ジャンルを超越する多重人格作家 野村 宏平
野崎六助の本質に迫ろうとするなら、「全共闘世代」というキーワードを切り口にして論を展開していくのが正しい方法なのかもしれない。彼の執筆活動を根底から支えているのは、60年代精神に他ならないからである。しかし、同様の切り口による野崎六助論ならば、すでに『夕焼け探偵帖』巻末の法月綸太郎の名解説があるし、野崎自身、いくつかの評論集の中で語ってもいる。ここであらためてそれをなぞり直すのは意義のある作業とはいえないだろう。そこでここでは、次のような野崎の別の側面に目を向けてみたい。
野崎六助は多重人格作家である。
はたして、これが野崎を語るに適した切り口かどうかはわからない。だが、とりあえず本稿では、ここに焦点を絞って筆を進めていくことにする。
そもそも野崎六助は、作家としてデビューするより以前に、評論家として世に出た人物である。84年の『幻視するバリケード<復員文学論>』を皮切りに彼の評論集は巻を重ね、91年の『北米探偵小説論』では日本推理作家協会賞の評論部門を受賞。作家デビューを果たした後も評論活動は並行してつづけられ、現在までに十二冊の評論集を上梓している。その対象範囲にしてからが実に多彩である。
ためしに図書館に行って、野崎の著書を検索してみるといい。分類項目は、日本文学評論、文学史、英米文学、社会評論、刑法・刑事法、映画と多岐にわたり、全著作を読もうと思ったら、図書館の棚を右へ左へと走り回らなければならない羽目になる。しかも、文学評論一つとってみても、内外の本格ミステリから、ハードボイルド、サイコ・サスペンス、モダンホラー、サイバーパンク、黒人文学にまで及び、その守備範囲の広さには圧倒されるばかりである。
もちろん、これだけで野崎を多重人格作家と決めつけるのは早急すぎる。ここまでなら、単に専門領域に広い文筆家という言い方ですませることもできるからだ。
では、創作はどうか。以下、野崎の小説単行本リストを掲げる(すべて長編)。@『夕焼け探偵帖』(94年3月・講談社)
A『殺人パラドックス』(94年8月・講談社ノベルズ)
B『花火の夜には人が死ぬ』(95年3月・講談社ノベルズ)C『ドリームチャイルド』(95年4月・学研ホラーノベルズ)
D『ラップ・シティ』(95年5月・ハヤカワ・ミステリーワールド)
E『臨海処刑都市』(96年7月・ビレッジセンター出版局)小説デビュー作となった『夕焼け探偵帖』は、太平洋戦争初期の日本の架空の町を舞台にした本格(?)ミステリである。うさん臭い外人神父、ロシアかぶれの文学青年、カリガリ博士と呼ばれる犬猫病院長、眠り男と呼ばれるその助手等々、フリークスめいた人物ばかりが暮らす「夕焼け町」で、教会の墓地に頭から突き刺さった死体が発見されるのを皮切りに、死体消失、人間椅子、人間天火焼き、と奇怪な事件が連続する。この謎に、小林秀雄、坂口安吾、花田清輝、大井廣介、埴谷雄高をモデルにした素人探偵五人衆が、探偵小説論議とドタバタをまじえながら推理比べを展開するという作品だ。
本格ミステリ・マニアの心理をくすぐるような趣向は、表面的には「新本格」と同一視されがちだが、本質的にはそれらとは一線を画しているといっていい。むしろ、全共闘世代によるアンチ・ミステリと見るべきだろう。
二作目『殺人パラドックス』は、レストランの女性用トイレで、女ものの服をすべて裏返しに着た男性の逆立ち死体が発見された事件をめぐるユーモア・ミステリである。クイーンの『チャイナ・オレンジの秘密』を彷彿とさせるシチュエーションだが、ここでも、宇宙左利き同好会、大日本アゴ髭団、男装・女装を趣味とするグループ等、怪しげな人物が入り乱れ、ドタバタ劇が展開される。探偵役は、弁当屋の夫婦トドとオクサン。その脇をミスター・リー、ミス・テリーと呼ばれる二人の刑事がかためている。
つづく『花火の夜には人が死ぬ』では、花火大会の打ち上げ花火に混じって人間が打ち上げられるという、これまた奇抜な殺人事件が発生。花火に関するうんちくを織りまぜながら、前作につづいて再びトド一家が推理合戦を繰り広げることになる。
この二作品は、マニアックなシチュエーションといい、探偵役が安楽椅子探偵を気取っている点といい、明らかに『夕焼け探偵帖』の延長線上にある作品だ。文体も、助詞を省いた文章を多用し、独特のリズムを作り出している点で共通している。つまり、ここまでの野崎なら、エスプリの効いた、トリッキーなミステリを得意とする作家として紹介すればすんだわけである。
ところが次の『ドリームチャイルド』で野崎は、突如としてそれまでの流れを捨て、映画「エルム街の悪夢」をモチーフにしたホラー小説に挑んでみせる。
ここでは、六人の女子高生を語り手にして、悪夢と現実が交錯する奇妙な世界が描かれる。後半は、首が切られ、内臓がはみ出し、血しぶきが乱れ飛ぶスプラッタ小説と化すのだが、一人称少女文体によって描かれる悪夢のイメージは、陰惨というよりも幻想的だ。テレビの深夜番組を次々とチャンネルを替えながら見ているかのような、不思議な映像感覚を伴った作品である。
ともあれ、本書で野崎は新境地を切り開いたわけだが、文章のリズムは前三作に通じるものがあり、これでもまだ、多重人格作家と呼ぶには早すぎるかもしれない。だが、次の『ラップ・シティ』で、野崎はさらに変貌を遂げている。
この作品は、横浜の探偵事務所の調査員・鶴木が、保険会社の調査に携わるうち、自分までもが保険金殺人ゲームに巻き込まれていくハードボイルドである。ここでは、マニアックな道具立ては完全に影を潜め、作者はひたすらリアリスティックに、卑しい町と、そこに蠢く人々を描こうとする。それまでの野崎作品に見られた、独特のリズムを持ったクセのある文体も、ここにはない。そういう意味では、本書は一般読者にもっとも受け入れられやすい作品といえるだろう。
そして最新長編『臨海処刑都市』に至るわけだが、ここでまたしても野崎は作風を変更。こんどはなんと、バイオレンス小説である。
舞台は、大震災で壊滅状態となり、恐怖政治に支配された、近未来の東京湾岸。脱獄死刑囚のシマが、政府の差し向けた追手たちと破天荒なバトルを展開する物語である。暴走族さながらの女オートバイ部隊や、冷酷無比なヒットマンなどはいかにも劇画チックで、著者名がなかったら、これが『夕焼け探偵帖』や『ドリームチャイルド』と同一の作家の作品だと想像するのは難しい。もっとも、単なるバイオレンスものにとどまらず、ラストでひとひねりしてみるあたりが、野崎らしいといえないこともないのだが。
以上が現段階における野崎六助の全長篇だが、三作目まではともかく、それ以降はすべて異なるジャンル、異なる文体の作品である。これらの作風の変化は、どう解釈すべきだろうか。
これらが長期に渡って書かれてきたものなら話はわかる。作風の変化は、どの作家にも多少なりとも見られるものだからだ。しかし、野崎の場合、この六作はわずか三年の間にかかれており、作風が自然に変化を遂げていったものではないことは明白だ。間違いなく作者は、意図的に文体を変え、作風を使い分けているのである。
おそらく野崎は、それまでエンターテインメントに対して抱きつづけていた想いを、すべて自分の手で実践してみたかったのではないだろうか。いい換えれば、野崎の作品は、彼の愛読する作家や作品に対する批評的オマージュだということだ。
冒頭でも述べたが、野崎の読書範囲は驚くほど広範に渡っている。クイーン、クリスティー、ハメット、フォークナー、P・K・ディック、大藪春彦、夢野久作、坂口安吾、横溝正史、中井英夫。これらの作家にオマージュを捧げようとするならば、一つのスタイルでは収まりきれないのは当然のことである。そのために野崎は、あえて自分を多重人格化して、異なるスタイルの作品を書き分けようとしたのではないだろうか。そしてこの推論が的を得ているとすれば、野崎の小説はこれから先も他ジャンルに広がりつづけ、その都度、作者はますます多重人格化していくことを余儀なくされるはずなのである。
と、これだけ書いておけば、野崎=多重人格作家論もある程度、納得してもらえたと思うが、もうひとつだけ、ダメ押しとばかりにつけ加えておきたいことがある。それは、野崎の小説においては、「もう一人の自分」がつねに重要なファクターになっているということだ。つまり野崎は、自分が多重人格化して作品を書き分けるばかりでなく、登場人物にも多重人格を与えようとしていたのである。
まず、初期三作を見てみよう。ネタバラシになるおそれがあるので詳述は避けるが、この三作はいずれも一人二役、変装、替え玉殺人といったトリックが使われている。そのうえ、『夕焼け探偵帖』では、うりふたつの双子の中年姉妹が登場して、作中人物ばかりか読者までも惑わせる始末。野崎の多重人格嗜好は、このときから始まっていたと見るべきだろう。
四作目の『ドリームチャイルド』では、そのものずばりの「もう一人の自分」が登場する。主人公である六人の少女は冒頭で、過去あるいは未来の自分と出会うのである。さらに、そのなかの二人、ハルとスーが、きわめて似通った人物として描かれているのも興味深い。小さい頃から何をするにも一緒で、バイオリズムが似ていて、初潮も同じ。作者はスーに「この分だと子供産む日まで同じだったりして」といわせている。スーはハルの中に「もう一人の自分」見出すことによって、アイデンティティを確立しようとしているのだ。
この傾向は『ラップ・シティ』で、より顕著になる。主人公・鶴木と、彼の調査対象である剛田は外見ばかりでなく内面的にも酷似した人物として描かれており、鶴木はいつしか剛田に奇妙な友情さえ抱くようになる。
また、鶴木は少年時代、両親に捨てられ、幼い妹と二人暮らしをしていたが、たわいのない喧嘩から妹を見殺しにしてしまったという十字架を背負っている。そして、剛田の子供もまた、両親に見捨てられた兄妹であり、鶴木は、そこに過去の自分を見出すことになるのだ。
『臨海処刑都市』はどうだろう。この作品世界では、死刑囚に対して、本当の死は至らしめないが、死と同等の苦痛と恐怖を与えるバーチャル死刑が執行される。この<新>死刑を何度も体験している主人公が、そのたびに「もう一人の自分」を体験していると見なすのは、いささか苦しまぎれのこじつけだろうか。
そんなことを考えながら、野崎の第七評論集『エイリアン・ネイションの子供たち』をめくっていたら、ジョン・ヴァーリイの『へびつかい座ホットライン』に関する記述が目にとまった。この作品もまた脱獄死刑囚の物語で、死刑には、クローンの処刑と永久死の二種類が用意された世界を舞台にしている。クローン=「もう一人の自分」と定義したうえで、『臨海処刑都市』のバーチャル処刑をクローンの処刑の置き換えれば、ここでもこの法則はぴったりと当てはまるではないか。
これだけ状況証拠がそろえば、もはや文句はあるまい。野崎六助はやはり多重人格作家だったのである。 (文中敬称略)ミステリマガジン1997.3