昭和への呪詛、平成の『ドグラ・マグラ』  千街晶之
       
 
野崎六助にしか書けないに違いない恐るべきミステリの登場である。ストーリーを要約して紹介することは難しい。交換殺人を扱ったサスペンス小説かなと思っていると、記憶喪失、カルト教団、謎の精神病院、公安との暗闘といった要素が怒涛のごとくなだれ込み、先は全く読めない。本書はポオやエーヴェルスの衣鉢を継ぐドッペルケンガー・テーマの怪奇小説であり、スタンリイ・エリンのある種のサイコ・サスペンスであり、カフカやP・K・ディックの向こうを張る不条理小説である。更に言うなら、これは平成の『ドグラ・マグラ』でさえある。今、私が挙げた作者名や作品名の多くはいずれもこれまでに発表してきた著作の中で野崎自身が愛着ないしこだわりを示していたもので、それらを容易に想起させるという点では、本書は近年のニューウェイブ本格とも通底するオマージュ小説、既成の要素によるパッチワーク小説でもあるのだが、作者自身が体験した七〇年代闘争の混濁を背景にして自己像の不確実さの恐怖を畳みかける迫真性は若手の追従を許さない。物語を何重もの入れ子細工に仕組んで世界の迷宮化を企てるのは若い作家にも可能だが、身をもって「何か」を通り抜けてきた人間でないと書けない小説もあるのだ――ということなのだろう。一九七〇年代生まれの私などはその「何か」を知り得べくもないが、それを正目に見たと錯覚させてくれるほどには迫力がある。
 裏切りと転向の仮面劇に堕ちていく政治の季節を駆け抜け、昭和天皇の大喪の礼の日に幕を下ろすこの暗澹たる煉獄巡りの物語は、昭和という時代への呪詛とも見えるけれども、メッセージはむしろこの平成の世に向けられていると見るべきだろう。恐らく著者が試みたのは自らの過去の総括なのだろうが、それが未来への虞れと等符号で結ばれざるを得ない現実に対して、彼は幼子のように寄る辺なく悲鳴を上げているように見える。

サンデー毎日1999.11.7  

 




     処刑と分身――新世紀小説時評4     笠井潔


 『煉獄回廊』では一九六九年から一九八九年まで、日置高志という人物の半生が描かれる。ただし、記述の時間的配列は少し入り組んでいる。第一部「交換 一九八八年」、第二部「輪舞 一九六九−一九七八年」、第三部「贈与 一九八五−一九八九年」、第四部「回帰 一九八九年二月」という順に、物語は進行する。時間の自然な流れからすると三番目にあたる部分が、作者の意図で最初に置かれているわけだ。
 以上のような構成は、『煉獄回廊』がミステリ小説である事実と無関係ではない。交換殺人をめぐる謎が、冒頭で提起される。謎に駆動されて物語は進行し、最後に意外な真相が明らかになる。しかも日置高志は、一九七〇年代前半の数年間の記憶を失っている。記述における時間的な順序の入れ替えに加え、主人公の記憶の欠落といった設定が、プロットのミステリ的な複雑さをもたらしている。北川歩美『模造人格』や貫井徳郎『修羅の終わり』とも共通する、記憶喪失者の自分探しを描いたサスペンス小説として、本書を読むことも可能だろう。
 また『煉獄回廊』は、桐山襲『パルチザン伝説』や立松和平『光の雨』と背景や主題を共有する全共闘小説でもある。日本全国の大学にバリケードが築かれた一九六九年から、長すぎた昭和が終わる一九八九年まで。かつて高揚した大衆ラディカリズムの精神やコミューンの夢は、二十年という時に流されながら、どのような遍歴を重ねてきたのか。あるいはどのような変貌をとげてきたのか。こうした切実きわまりない自問が、本書のいたるところで木霊している。
 一九六九年の京都。二十歳の日置は、全共闘がバリケードを築いて占拠している大学構内で、行方未知という少女と知りあい、おなじ部屋へ暮らすようになる。当時の言葉でいえば、「同棲時代」である。
 バリケードで囲まれた非日常的な空間を、日置は次のように感じていた。「それはある日、突然に現われ、突然に消えてしまうたぐいの何かかもしれなかった。中に身を置くと不思議と居心地が良かった。二十年のかれの生においてそんな場所はこれまでどこにもなかった。かれのような生まれながらのはぐれ者でも、ここでなら、翼を持てそうな気がした。このまま大学が瓦礫の中に朽ち果ててしまうことはないだろうが、崩れかけたところにならいつまでも腰かけていたかった」。日置の抱いたコミューンの夢は、赤軍派が首都蜂起にいたる前段と位置づけ、大仰にも京都戦争とネーミングした、一九六九年十月京都における街路占拠闘争の場面に典型的である。
 日置と未知の恋は、甘くも苦い、切々たる叙情性に満ちて語られる。ヴァレリーの詩集を愛読している少女は、恋人をゼノンという愛称で呼ぶ。「行方未知は耳元で転がすように、その呼び名を楽しみ、喉を、胸を、腹を、性器を、かれにこすりつけてきて、うっとりとした。わたしだけのゼノン」。このような箇所で気恥ずかしい思いに駆られても、あえて読者は忍耐しなければならない。作者は映画『いちご白書』に三十年も遅れて、なにもバリケードの恋を謳いあげようというわけではないのだ。読者は第一部で姑息で自堕落な中年の不動産業者として、すでに日置を紹介されている。第二部で描かれるところの、未知に愛された二十歳の日置とは、容易に重ねあわせることができないキャラクターだ。無視できない主人公の性格的な変貌もまた、読者に提起された不可解な謎のひとつである。
 まず一九六九年の大学バリケードの体験として描かれた、「生まれながらのはぐれ者でも(略)翼を持てそうな気が」する集合的な祝祭空間への夢はさらに作中で三度、形を変えながら反復される。精神病院の患者たちによる『夜の国のアリス』の公演、クライマックスで天皇の張りぼてを燃やした天馬団の公演、「あの懐かしいバリケードの臭いがまだ少しだけ」残っている京大西部講堂の野外宴会。しかし、一九七七年の野外宴会を最後として、解放的な祝祭のエピソードは作中から消失してしまう。代わりに前景化してくるのは、解放的なコミューンの夢の裏側から、ほとんど不可避的に湧きだしてくる、テロリズムの破壊的な悪夢だ。
 コミューンの夢と、あたかも双生児的な関係にあるようなテロリズムの悪夢。悪夢はさまざまな形態を派生させながら、ほとんど底のない泥沼の様相を呈していく。一度でも足をとられたなら、二度と抜けだすことのできそうにない、血の色に毒どくしく染められた不気味な沼地。フレームアップをはじめとする国家テロ、反体制派の爆弾テロ、公安のスパイ工作、反体制組織内の粛清、あるいは他党派を標的とするテロ、などなど。
 解放的なコミューンの夢と腐敗したテロリズムの悪夢を、たんなる対立関係において把握することは不可能だ。両者を機械的に分離した上で、前者を肯定し後者を否定する御都合主義など、当事者のだれにも許されていない。夢と悪夢は、ウロボロスのように無限循環してしまう。『煉獄回廊』の物語には、夢と悪夢が絡みあう異様な事態が正確に映しだされている。たとえば日置が精神病院に入院したのは、逃走中の「爆弾犯」柿田を支援する活動で生じた事件の結果だし、主宰者の鬼首三郎が爆弾闘争を宣言して劇団を離れ、天馬団は最終的に崩壊する。柿田の逮捕に抗議して開かれた西部講堂の野外宴会の直後から、日置もまた公安によるフレームアップの謀略にさらされはじめる。
 人間解放の夢が虐殺と抑圧の悪夢に反転してしまう必然性は、ロシア革命からカンボジア革命にいたる二〇世紀最大の逆説にほかならない。われわれの経験に即していえば、一九七二年の連合赤軍事件において、革命をめぐる逆説が無視できない直接性で突きつけられた。日置と未知の恋もまた、連合赤軍事件に出くわした結果、決定的な亀裂に見舞われる。未知には羅門という弟がいるのだが、その屍体が連合赤軍の山岳アジト付近で、他の多数の屍体と一緒に発見されたのだ。
 ヴァレリーの詩句「飛び、しかも飛ばない、あの翼ある矢」を引用し、恋人をゼノンと呼んでいた未知は、一転して、決して「飛ばない」男を激しく告発しはじめる。過激な反体制運動の周辺を漂いながら、決して危険な場所には近よろうとしないまま、「どっちつかずのシニシズムで何か気の利いたこと」を喋り続けてきた日置に「死ぬべきはあんただったのよ」と叫ぶ。さらに、「あんたは何でもない。シロもアカもアオも緑も銀も黒も嫌い。何でもないの。自分すら嫌いなゼノン派のゼノンよ」と。羅列される色彩は乱立した党派や政治グループを意味している。未知は日置を棄て、「革丸派」の水村という男の元に走る。「飛ばない」中途半端な男ではなく、危険な党派活動の前線に身を置いている男を選んだわけだ。未知に立場や思想の微温性を糾弾され、「死ね」といわれたとき、「逆巻く激情につらぬかれて」主人公は「名状しがたい恐怖に立ち止ま」る。


 
 これが兵士たちの受けた総括なのだ。もっとも近しい同志たちによってもたらされた死の制裁とは、もっとも愛するものをとらえる刹那の恋情なのだった。その秘密のからくりが了解できたとき、おれは明瞭に雪の山岳ベースでくりかえされた処刑の精神風景の近くにいた。(略)殺さねばならないほど深く深く同志だったのだ。

 「ふくれあがる嫌悪の只中で、おれは行方未知へのねじれた愛を身体一杯に感じとった。逃れられないのだと思った」。「ねじれた愛」から「逃れられない」日置は、未知を殺さなければならない。「もっとも愛する者をとらえる刹那の恋情」のために、恋人を処刑しなければならない。かれは未知を「殺さねばならないほど深く深く」愛しているのだ。
 しかし、羅門は生きていた。連合赤軍の「総括」で死亡したのは羅門が大阪の日雇い労働者街で知り合い、戸籍を交換した男だった。「入れ替え」は探偵小説の古典的なトリックである。顔のない屍体や双生児という設定を前提に、「入れ替え」トリックは組みたてられる。顔のない屍体は、日置や未知の浮遊するアイデンティティに通じるだろう。六〇年代ラディカリズムの精神は、日置のような「生まれながらのはぐれ者」の存在論的な飢餓感や空虚感から生じた。ロバート・ブロックの『サイコ』以来、しばしばサイコ・サスペンスに導入される人格分裂や二重人格の設定に、双生児のメタファーを重ねあわせることもできる。

 『煉獄回廊』では、「鼻からゆがんだ口元を迂回して、二本の太い棒のように青バナが垂れている」という具合に、人体から外にでるモノのメタファーが執拗に反復される。鼻汁をはじめ、大便や吐瀉物や出血など。とりあえず汚物というメタファーは、中年の域に達した日置の性格的な頽廃を示しているようだ。しかし、それだけではない。
 便をはじめとして、人体から排泄される汚物は、自分でありながら自分でないもの、自分ではないが自分でもあるものという、奇妙に両義的な性格をおびている。主体は排泄物において自己完結性を剥奪され、不気味な二重化を蒙らざるをえない。排泄物は、主体を主体ならざるものに変容する。だから伝統的な諸文化は、髪や爪や経血などもふくめ、人体から外にでるモノに呪術的な威力を認めてきた。
 頻用される大便や鼻汁のメタファーは、自分でありながら自分でないという奇妙な二重性において、作中を埋めている多数の分身のモチーフに連結される。たとえば山岳アジト付近で発掘された遺体は、羅門の分身である。日置と交換殺人の契約を結び、未知を絞殺する沖孝という謎の男は、水村と間違えられて、中核派のテロに遭遇する。未知を被害者とする殺人事件は、過激派内部の内ゲバとして処理される。この場合、沖は水村と分身関係にある。
 未知の死から数年して、水村は公安警察のスパイであったことが露見する。「革丸派」幹部と公安のスパイ。ようするに二人の水村が存在し、両者は分身関係にある。しかも水村は公的には死亡している。羅門の場合とおなじように、公安が調達した第三の屍体が、水村であると見なされたのだ。アナキストの秘密結社の首領が警察のスパイだという結末の、チェスタトンの『木曜日の男』が作中では引用され、さらに「黒い帽子の男」と呼ばれる、ロマン主義的なドッペルケンガーの雰囲気を漂わせたキャラクターまでもが登場する。
 結末で明らかにあるように、多彩をきわめる分身のモチーフは、ブラウン神父の至言「枝は森に隠せ」を忠実に踏襲したものだ。作品の最後まで隠さなければならない分身関係を作者は次々と繰りだされる分身の山に、意図的に紛れこませた。森に隠された枝とは日置高志と沖孝の分身関係である。非・沖孝=日置高志。この真相に、最後は主人公も直面せざるをえない。

 おれは沖孝として行方未知を殺した。なぜというにおれはおれとして行方未知を殺すという行為に耐えられなかったからだ。おれ自身として行方未知を殺すという行為に耐えられなかったから、沖孝という別人格をつくったのだ。異常心理学の言葉でなら、この点をうまく説明できるだろう。


 「未知を殺さなければならないほど深く深く」愛していた日置は、「おれ自身として行方未知を殺すという行為に耐えられなかったから、沖孝という別人格をつくっ」てしまう。沖に未知を殺害させることで、あの自己分裂を外見的に回避しえた日置は、二重人格という新たな、さらに累積的な自己分裂に陥る結果となる。『煉獄回廊』における分身のモチーフは、一方でサスペンス小説としてのテクニカルな要請の産物だろうが、また他方では、主題性に深く内在してもいる。主題面から捉え返すとき、解放と虐殺のウロボロス的循環をめぐる二〇世紀最大の逆説が、分身のモチーフからは否応なく浮かんでくる。
 第二の人格を発明したことで、「殺さねばならない」当為と「殺すという行為に耐えられな」い現実の、絶対的な分裂を擬似的に解消した日置は、果てのしれない煉獄回廊に迷いこんでいく。未知殺害の無意識的な記憶にひきずられ、柿田支援運動の女性活動家の首を絞め、彼女の縁者である娘をふたたび沖の人格で殺してしまうのだ。サスペンス小説のキャラクターでいえば、日置は典型的なサイコキラーである。
 二十歳の日置は、「わたしだけのゼノン」としてヴァレリー愛読者の少女に熱愛され、今出川の街路占拠闘争に参加して頭部に重傷を負う。しかし、コミューンの夢に輝いていた青年は、姑息で薄汚い中年男に頽落せざるをえない。頽落の起点は、連合赤軍事件の受け止め方にある。「同士討ちを責める資格のある者などいない。殺さねばならないほど深く深く同志だったのだ」と、連合赤軍事件を救済した瞬間、主人公は解消できないディレンマに直面した。安易な自己救済に走る性格的な弱さが、日置をサイコキラーに仕立てあげたともいえる。
 六〇年代ラディカリズムの経験を背景とする野崎六助の評論には、ある根本的な弱点が潜在していた。性格的な弱さに起因する、自己正当化と自己救済の願望である。むろん野崎の評論が、残らず評価にあたいしないわけではない。『北米小説探偵論』のような力作もある。しかし、連合赤軍事件を主題化した小説の最初の作品である、桐山襲の『スターバト・マーテル』にも共通するのだが、厳密に思考しなければならない課題を叙情に流して解消してしまうという限界性を『復員文学論』や『亡命者帰らず』は致命的なものとして抱えこんでいた。
 こうした弱点や限界性を冷静に対象化し、克服するものとして、小説作品『煉獄回廊』は書かれている。作者はサイコキラー日置高志を、理解不能の怪物として描いているわけではない。外部から侵入してきた怪物として片づけるには、あまりに日置はわれわれに似すぎている。この小説はまた、日置の切ない内面に共感することを読者に禁じてもいる。「切ない内面」に溺れる結果として、日置はサイコキラーに変貌してしまうのだ。京都の小学生殺人事件や、新潟の少女長期監禁事件に象徴される荒涼とした現在。『煉獄回廊』は『盤上の敵』や『ハサミ男』とは異なる角度から、この現在をかろうじて小説化することに成功している。
 ようやく三十年後に達成された、画期的な全共闘小説であるという評価を前提として、読者は『煉獄回廊』の続編を要求せざるをえない。この作品は一九八九年における昭和天皇の死とそれにたいする最後の劇的な闘争の予感をクライマックスとに設定している。しかし時代は、不可避に深化した荒廃の九〇年代を、すでに通過し終えてもいるのだ。
 日置のまえに再登場した羅門は、「連赤の森や永田が糞野郎だとは思わない。馬鹿なリーダーなんてどこにでもいる。どこで誤ったのか、どこで引き返せばいいのか。それがわからなかっただけさ。どこで引き返せばいいのかわからなかっただけで責められるのか」と、おそらく正当であろう発言をする。連合赤軍事件を叙情的に救済しない羅門の、散文的といえば散文的な見解に、作者は未来に通じる唯一の可能性を託しているようだ。
 事実、羅門は変わらないキャラクターである。作中で最初に分身化をとげる羅門だけが、果てのない分身化の渦中で自己喪失と自己解体に陥る、日置をはじめとした他のキャラクターとは根本的に異質である。しかし羅門の「非転向」は九〇年代の荒廃を首尾よく乗りこえることができたのだろうか。
 日置が最も親しみを感じていたらしい「アオ」党派が、昭和天皇の死に際して唯一、効果的な抗議行動を実現しえた。同じ党派が十年後には、沼地のような分派闘争の果てに、真鶴駅のホームで元同志を刺殺するにいたる。これが「非転向」の、現在における不可避的な形態なのだ。後知恵かもしれないが、こうした結末は二十年前の連合赤軍事件の時点で、すでに明瞭に予見されていた。作品としての『煉獄回廊』が結末を迎えてもわれわれの煉獄遍歴は、いまもなお終局には達していない。
             

鳩よ! 2000.4