中里介山の『大菩薩峠』は全四十一巻、一九一三年から四一年までの二十八年間書き続けられた大長編小説である。日本大衆文学の嚆矢であり、また近代文学屈指の「思想小説」でもあり、これまでにも多くの評家による読解や批評が試みられてきた。
 社会主義者・介山を強調してコミューンやユートピアの夢を語るもの、作品全体を曼荼羅(マンダラ)として読み取るもの、天皇制の隠喩を見るのも等々。本書はそうした作家論や社会や時代状況への還元を排し、小説の構造を分析することによって『大菩薩峠』の本質に迫ろうとした本格的な文芸作評論である。「謎解き」とは、作品の内的構造や登場人物たちの設定や行動に関してであり、作品の成立やモデル問題についてのことではない。
 著書はまず全体を第一「甲源一刀流の巻」から第二〇「禹門三級の巻」までを正編、第二十一「無明の巻」以降を続編として分割する。『大菩薩峠』は正編だけで充分の完結しており、続編は「正編の注釈であり、評論であり、補足である(反復でもある)」と主張する。
 もちろん、これは続編が蛇足だとか、過剰だとかということではない。正・続編合わせて『大菩薩峠』は世界文学の傑作がそうであるように、自らへの批評やパロディーをも含んだ「全体」小説として成立している。
 そこから導き出されるのは、主人公の机龍之介が正編において実はもはや「死んで」いて続編において彼は亡霊として生死一如、夢幻の世界に漂う存在となっているということだ。
 机龍之助を中心に様々な女性たちが『大菩薩峠』に登場するが、その女性たちを論じた章や、フリークス、被差別芸人、下層民の登場の意味を論じる章など、表題通りにすっきりと「謎解き」されたというわけにはいかないが、無明長夜の迷路をたどるような論旨の展開そのものが、『大菩薩峠』を論じるにふさわしく、粘り強く、強靭な思考の軌跡であると思える。

川村湊 東京新聞1998.2.1


 この大長編小説を完読した者はあまりないと言われていながら、この小説はあまりに有名なのである。本書は難解で複雑怪奇な異界を彷徨う『大菩薩峠』を快刀乱麻を断つように、著者ならではの力業によって解剖してみせる一冊である。

新刊 私の◎○ 梁石日 朝日新聞1997.11.23


 映画でなら、内田吐夢から岡本喜八版まで、戦後のものはすべて見た。原作に挑戦したのはその後だった。どの作品も、たえず釈然としない風があって、気にかかったからだ。しかし途中で挫折した。この本のお陰で、なぜ釈然としなかったかよく分かった。読みおおせなかった小説の論を読んだのは初めてだった。

新刊 私の◎○ 矢作俊彦 朝日新聞1997.12.7