いかにも野崎六助らしい小説である。ぼくは野崎の小説を読むのはこれがはじめてだ。読みはじめてすぐに、ひごろ彼の批評文を読んでいて感じる共感やとまどいがそっくりそのまま湧いてきて、ああ野崎六助はいつも一貫しているな、と妙に感心・得心してしまった。
モノガタリはマカオのドッグレース場からはじまる。欲望と汗とホコリっぽい感じが充満していて、これからの展開が一筋縄ではいかないゾと予感させる導入だ。案の定、調査員・鶴木がここで出合った「偶然の死」は巧妙に仕組まれた保険金殺人であった。しかもそれを仕組んだ男はすでにもうひとつの賭けに踏み出していた。テメエの生命にカネを張ったのだ。生き延びるほうにではなく、死ぬほうに……。
野崎六助はおそらくこういう男を限りなく愛しているのだろう。この男の生きざまは、野崎の好んで用いる方法(文体、スタイル)そのものである。野崎のスタイルは、テーゼふう断言のあとに更にコトバを継いで発想を飛躍させ、意識的に混沌をつくり出して、そのなかから黄金をひろいだすというものである。
これはハマれば凄いチカラを発揮する。いつの間にか遠くまで連れ去られてしまうのだ。が、ハズれると、あれれ?と思えるほど身勝手なものになってしまう。
その点、小説、殊にハードボイルドのなかに独自のスタイルを生かした野崎の今回の試みは高いレベルで成功したといえるだろう。
舞台設定もマカオ、ホンコン、ヨコハマで、これはぼく好み。このたかだか100年来のペラペラな異空間は、それだけにマガイモノの凄みを宿らせている(と思う)。そこに棲む者は、ジジジ……と不穏な音をたてる弾けたネオン管のようにイラダチを隠さない。それは野崎六助のイラダチでもあるだろう。
例えば鶴木は山下公園の労務者を一瞥してこううそぶく、「死ねば金になる。いや死ななきゃ金にならないんですよ。それも特別な仕掛けをほどこされてね」と。あるいはマカオの連絡員・康阿吉はこう叫ぶ、「ニッポン人、死体になっても傲慢だ」。
野崎六助は、守るべきもの、棄て去るもの、そして徹底して批判するものをよく自覚している。そのスタンスの一貫性もまた野崎六助らしいところだ。ひとつだけ――SEX描写の精進を望みたい。池内文平 ミュージックマガジン1995.9
一年も半ばを過ぎると、その年の収穫にそれなりに見通しが持てるようになる。国内ミステリの豊作か凶作かを占うならば、前半を見るかぎり期待は大きいというべきであろう。『パラサイト・イヴ』『RIKO』『龍の契り』といった有望な新人作家の登場、『蝦夷地別件』『天使の牙』などの実力派作家の新境地など、結構楽しむことができる作品に恵まれた。
さて、『幻視するバリケード』以来ミステリ評論という枠を超え、多岐にわたって独自の視点から評論活動(「大藪春彦論」は出色)を続けてきた野崎が、大著『北米探偵小説論』を発表したのが九一年。年代記の形を借りながら、作品と社会との関わりの中からアメリカにおける「探偵小説(アメリカン・ヒーロー)」の本質に迫ろうとする雄大な構想は、<書評はあっても評論はない>というわがミステリ情況にとっての一大事件であった。その野崎が『夕焼け探偵帖』で小説家デビューしたのには正直いって驚いた。長らく彼の評論に親しんできたものとしては、その社会感覚から当然ハードボイルドになると思い込んでいたからである。以後『殺人パラドックス』『花火の夜には人が死ぬ』と意表を突かれっぱなしである。
だが、四作目にして待望のハードボイルドの登場である。
ストレートではない曲玉で趣向も凝らし、なかなかに楽しめる作品に出来上がった。
主人公は探偵事務所(興信所)の雇われ調査員・鶴木。誰が真の標的なのかわからない保険金殺人ゲーム。探偵も例外でなく、マクドナルド風の観察者を演じるわけにはいかないところが、いかにも野崎らしい茶目っ気である。ロス・トーマス風に胡散くさい人物がゾロゾロ登場するなかで、マーロウとレノックス張りの友情物語もしっかり織り込み、「正統」への気配りも忘れていない。そして、結局ハードボイルドの要諦は主人公の感懐とばかり、作品を通じて語られる「野崎ハードボイルド」は、類型を脱し独自の世界を獲得している。それを可能としているのは、鶴木の持つ視点の射程距離が長いためであろう。ここにこそ、あの『北米探偵小説論』の野崎の真骨頂がある。
蛇足ながら、鶴木と恵子の濡れ場は傑作で痛みまでも共有してしまいましたよ、野崎さん!
仲英宏 鳩よ!1995.10