何か見たことのあるスキンヘッドだなあ、と思ってチラシをよく見るとナ〜ンダ、え〜りじゅんではなか。アダルト・ビデオであきるほどよく見かけた「異色男優」が、こんなところで役者してるとは。いや、ナルホドここには、メディアを超越した視座がある。この視座こそが「野戦の月」なのだろう。月を見上げる視角が彼らのバネであり、鋭い眼差しが彼らの武器である。
 最後の(などと小生は勝手に思っていた)戦闘的テント芝居集団「風の旅団」が春に解散し、再編結成された劇団のひとつだという。数々の武勇伝を持つ「風の旅団」が、なぜ解散したのかは知らない。テント芝居やアングラ演劇がはらんでいた、あの言いようのない熱気はもうかなり以前から、あらゆる劇団から感じられなくなった。だが、なおかつそこからでなければ発露されない劇的空間はこの世に存在する。すべてが「小劇場」というわけにはいかないのだ。あのふやけた言葉遊びとチャラチャラした時間には、もう付き合いきれないのだ。着飾った女の子たちと一緒にバカ面してばかりいられない。だから、絶叫とキツ〜イシャレと詩のようなセリフの、例えば南千住駅裏の野原にそよぐように張り出す「野戦」の芝居が、とても心地好く体中に滲みる。硬質な劇展開が、妙になつかしくすらある。それはただ、自分自身がズブズブのぬるま湯の中に身を置いているせいかも知れないが。
 探偵小説から在日朝鮮人文学まで激しく評論活動を続ける野崎六助の初の書き下ろし小説が、この芝居の原作だ。もちろん、小説と芝居は微妙に違っている。骨格たる「幻灯島」に潜り込んだ少年をめぐっての物語は同じであるけれど、いくつものイリュージョンを重層的に連鎖させていく原作に対し、哀愁をおびた音楽に乗って活劇調に進む演劇がある。しかし、どちらも見ようとしているのは、資本主義社会の末路なのだ。狂気のゲットーと化した「島」は、大友克洋の「ネオ東京」や黒川紀章の都市計画ともどこか似て、はや現実感をすでに獲得してはいるのだ。想像力と現実の競走に、終わりはないかも知れない。「野戦」は、果てしなく続くだろう。闇を照らし出す月を求めて純化してゆく演劇が、自ら月となり、無自覚なあらゆる観客を巻き込んだ新たな大衆ドサ芝居へと発展することを祈りたい。

鈴木義昭 ミュージックマガジン1994.10 『幻灯島、西へ』芝居評


 面白い時期の野崎六助にぶつかった、というのが読み進めながらの第一印象だ。『幻視するバリケード――復員文学論』によるデビューが一九八四年、それから、十年、職業作家生活に足をふみいれつつある彼が、幻想と場景転換たっぷりの作品のある章の冒頭に「クニオは最初に戻る必要を感じていた」なんて散文的に書くと、アングラに戻るつもりだなとニンマリしてしまう。
 『李珍宇ノオト』『殺人パラドックス』、本書『幻燈島、西へ』とたてつづけに野崎六助は好調である。本書は野崎が自分を李珍宇に擬して、国家とはファミコンゲームみたいな擬似現実であるというテーマを、ゲームソフトとして提出した作品だと解けるだろう。
 導入部は乱歩『パノラマ島奇談』のように、最初に登場する番人フランスパン・フカフカのセリフまわしはエドガー・ポー『大鴉』のように、と乱歩からアラン・ポーへ作家の名で冗談を一つ置いて、少年がその幻燈島に行った理由は死刑執行された死体を引き取るためだ、と謎を置いてはじまる少年愛の物語――これはかつてのアングラ芝居のまんまではないか。少年愛あるいは聖少女から入って、地獄めぐりをさせて、反世界に出る。これがアングラ芝居の約束ごとのようなものだった。
 野崎六助は劇団「野戦の月」を興して座付作者をやる必要と、職業作家としての自己確立の両面で、劇団「曲馬館」以来の主題の吟味と再生に真剣である。なぜ少年愛か? 死産させられる予定だった児がなにかのひょうしに生きのびてしまい、他の水子たちの怨霊と語らって現秩序をやっつけるというかつてのパターンを、有の歴史(支配者の、勝利者の、生き残ったものの、すなわち秩序の側の)と無の「歴史」の側を、李珍宇の時点で関東大震災の時点で、関東大震災の時点で(大正十一年)、天皇暗殺を企てたとされる朴烈の時点でそれぞれ噛みあわせ(擬戦(シュミレート))し、時間の目盛りを厳密にするのが彼の答えだ。
 だから彼は「昭和六十九年」とか「大正六十四年」という奇妙な表記を使う。日本史上最長・最大・最悪の昭和時代はまだ決着がつかないのだから永久昭和論だ。そうして万世一系ののっぺらぼうの時間と、単一民族の空間にタイムラグをいれるのである。
 時間は天に属す。地上は皇帝に属す。それへの地下(アングラ)の反逆である。
 自我分裂の不安を近代文学としよう。夢の記述ないし内宇宙と外宇宙の通底を超現実主義文学としよう。ファミコンソフトの中に作者ないしは登場人物が参入しソフトを変えるタイプのSFとしよう。一九八六年のフィリッピン政変、民族がマラカニアン宮殿を奪取したやつね、あれはCIAがボルシェビキの権力奪取技術をファミコン的に演出したものだと俺は分析したことがあり、ファミコンソフト発達史の上では「スーパーマリオ」段階だったと思っている。野崎六助はその一手先をさした。国家幻想を遊戦する方法だ。
 こうしてみると『幻燈島、西へ』は筒井康隆『脱走と追跡のサンバ』系統の作品だ。彼が筒井康隆をどう考えているかは知らないが、もっとこっちへ寄んねえ、寿司食いねえ、呑みねえ呑みねえ、江戸っ子だってねえ、ところでお前さん誰だい?

平岡正明 図書新聞1994.11