新津きよみの秘密
さあ、新津きよみスペシャルだ。
これまでいくつものアンソロジーに収録された作品を中心にした本書は、もう一冊の「ザ・新津きよみグレイテスト・ヒッツ」といえるだろう。もう一冊の「グレイテスト・ヒッツ」?
すでに作者には、「異形コレクション」所収作品をメインにしたホラー短編集『彼女が恐怖をつれてくる』(光文社文庫)、そして作者自身も認めるベスト・セレクション『左手の記憶』(出版芸術社)があるからだ。多作系である新津きよみの著書は六十冊をこえるが、その一割強が短編集。長短どちらも得意とする手練れである。「グレイテスト・ヒッツ」が何点もあるという事実こそ、この作家のグレードの証しだ。
とくに私事から入らせていただくと――。以前、カルチャースクールで「ミステリの書き方」講座を持っていたとき、受講女性のあいだでの新津支持率がきわめて高いことに驚いたことがある。驚いているようでは修行が足らない。じじつ気づいてみると、講師たるわたし自身、「きみたち、これを手本にして、ワープロがぶっ壊れるくらい書きまくりなさい」と例示するテキストとして、新津作品をあげることが多かったのである。そのうち、お手本(たとえば本書所収の「うわさの出所」)そっくりの試作を堂々とクラスで発表するような豪の者まで現われて……。それはともかく、この支持率の高さ。理由はいろいろある。
山前譲編『女性ミステリー作家傑作選』全三巻(光文社文庫)あたりを先駆けとし、結城信孝編『緋迷宮』などの迷宮シリーズ(祥伝社文庫)などによって、「女性ミステリの黄金時代」到来がアピールされた。これらの文庫シリーズのおかげをもって、特徴ある短編ミステリを教材に取り上げることもずいぶんと手軽になったといえる。そうしたアンソロジーの顔ぶれのなかで、登場回数や作品トーンの安定度において際立っているのが、新津きよみだった。
導入のうまさ、場面転換の思い切りのよさ、複数の話を立体的に交差させる手際、エンディングの鮮やかさ、など。じつに恰好の創作マニュアルの秘密が埋まっているのである。もちろん、こういったテクニック側面からばかり解剖教程を行なうのは、作者にたいして失礼にあたる。技術のみならいくらでも学ぶ(パクる)ことができるからだ。新津作品が支持される要素は、もう少し別の、深いところにある。
しばしば新津作品は、ドメスティック・サスペンス、もしくはドメスティック・ホラーと称される。コピーにも一定の型があって、「何気ない日常→身近な恐怖」といった色調が多くをしめる。ドメスティックとは何ぞや。「身の回り」である。作者が見せてくれるのは、月並みな言葉をあてはめれば、等身大の世界ということになる。これは作者の経歴が自ずと語るるように、OL、創作スクール生徒、主婦などの経験が、作品を細やかに支えているということだ。つまり、気取らない「身近な隣人」という作家イメージをいだかせる要素が、新津作品にはたっぷりと備わっているのである。
ナニゲの日常、身近なゾゾゾ。だれもがよく知っているようで、じつは知らない世界の襞。これだ。
『左手の記憶』あとがきには、わりと正直に作者の手の内が明かされている。それによると、長い作家キャリアのなかで転機は三度ほどあったという。『イヴの原罪』のサイコ・サスペンスの方向、『女友達』の隣人サイコ・ホラーの方向、「異形コレクション」参入による異次元ホラーの方向と、三度。いずれも作者自身の内的な衝動がはたらいたはずだが、むしろ「編集者の奨め」によるところが多かったと書かれている。女優でいえばテンネンものの発言(全部カントクに言われたように演りました)みたいで、ここにも新津のナニゲな個性があるようだ。
『イヴの原罪』は「悪女もの」といわれるが、一種の新人賞ネタのミステリでもある。――同居していた二人の若い女性。片方は原稿を残して死に、もう一方がそれを手書きの時代だったからリライトして応募、入選する。するとその作品の背後には意外な事件との関連が……。話そのものを取り出してみると、いかにもありそうな日常の枠から外れていない。そこから異様な非日常がしみ出てくる仕掛けだ。最初からガンガンの非日常で迫るという構成ではない。
本書所収の「二人旅」を例にとっても、発端はじつにありふれた三角関係なのだ。徐々によじれてくるそのペースはゆったりしている。二人の女は等身大といえば等身大なのだが、その身の丈に、じつに気味の悪い素顔が埋めこまれている。いくら気味が悪くても、それは等倍の、普通の人間の中味にすぎない。だが悪意が現実に解き放たれて実体化する時、それは凄まじい物量に膨らむだろう。
「二人旅」の直美のような人物を、たいていの読者は、何人か身近に見知っているに違いない。けれどもじっさいに直美そのものを隣人に持つケースは稀だろう。その点でリアリティは薄いともいえ、読者は「これは小説世界の話さ」と、安心して読むことができる。しかしよく考えてみると、おそらく、こういう人格はだれのなかにもいくらか少量は眠っている。常識が眠らせるのだ。そして新津きよみのペンにかかると、こういう人物が具体的な容貌をともなって一個のキャラクターとして見事に立ち上がってくるのである。
たとえば、直美がさりげなく口にして早紀子をゾッとさせる「夫婦」というありふれた一語。それがさりげなく描かれるシーンのゾワゾワと凍りつく情感に、新津ドメスティック・サスペンスの真髄がある。身近だが身近ではない。夫婦という言葉が、これほどおぞましい汚濁感をこめて発音された例は他に見当たらない。
日常から始まり非日常に突き抜ける世界。身の丈等身大の周りをいくらも出ないところから掘り下げられた人間性の奥深さ。新津の描く女たちは、そのタイトルを並べると――「戻って来る女」「時を止めた女」「卵を愛した女」「結ぶ女」「返す女」「無視する女」「尽くす女」といったふうに、いっけん何の変哲もないようにみえる。これらは『左手の記憶』に収録された作品だが、他の「時効を待つ女」が例外的に「折原マジック」を思わせるトリッキイな仕掛けを持つことを除けば、心理の奥底に向かったものだ。身近なところから始まって、異貌が見えてくる。
前記あとがきに、作者が《過去の作品はすべてそのときどきに「書きたかったもの」であり、(中略)初期の作品を入れることで、著者が気づかない作風の変化を読み取っていただけるかもしれないし、著者自身も記念碑となる》と書いていることは、本書にもそのままあてはまる。それにしても「グレイテスト・ヒッツ」への自注としては、あまりにも正直でストレートなので、いささか拍子抜けするところもあるが。「悪女の秘密」とは、こんなにも素直なものであるのか、と。
サイコミステリ方面の書き手には二種類あって、ルース・レンデルのように作品世界と作家の生身の性格が一致している(と思わせる)タイプが一つ。作品への評価とは関係ないが、こういう人とは近づきになりたくない、と正直に思ってしまう。もう一つは、作品世界のネジレとまったく独立して生身の人格をキープしている(と思われる)タイプ。新津きよみは後者だろう。
その作品自注が語っていることは、要するに、創作態度の柔軟さだ。読者に強いて媚びることもなく、また、編集者の要望にとくに左右されることもなく、また、「書きたいものしか書かない」というエゴを前面に出すことは慎重に避け、かといって、何気ない日常にこだわるわけでもなく、そうして新津きよみの世界は確固として維持されつづけている。
光文社文庫 解説 2007.4