圧倒的な比類なき大著である。それも、世紀の。
 九一年に刊行され、翌年日本推理作家協会賞を受賞した名著(青豹書房版)に一千枚を加筆した計三千枚の「増補決定版」だが、照合すれば全面的に加筆訂正が施されており、ほとんど新作といったほうがいい。
 読者はまず、旧作にない序章の「制服者ポオ」から驚くだろう。ピート・ハミルのハードボイルド『マンハッタン・ブルース』のヒーロー像をポオの長詩「大鴉」と重ねながら(その具体的な検証が素晴らしい)ハードボイルドの原型を「大鴉」に求め、D・H・ロレンスの『アメリカ探偵文学論』を引用し“ヒーロー像のあらかじめの崩壊という耐えがたい深淵”から“ハードボイルド小説は逆行の歴史を持った”と結論づけるのである。これはウェスタンから始まるハードボイルド論の通説を根底からくつがえす。
 この序章でもわかるように、博覧強記の作者の射程は極めて深い。例えばクイーンの国名シリーズではベンヤミンの都市論やカフカ、弁護士ペリー・メイスンの戦いぶりではホイジンガの『ホモ・ルーデンス』、中井正一の実践的組織論、鶴見俊輔の『アメリカ哲学』などに言及し、新しい解釈を示すのだ。
 本書は、一九一〇年から九〇年代までの北米の“社会思想の変遥を探偵小説という特殊なプリズムにあててとらえた記録”である(特に戦時下の小説、夫婦探偵や捜査のチーム化の傾向をさぐる章が面白い)。作者は、振幅の激しい巨大帝国の歴史と戦うべく、本格的な探偵小説のみならず、SFや黒人文学、映画、さらには在日朝鮮人の文学までを視野に入れて論じている(「合衆国共産党の苦衷」では野坂参三のスパイ説までをも検証)。視点はグローバルで、様々な思想家や評論を引用し、説得力豊かな独自の論考を展開している。
 本書は、ミステリー論やヒーロー論、または社会思想史の新たな里程標になるだろう。まさに傑作。

池上冬樹 日本経済新聞1998.11.22


 通史的な探偵小説論としてよく知られているのは、ハワード・ヘイクラフトの『娯楽としての殺人』(一九四一)である。現在、一般的に受け入れられているところの、エドガー・アラン・ポオの「モルグ街の殺人」から始まり、コナン・ドイルのシャーロック・ホームズ・シリーズを経て、両大戦間の長編探偵小説主導の<黄金時代>いたるに探偵小説史を確立した、古典的名著だ。
 同書は、探偵小説は民主主義の産物であると主張したことでも知られており、その主張そのままに、探偵小説隆盛は国家が健康な証拠だと信じられていた時代があったし、今だって信じている人がいるかもしれない。殊に、戦時中は敵性文学として探偵小説が禁じられていた過去を持つ日本では、戦勝国アメリカの文芸評論家の言説ということもあって、実感として容易に信ぜられたであろう。
 だが、それは間違っている。といって悪ければ、ヘイクラフトの言説は戦時イデオロギーを強く反映したものであることを、忘れるわけにはいくまい。応々にして探偵小説は、遊戯文学であるとか逃避文学であるとかいわれるが、探偵小説(とそれをめぐる言説)もまた、時代の範から自由ではいられないのだ。
 そんな当たり前のことに、あらためて気づかせてくれるのが、増補改訂なった野崎六助の大著『北米探偵小説論』(親本は一九九一年刊。日本推理作家協会賞受賞)である。
 本書でふれられるのは探偵小説ばかりでない。始まりはポオではなくカフカに置かれる。アメリカ合衆国共産党やブラック・パワーの展開が並行して語られ、フィッツジェラルド夫妻やフォークナーが点綴される。黒人文学史が辿られ、在日朝鮮人による探偵小説について言及される。先のヘイクラスト史観からすれば、これらはみな迂回路でしかない。
 一般的な探偵小説ファンからすれば、懐かしのS・S・ヴァン・ダインから始まる、エラリー・クイーン、ディクスン・カーといった本格もののスターたちや、ダシェル・ハメットに始まり、レイモンド・チャンドラー、ロス・マクドナルドと続くハードボイルド派についてのみ、語ってほしいところであろう。
 以上の作家についてもそれ以外についても、またSF作家フィリップ・K・ディックについてもことさらに詳しく、充分に論じられている。ポオの「大鴉」にハードボイルド・ヒーローの原型を見出すのは面白く、ヴァン・ダインについての本格的な論考はこれまでにはないものだし、チャンドラーやロス・マクドナルドに対する否定的な視座に立った論述も新鮮だ。
 そうした論考が、テクストを自足した探偵小説史から切り離し、北米史という、より大きな歴史の流れの中に置いてみて、初めて得られたものであってみれば、先の迂回路にしても、単純に退けるわけにはいかないのだ。
 野崎六助は、書き手が己の表現行為に対して自覚的であるような小説、したがって、書き手の苦悶のようなものが表現に痕跡となって刻まれている作品、が好みなのだろう。だからこそハメットやクイーンが評価されるのであり、黒人文学や在日文学を取りあげずにはいられないのである。
 ほとんどの北米探偵小説は、書く行為に対して無自覚であり、そのため体制の御用文学に堕したり、社会や自分がかかえる問題を隠蔽するか忘却の彼方へと追いやろうとしたりしている。三千枚にも及ぼうかという論考を読み終えた時、そこで得られる認識に暗澹たる思いに囚われずにはいられない。
 だが、そうした認識こそが救いなのである。本書を読了後、これまでのように漫然と活字を追うことはできなくなるだろう。表現のひとつひとつが、読み手の意識を問い直すことばとして立ち現われてくるはずだ。そうしたことばと誠実に向かい合うこと。それこそが探偵小説を<権力>の走狗となることから救う唯一の道なのである。いつまでも無垢(オタク)なままでは、いられないのさ。

横井司 週刊読書人1999.2.12