NO WAR
メアリー・カルドーの『新戦争論 グローバル時代の組織的暴力』は、二十世紀後半における戦争の過酷さを明解に論証してみせた。
「新しい戦争」は、より多く非戦闘員に犠牲を要求している。二十世紀初頭には、戦死者の九割が軍人だった。しかし、第二次大戦においては戦闘員と一般市民の戦死者はほぼ同数になり、世紀末にいたっては百年前と逆転して、戦死者の八割が非戦闘員だ。NO WAR
世界のための警察国家がいままた独善的な戦争行為に立ち上がろうとしている。
このところ、一九四五年三月十日未明に実行されたアメリカによる日本帝都への戦略爆撃について調べていた。一般市民を標的にした空爆プランはアメリカの発明によるものではないが、東京大空爆はその組織的な「成功」において歴史をつくった。調べれば調べるほど、時間の感覚を喪う。アメリカの戦争はこの半世紀以上、なんら変わっていないではないか。NO WAR
しかしながら旧来式のアメリカ型の戦争は、新たな「新しい戦争」を起爆させずにはおかないだろう。
カルドーの分析によれば、旧来型の戦争は近代国家の基盤をつくるという長い歴史過程を辿ったわけだが、その延長にある現在、「新しい戦争」は逆に近代国家があっけなく解体していく様相を反映する。歴史は明らかに急激な地崩れをみせている。それは局地的な現象ではなく、世界のいたるところでグローバルに起こっている。NO WAR
『新戦争論』は、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ状況について唯一、納得のいく認識を与えてくれた書物だった。「民族浄化」という名の戦争がペスト菌のように蔓延していく政治=経済構造について初めて了解できた。
しかしその認識は同時に、恐ろしく暗澹とした答え以外ではなかった。理想の「社会主義国家」の次の段階に人類が開けてしまったのは、原始的暴力と虐殺と恐怖が支配する闇の世界なのか。近代が焼尽された後にくる時代――そこではインフォーマルな暴力が深く静かにわれわれを脅かしつづけるのか。NO WAR
ぼくが歩いていく先に、黒い警防団の刺子を着た男が二人、焼け焦げた梁や杭を外そうとしていた。ぼくはそばに行ってそれを手伝った。杭が外れた。男たちは黙って、その真っ黒に炭化した塊りを見つめた。まだ木やセメントの破片に埋もれていて、石炭のコークスの燃え残りのようにも見えた。
一人がコークスをかかえて引き出そうとした。びくとも動かない。と、コークスの表面が崩れた。
崩れたコークスの表面から現われたのは、およそ想像もつかないものだった。それは二つの塊りが固く合わさったものだった。若い娘が腿をかたく合わせていたのだ。
男がそのあいだから何かをつまみ出した。それは鮮やかな赤に彩られた小さな布地だった。絞りの兵児帯の一部だった。十センチ平方もあったのか。そして、それを抜き取った場所はいくらか黄色味を帯びた蝋のような肌の色が残っていた。
――『東京大空襲・戦災誌』第四巻 816P(原文の一部を変えています)NO WAR
新しい戦争は……「恐怖と憎悪」を生み出すことを目的としている。「新しい戦争」の目的は、異なるアイデンテイティの人々や、異なる意見をもつ人々を排除することにより住民をコントロールすることなのである。
したがって、これらの戦争の戦略的目標は、大量虐殺や強制移住、様々な政治的、心理的、経済的な嫌がらせのテクニックを用いた住民の追放にある。これが、全ての「新しい戦争」において難民や国内避難民が劇的に増大する一方、暴力行為の多くが市民に対して向けられる理由である。……。
非戦闘員への暴虐行為、包囲攻撃、歴史建造物の破壊といった行動は、伝統的な戦争のルールによって禁止され、さらに一九世紀末から二〇世紀初頭にかけて戦争法によって成文化されたが、今やそれが新しい戦争の戦術を構成する基礎的な要素となっているのである。
――『新戦争論』山本武彦・渡部正樹訳 岩波書店 11P2003.3.20作製