謎解きタイプの伸張が著しい。この傾向では、山田正紀の復古的大作『ミステリ・オペラ』(早川書房)と島田荘司編『21世紀本格』(光文社)の二冊によって動きを集約することもできるが、あまり過剰な意味づけは慎もう。ただこれは前記の復刻の定着と重なってくる現象だろう。ミステリ・ブームは一方では、「何がミステリなのか?」という混乱を読者に引き起こしてもいる。その点、最も純度ある主張は昔ながらの謎解き派によってなされているわけだ。『有栖川有栖の本格ミステリ・ライブラリー』、『北村薫の本格ミステリ・ライブラリー』(ともに、角川文庫)のアンソロジー二冊によってその答えを得る読者も多いだろう。二階堂黎人、森秀俊共編『密室殺人コレクション』(原書房)も、まだまだトリックは尽きないと語っているようだ。
さて一つの傾向を重視しすぎるわけにはいかない。『ミステリ・オペラ』と並ぶ大作をあげよう。一大ブームを起こした宮部みゆき『模倣犯』(小学館)、国産スパイものに新機軸を入れた麻生幾『ZERO』(幻冬舎)、近くて遠い隣国を冒険小説の舞台にとりこむことに成功した黒川博行『国境』(講談社)。
他には、木谷恭介『世界一周クルーズ殺人事件』(角川春樹事務所)、北方謙三『擬態』、船戸与一『新宿・夏の死』、大沢在昌『闇先案内人』(以上、文藝春秋)、東直己『探偵は吹雪の果てに』(早川書房)など。また柴田よしき、森博嗣、吉村達也といった人気作家は相変わらず精力的に作品を量産している。女性作家では、小野不由美『黒祠の島』(祥伝社)、恩田陸『黒と茶の幻想』(講談社)。新人もしくは新鋭では、石田衣良『赤・黒』(徳間書店)、奥田英明『邪魔』、舞城王太郎『煙か土か食い物』(ともに、講談社)、戸梶圭太『なぎら☆ツイスター』(角川書店)、青井夏海『赤ちゃんをさがせ』(東京創元社)。また江戸川乱歩賞受賞作、高野和明『13階段』(講談社)も広い人気を呼んだ。二つの出版社が共同することで話題になった「ホラー・サスペンス大賞」の第一回は、黒武洋『そして粛正の扉を』(新潮社)に決まった。
謎解きもの以外でもアンソロジーは盛んだ。ミステリー文学資料館編による『探偵文藝』などの雑誌傑作選(光文社文庫)、井上雅彦編による『異形コレクション綺賓館』シリーズ(光文社)などがある。
評論その他では、笠井潔『ミネルヴァの梟は黄昏に飛びたつか?』(早川書房)、野崎六助『これがミステリガイドだ! 1998−2000』(創元文庫)。末永昭二『貸本小説』(アスペクト)は、ミステリのみを扱っているのではないが、大衆文化の一側面に照明をあてる貴重なフィールド・ワークである。文藝年鑑 2001年版 新潮社