一九五八年八月二十一日、小松川高校定時制二年の女子生徒が高校屋上の物置で殺害されていた。その犯人として当時同じ高校の定時制に通学していた十八歳の李珍宇が逮捕された。そして李珍宇はもう一件「賄い婦殺し」の犯人と断定される。これがいわゆる「小松川事件」である。はたして李珍宇は犯人だったのかどうか、その点についての論証はいまなお謎を残したままである。しかし、李珍宇少年は四年という異例の早さで処刑された。
 文芸評論家野崎六助は、この謎を解くために三一書房から『李珍宇ノオト』を上梓したが、この謎は権力によって封殺されてきた戦後問題と今日的な政治状況とも密接に関連している。事件から三十数年を経て、野崎六助が『李珍宇ノオト』を書かねばならなかった理由もここにある。だが野崎六助は『李珍宇ノオト』で政治的デモニッシュを論じているわけではない。かれはあくまで「小松川事件」を日本と在日朝鮮人の内面的な精神風土において批判的に止揚しようと試みている。その意味で野崎六助の水ももらさぬ論証には多くの啓示が含まれている。
 まず野崎は「小松川事件」に題材、もしくは刺激されて作品を書いた日本の作家たちの存在類型をきびしく批判している。続いて在日朝鮮人作家の存在類型をもきびしく批判し、文学の方法論が結局のところ権力の陥穽にまんまととらわれてしまった愚を戦後民主主義と戦後文学の行きつく必定であったと考える。残念ながら私は、「小松川事件」に題材、もしくは類型を見出した小説を三冊しか読んでいないので全面的にわたしの論証を加えることはできないが、『李珍宇ノオト』に示されている文学的傾向についてはつねに考えさせられていた。どのような意味でも近・現代史において日本の植民地政策と戦争がもたらした巨大な空白と影は日本文学においても避けることのできない問題であるはずなのに、それが根底から問われたことはなかったのである。自ら問うことと問われることの両義性において日本文学はつねに何も問い直そうとはしない権力とまったきなまでに重なってしまった今日的状況では、したがって唐突に出てくる在日朝鮮人の存在理由を「小松川事件」のような題材によりかかって書かれた小説が、きわめて歪曲されたものになるのは当然なのである。
 『李珍宇ノオト』にも書かれているように、李珍宇少年がはたして有罪なのか、無罪なのかは決定的に重要な問題ではない。また、この事件のもつ意味は、李珍宇という複雑な精神心理状態の分析にあるのでもない。そもそも犯罪とは複雑であり解明不可能な闇であり、その世界を帰納法的に演繹化することはできない相談である。巨大な犯罪を構成している権力そのものが、まず犯罪ありきという予断に立って犯罪を類型化と典型化に類推しようとするとき、権力と犯罪の関係は転倒してしまうのだ。『李珍宇ノオト』で小松川事件の李珍宇少年が倒立してしまったと強調するしているのも、権力を遠景としてしか見ようとしなかった文学者たちの転倒した錯誤の結果である。そこに現代文学の置かれている危機がある。大江健三郎は『朝日新聞』の文芸時評の最終回で、日本の純文学の危機を懸念し、日本の純文学ははたして二十一世紀まで生き残れるのか、と深刻に語っていたが、彼は、日本文学が陥っている危機の本質についてまったく理解していない。すでに日本の純文学などとうの昔に崩壊しており、現在書かれているのはその残骸にすぎないのである。日本文学は日本の閉鎖的な精神構造を根底から支える思想的役割を演じてきたのだ。したがって「小松川事件」は日本文学の外側にあったのである。このことは在日朝鮮人文学についてもいえる。在日朝鮮人文学が日本文学と背中合わせになって否定の同時性という役割分担をしてきた側面があるからだ。
 野崎六助は『李珍宇ノオト』を在日朝鮮人文学論の序章であると言っている。在日朝鮮人文学論が乏しい中で、どのような在日朝鮮人文学論になるのか、大いに興味のあるところだ。おそらく膨大な論稿になると思われるが、この論稿が完成した暁には、日本文学の過去と未来が白日の下に晒されるだろうと期待している。在日朝鮮人文学は日本文学が自ら醜い貌を隠してきた裏側から照射している文学でもある。李珍宇少年は、そのような貌でもあった。

梁石日『闇の想像力』解放出版社1995.5 

「野崎六助『李珍宇ノオト』に寄せて」より



 ミステリー作家で文芸批評家の野崎六助は、その著書『李珍宇ノオト 死刑にされた在日朝鮮人』(一九九四年、三一書房)の中で、秋山駿を批判してこういっている。

 ここで秋山が達成したのは、自分の内部意識の批評(一人言のような独特のジャンル)の等身大に合わせて、珍宇の象を矮小化すること、それである。それのみである。李珍宇が日本人秋山の言葉でもって寝言・一人言をいうとすれば、それは奇ッ怪である。奇ッ怪なことが書かれているのだ。あたかも文学であるかのように――。だれもが珍宇を自分の容量に合わせて<理解>したのだろう。大衆的通路をもっては、それは民族差別として発動された。しかしながらそれは、文学的通路をもっても、あまり変わらなかったのだ。差別の露骨さはかえって、いっそう手が込んでいたようでもある。秋山の論考はその無惨な証拠物件である。

 野崎六助の批判には、前提がある。その『李珍宇ノオト』の全体を読めばわかるように、彼は心証的に“李珍宇無実説”の肩を持っている。“李珍宇無実説”とは、李珍宇の裁判の支援団体である「李珍宇をたすける会」で活動していた築山俊昭が、ほぼ孤立奮闘の状態で唱えていたもので、小松川事件の女子高生殺しと鹿骨町での賄婦殺しの真犯人は李珍宇ではなく、この二つの事件を李珍宇の犯罪とすることはまったくのフレーム・アップであるというものである。築山俊昭の著書『無実!李珍宇 小松川事件と賄婦殺し』(一九八二年、三一書房)というのが出され、そこで彼はその李珍宇無実説を展開した。この後、この築山俊昭の無実説に立って、小笠原和彦による『李珍宇の謎 なぜ犯行を認めたのか』(一九八七年、三一書房)が出された。これは築山俊昭の李珍宇無実説の最大のネック、すなわち獄中の李珍宇自身が自らの“有罪”(犯人であること)を認めていたという点についての、いわば築山説の補強作業というものだ。
 李珍宇がもし「小松川事件」の本当の犯人でないとしたら? 彼は無実であり、冤罪によって死刑とされてしまったとしたら? 李珍宇が「犯罪者」であることを自明の理として「内部の人間の犯罪」ということを書いてきた秋山駿の文章は、いっきょにその前提としての梯子をはずされ、地上に墜落してしまうことだろう。木下順次、大江健三郎、金石範などの文学者や大島渚のような映画人もまた、その不明を恥じて自分の作品を引揚げざるをえなくなるだろう。李珍宇を無実の罪に陥れようという陰謀に、彼らは知らずに手を貸してしまったということになる。それは他から批判されるというより、彼ら自身にとって耐えきれないものであるはずだ。
 野崎六助は、むろんこうした李珍宇無実説を鵜呑みにして、その前提の上で彼自身の論を展開しているわけではない。彼は築山説、小笠原説の弱点、欠陥を指摘しており、強引で思い込みの勝った李珍宇無実説には、一定程度の距離を保とうとしている。しかし、これまで一般的にはほとんど評価されることのなかった築山俊昭や小笠原和彦の作業、意見をきちんとフォローしていることは、野崎六助が彼らの“少数意見”にシンパシーを抱いていることを証明しているものといえるだろう。彼はこういっている。「はたして李珍宇は真犯人なのか。(中略)結論を先にいってしまえば、灰色である。――ほとんど無実である。しかし、絶対に、無実であるということはできない」と。
 李珍宇の無実説については、築山俊昭や、小笠原和彦の著書を読んだ限りにおいて、そういうこともいえるといった程度の心証しか私は持たなかったが、野崎六助がいうこの事件にまつわる言説の中に<民族的差別>を読み取り、日本文学者による「李珍宇」の“文学的形象化”がそうした民族的差別を告発し、否定するというより、そうした差別的イメージを強化し、流布する役割をはたしたという指摘は、「李珍宇」の事件を再考させるだけのものを持っている。偏見と予断と通俗的なイメージは、当時の新聞の報道記事に多く見られたものだが、それは警察、検察が“作文”した自白調書の文体にも明らかに浸透している。あるいは、李珍宇自身の言葉である供述書や、『罪と死と愛と』という彼自身の書いた書簡の中にもひそんでいるものかもしれないのだ。言葉は決して現実そのままを映し出すものではない。言葉は常に歪んだ現実を提示する。そこでは李珍宇の言葉だからといって、他の証言と同じく、相対的な価値と意味をしか持たないのである。
 ―――――――――――――(中略)―――――――――――――――


 築山俊昭の本を読んでいて、一番興味をひかれるのは、事件当時の新聞記事の見出しやその内容が引用されていて、それは明らかに無意識のプレス・キャンペーンとなっているという指摘だ。「声を出され絞殺/突然ナイフを突きつける」というのは李珍宇逮捕記事の小見出しであり、「うす笑いを浮かべ捕る」と、新聞は李珍宇少年の逮捕時の態度を“見てきたかのように”書いた。「おとなしいが暗い影/二重人格的な少年の性格」という二段の見出しの下には、こんな記事が書かれている。「しかし、表に出た賢さ、明るさには影があった。家庭は、通称上篠崎の朝鮮部落と呼ばれる中のバラック建て、六畳一間きりの家。父親は日雇、母親はオシ、一間には幼い弟妹五人を含めた八人暮らし。近所づきあいはなく、小さい弟妹達は母親がオシというひけめから、いつも兄弟同士で遊ぶだけだった。家が貧しいためか、容疑者は小学生時代から手くせが悪かったといわれ、近所で物がなくなると、きまって後ろ指をさされたという」。「異常性格の女高生殺し/“犯行誇示”が目的?/他人事のように自供」「女高生殺しあす公判、異常な少年 李珍宇」「後悔の色なく、精神は正常 極刑も考えられる」。これらは事件続報の見出しである。「事件当時には動機や理由のない不可解な殺人行為と騒がれ、暗い家庭のニヒルな秀才朝鮮人少年のスリラー小説的な犯行ともいわれたが、地検の調べで残忍な婦女暴行のみを目的とした殺人者であることがわかったわけである」と新聞は書き、「十八歳の凶悪少年」を死刑の道へと歩ませるように世論を誘導していったのである。
 ここに野崎六助が言うように、<民族的差別>の大々的なキャンペーンを見ることは不当なことではないだろう。そして、多くの知識人、文学者たちは、こうした新聞報道が作り上げた「李珍宇」像を前提として、「李少年を助ける会」を作ったり、獄中の彼と文通を始めたり、またそれを“文学的”に形象化しようとしたのである。その意味では、野崎六助が『李珍宇ノオト 死刑にされた在日朝鮮人』において、自分の仕事が「一個の文芸批評いがいの何物でもない」と断言したことは正しく、彼の批評の矛先は、報道の差別キャンペーン、李珍宇の「文学的形象化」、李珍宇無実説の二冊の書物、在日朝鮮人文学者の発言と作品、そして『罪と死と愛と』という「李珍宇」関係のすべての言説に向けられているのである。
 だが、野崎六助の“文芸批評”は、本当に有効なものなのだろうか。彼はいう。「問題はやはり、李珍宇がそう欲求し、またじっさい身に帯びることになった文学的なヴェールの複雑さであるだろう。そしてまた同時代の作家たちがそれを利用して勝手気ままにつくりあげてしまった別の文学的ヴェールの支離滅裂さであるだろう。繰り返すがこれらのものは、珍宇をより深く理解するためには、ほとんど有害なものばかりである」と。たとえば、前にも引いたように、秋山駿の批評は「外部」を抹殺することによって「内部」へと引き篭もったものである、と野崎六助は批判する。「外部」とは、たとえば李珍宇の在日朝鮮人性であり、その差別の歴史と構造であり、民族性そのものである。秋山俊は、「内部の人間」ということを強調することによって、李珍宇が近代の日本において“人種差別”“民族差別”を受けている在日朝鮮人であるという、外在的で歴史的な条件という重要な要素をまったく切り捨ててしまい、在日朝鮮人問題に目を塞ごうとしているのだ、と、野崎六助は批判しているのである。

  全体に秋山の<論考>はトートロジーにみちている。文献の恣意的な読み取りをすべて「内部」というキーワードに帰着させていくから展開が全くない。内部の人間の内的独白が小松川事件という外部の一断片にくらいついて、少し内部化された思考をとめどなく吐いていくという構図。犯人が犯行を夢の中のように感じる、といえば、この独白者は狂喜する。それこそ内部の人間の犯罪の際立った特徴だ、と。思考に破れ目はない。堅固な内部があるのみだ。
  こうした<文学>の不実を訴えてみても徒労感のみが残る。
  内部は閉ざされているからいっさいの答えはかえってこないだろう。トートロジーへの批判はそれじたいトートロジーの俗悪なパロディとなる。こうした文学にツバを吐きかけてみても、ツバが自分の顔にかかってしまうということだ。

 しかし、野崎六助も、在日朝鮮人に対する日本の<民族差別>の存在を指摘するだけであって、そこから新しいパースペクティブによって無実としての「李珍宇」の像を定着させたわけではない。そこには長い間積み重ねられてきた<民族差別>の重層性があるという言説に限るのならば、あえて今更のように野崎六助に改めて指摘され、気がつかされるというような問題ではない。朴寿南は、李珍宇との往復書簡によって、明らかにその“朝鮮人”性に目覚めるように誘導しているし、李珍宇の事件は新聞報道に見られるように、日本人の<民族差別>の深層心理に深く彩られていたのだが、それはまた朝鮮人という民族性を失った青年と、その民族性をとり戻すことによって“真人間”に立ち戻った青年という民族主義的な「物語」が対案としてきちんと用意されていたのである。
  野崎六助の批評は「外部」からの批評である。「内部の人間」であり「内部の批評」であるものに、彼は苛立っている。それは引用文の「ツバを吐きかけてみても」といった口調を見ても明らかだろう。「思考に破れめはな」く、「堅固」であり、あるいは「頑固」でもある「内部」の批評に立ち向かったところで、所詮は徒労感が残るだけであって、天に唾しても、それは自分のところに返ってくる。こうした彼の批判は、一つには秋山駿の持っている(ように見える)「内部」が自分には持てず、そうした「内部」的な確信が持てないという逆説のようにも聞こえる。彼は「外部」にしか自分の批評の礎石を築くことができない。その「内部」を持たないことの断念は、ちょうど築山俊昭というライブラリアンが(彼は長く国会図書館の資料室に勤務していた)、関係者から聞き書きをするとか、現場を訪ねるとか、証言者を得るという手続きを何も踏まず、ただひたすら新聞資料と裁判資料とに基づいて、「李珍宇」の事件を再創造しようとしたことと通底しているものなのかもしれない。
 「外部」の批評が有効なのはそこに「内部」と思われている幻想の共同の空間や共通する「言葉」が成立しているからであって、「堅固」でもなく、「破れ目」のある危機的な「内部」にとってはこうした「外部」からの批評は、単にすれ違ってしまうだけのものだ。「あらゆる現実的な細部」と触れあいながら、流れ出てくる「内部」の言葉は、単に内部に閉ざされているのではなく、それは「内部」と「外部」とを還流するものなのだ。
 野崎六助は築山俊昭の「労作」についてこういう。「こうした文献探索、言葉を変えるならアーム・ディテクティヴの方法のみで論証が成り立ってしまうことにも、李珍宇裁判の本質的な性格をみることができるのである。(中略)文献方法のみによって論証しうる無実説は、逆に、現実的な説得力はもちえなかったのである。先回りしていってしまえば、民族差別との対決という視点を欠いた築山の論拠は、むしろ瑣末にこだわるところから証明を積み重ねるほかない」と。
 「言葉」の内部に堅固に閉じこもるというなら、築山俊昭の「労作」もまた、破れ目のない論理によって、李珍宇は無実だから無実なのだというトートロジーを繰り返しているだけではないか。その意味では、築山俊昭は文献という「内部」に堅固に閉じこもり、そこから一歩も出てこようとしない「内部の人間」のように思われる。閉ざされた内部に閉じこもる(と野崎の批判する)秋山駿と、(野崎の擁護する)築山俊昭とは、そういう意味で互いに似ているのである。いずれにせよ、彼らを批判する野崎六助にしても、ただ秋山駿的な批評の「外部」と築山俊昭的な文献探索という内部に対する「外部」にいるというだけなのであり、私はそこに「内部」からの批評を信頼することのできなくなった、「外部」へ、ひたすら「外部」へと向かおうとする批評世代の存在を感じざるをえないのである。

川村湊 『戦後批評論』講談社1998.3 「秋山駿の『犯罪』」より