フレディー似の教師の目が妖しく光るのを見た六人の女子高生が、突如現れた幼児の自分たちのお告げによって、彼女たちがお気に入りの『エルム街の悪夢』さながらに現実と幻想が混乱した世界に突き落とされ、繰り返し惨殺される。すべては中学時代にイジメによって人生を途絶えさせられた同級生の霊が仕組んだ罠だったことが明らかになるが、同時に過去の、未来の、そして現在の自分自身たちとの対決でもあった。
 六人の少女のくだけた一人称によるリレー形式で語られる夢幻地獄は、乾いたユーモアを湛えつつも凄絶を極める。だが、それはやがて夢見がちな少女たちが過酷な現実と正面から向き合うイニシエーションの物語に転じていき、意外なほど爽やかで感動的な結末を迎える。アクロバティックな仕掛けに満ちた読み応えのあるホラーで、地味だが意欲的な良書が多かった今はなき学研ホラーノベルズの中でも特に復刊が切望される一冊。

最恐ホラーナビ2000 Jホラー・ベスト100 中島昌也



 夢魔見メモ、あるいはセーラー服の研究
 ――『ドリームチャイルド』をめぐって(あるいはめぐらないで)
   夏来健次

「すべてが夢のようだ。
ぼくは夢など決して見ないのだけれど」
      ――J・L・ボルヘス「ウルリケ」より
あたしたち、夢から醒めたんじゃない。
夢のほうへ醒めたんだ。
      ――野崎六助『ドリームチャイルド』より


 
 宇宙も日常もまったくもって相対的なものとして知覚もしくは感覚しつづけることが、今だに<ここ>で生きるための唯一の道であると、われわれは漠然と信じさせられてきたのだと今にして思うが、しかし、人はじつはその道にさえ耐えがたいほどの不安をいだきつつ戦ってきたのだということが、はからずも、かの新興宗教団体をめぐる一連の衝撃的事件をまのあたりにすることによって思い知らされ、<ここ>からさえもわれわれは覚醒しなければならなかったのか(やはり!)と半ば救われたような、半ば絶望したような思いに、このところずっと囚われつづけてている。
 ここでいった<覚醒>とは、テロリズムや反社会的行為などの積極的な手段とはなにがしか別のし方で、この相対的な宇宙や日常に引導をわたすことをさすのだけれども(いや、別のし方でなくてもかまわない、覚悟と信念さえ持っているならば)、しかしそれは単に手段のちがいにすぎず、めざすものは同じでなければならない。だが不幸にして、起こっていることは相も変わらず、のっぺらぼうのように正体不明な常識の側からの記述が目立つばかりという事態だ。
 たとえば、かの事件を遠因として、サブカルチャー内における市民権の希薄な部分が、またぞろあらぬ社会的制裁の生け贄に供せられるのではないかという不安を、どうしても禁じえない状況がある(<覚醒>が禁じられている社会では、希薄であること自体がその<部分>の市民権の存立意義なのかもしれない)。
 しかもさらに不幸なことには、そうした<部分>は、あらかじめ、同じサブカルチャー内の別の部分へと、はなはだ見当はずれな組み込まれ方をしていることが往々にしてあり、したがって、不幸な<部分>は、サブカルチャーの総体の手によっては容易には保護されえないことが予測できる。
 いうまでもなく、不幸な<部分>とは、たとえば<オカルト>という呼び名に漠然と代表させることのできる社会現象の系列のことであり、そして、じつをいえばそれに付随して現われてくるところの、いわゆる恐怖小説に代表される表現様態もまた、必然的に含められることになる。
     ―――――――――――(中略)―――――――――――


 要するに、オカルトとか恐怖小説とかいった、ことさら見えにくい歪んだ次元面を持つ言説の場における言語は、今日のこの国のいわゆるミステリーというぬるま湯にどっぷりと浸かった批評家たちの、あまりにも視野狭窄的な読み方では、とり扱うのはやはり無理だったということにすぎない。
 いい換えてみれば、恐怖小説は、歪んだ次元面を持つことによって、ぬるま湯の水面のようにのっぺりと淀んだ言説の場からは観測し得ない事象となり、ために、はからずも、そういう場からの批評そのものを逆批評することになる。つまり、恐怖小説についていわれた批評を見ることによって、その批評者自身のいる座標が観測できるという皮肉な仕掛けになってしまっている。
 しかもさらに皮肉なことは、<覚醒>が禁じられた社会への対抗として、そこへの拒否反応に起因する世紀末的気運が不可避的に浸食してきた甲斐あって、そのような<仕掛け>としておおいに活用できそうなまったく新しいタイプの恐怖小説作家が、この国にも少しずつ現われてきはじめたことだ。
 とはいっても、筆者がここでいう新しい作家というのは、当然のことながら、いわゆるミステリーの批評家たちの前述のようなどんよりと曇った旧来の批評語によって称揚されている新鋭作家たちの名簿とは、偶然重なりこそすれ、合同とはなりえない。

 筆者がいう<まったく新しいタイプの恐怖小説作家>の、重要でかつ最新の一例が、ここでとりあげる野崎六助であり、その具体的なテキスト例として最初に提出されたものが『ドリームチャイルド』である。
 野崎はこの作品と相前後して、いわゆるミステリーに配属させられることになるであろう小説をいくつか矢継ぎ早に発表しているわけだが、そちらの方面の第一作めである『夕焼け探偵帖』はじめ、いずれもノンシャランきわまるあまりにも独特の文体で書かれており、(幸いなるかな)今日的な意味でのいわゆるミステリーの大方の目利きたちに正確に読まれるとはどうしても思えない種類の小説群だ。
 ここで筆者がいう<今日的な意味>の<今日>とは、詳しく言い変えれば、<現在この国でミステリーあるいはいわゆるエンターテインメント(筆者にはこの奇怪な外来語の意味が今だによく把握できないのだが)等の創作に際して使われるものと漠然と信じられあるいは不定見に期待されているある種の言葉遣いが無理なく成立しうるような状況>のことだ(定義とはなんと退屈な作業か!)。
 野崎の書く小説の言葉は――そして文体は(かつて江藤淳がいったところの、作家の<行動の軌跡>としての<文体>の意味であることを、ここでは強調しておかなければならない)――そのような状況に偏在する読み手たちの弛緩した言語意識を、真っ向から破壊しようとする。そこに現われる言説は、<筆力>だの<オリジナリティ>だのといった目利き諸氏ご用立ての実体のない空疎な物差しでは、いかなる意味においても測定できるものではない。

 「ふん、ぷんぷんぷ〜〜〜ん。パンツ、パンツ、パンツ海」と仁介はまた騒ぐ。
 「おみやげ買ってきてーっ」と左介が叫んだ。
 「おみやげ買ってきて――っ」と志呂吉が叫んだ。
 「おみやげ買ってきて――っ」とももこが叫んだ。
 「オクサン、腕組んで歩かないの」と坊介がのんびりといった。
 「そうだそうだそうだそうだそうだ」と最後は大合唱になって、追いかけてくる声。(野崎六介『殺人パラドックス』より)

 そしてここでおりあげる『ドリームチャイルド』は、作者の破壊意思への方向性が瞬間的に極点まで達したときに生じたにちがいない、いわば、野崎六助という興味深くも異質な<現象>それ自体であるかのような観を呈したテキストであり、これこそ筆者に<覚醒>と<夢>の問題を考えさせる霊感を直接与えてくれた小説に他ならない。
 登場するのは、ハル、ツナ、チキン、ガコ、アキ、スー、という六人の仲良し女子高生チームだ。といっても、彼女たちは通常の小説中のように登場するわけではない。彼女たちはそれぞれ<DJ>と名づけられた視点空間をサイクルで占有しあい、彼女たち自身の言葉で、学校のことを、生活のことを、性のことを、そしてなによりも彼女たち相互の絆のことを、延々と語り継いでいく。重要なことは、彼女たちの絆というのが、かつて社会現象ともなったアメリカの恐怖映画シリーズ『エルム街の悪夢』の世界をとりこんだメタ現実の空間に自分たちがいると自覚(もしくは夢想)しあっている点にあることで、そのことを契機として、彼女たちの日常のポップな表層の下に隠されたどろどろとした内実の恐怖がしだいに滲出してくることになる。エルム街空間では、少女たちの夢と現実とは完全な相互性を保っていて、ために彼女たちは死と生の境界さえ任意に行き来し――あるいは行き来させられる。しかしDJである彼女たちは、そのような空間と出来事とを、われわれが日頃小説と認めているような物語に似たものとして語るわけでは当然なくてひたすら仮想マイクロフォンにかじりついての恣意的きわまりない<おしゃべり(パロール)>として、言語社会の退屈な約束ごとをかぎりなく破壊しつづけていく。

 あたしのベロが。ベロが。あたしの口からホース生やした掃除機になっちゃった!ベーッ!
 母は、母たちは、母たちの集団は、その先にブラシのついた吸い込み口をセットする。カチャン。
 そしてあたしの鼻を思いっきりつまんだ。てぇっ。スイッチなのかよ。パワー・オンした。ブィ〜〜〜ン。ウッソ。あたしの口はゴミを吸い込む。ってことは?ゴミはあたしの胃袋の中に?汚ねえったら。オエッ。
 やめてよ。よして。心で思っても。あたしの身体はブィ〜〜〜ン。
 家中をくまなくまわって。すみずみまで大掃除ッ。
 「さ、これでよしっと。」「さ、これでよしっと。」「さ、これでよしっと。」「さ、これでよしっと。」「さ、これでよしっと。」

(野崎六助『ドリームチャイルド』より)

 この種の言語連鎖のみから成り立つ小説が、筆力だのオリジナリティだのとのたまうミステリーの目利きたち自身によって書かれたとしたら、筆者はその逆理のあまりの可笑しさに発狂するかもしれないが(ぜひ書いてもらいたいものだ!)、そんなことはともかく、ではこの小説がなぜこのような構造を呈することになったのか、ということが、まずは当面の問題だ。それを探るためには、またしてもテキストから離れて、なによりも重要な要素である<夢>について、外側からもう一度深く考えてみなければならない。
 いうまでもないことだが、ここで精神病理学的な意味における<夢>――つまり、われわれが夜寝てレム睡眠に入ったときに見るといわれるあの映像(めいた幻景)、すなわち字義どおりの意味での<夢>――を問題にしても、あまり意味はない。そういう本物の<夢>をあれこれ考えることは、ユングやフロイトの著作とかあるいはその道の専門の学者にまかせることにして、少なくとも、時代と同時進行の言語実験であると同時に、それを通じてわれわれの意識実験・存在実験でもあろうとしている(作者自身が意識しているといないとにかかわらず)小説を扱おうとしている今、さしあたって筆者は本物の<夢>には興味がない。
 興味があるのは、『ドリームチャイルド』から共示的意味としてとり出される<夢>のほうだ。つまり、われわれ一人一人の自己の生存を許容している現環境(<ここ>とか<この世界>とか<こちら側>といった感覚的な代名詞でいえばわかりやすいかもしれない)が、現実にここにあるとわれわれは認識しているわけだが――つまり、われわれは<ここ>にいることが<覚醒>した状態だと意識しているわけだが――それと対立する概念として想定される世界が、ここで筆者がいうところの共示的意味としての<夢>だ。いわば、実数に対立する概念としての虚数が想定されるような意味あいで、<覚醒>と<夢>とがここでは想定される。
     ―――――――――――(中略)―――――――――――


 すでに述べたように、われわれは、今<ここ>で生きるためには相対認識を以って望まなければならない。正しくいえば、そのように教えられている(流行の言葉を不用意に使ってしまえば――そのように洗脳されている)。そこでは自己さえ絶対的なものではない。なぜなら、<ここ>においては、他者のいないところでは自己の存在を認識することさえできないからだ。他者があって初めて自己があり、その逆も真である。また、<ここ>では眼前に峨々(ガガ)として広がるこの大地さえ絶対的なものではない。大地は天体の一つにすぎず、天体は別の天体との関連なしには存在することもできない。しかし、こうした種類の認識は必ずパラドックスを孕む。他者の存在によって自己は存在を許容されるが、存在する自己は必然的にそれ自体が個体であることを主張しはじめ、ために他者と対立しはじめる。そして他者の存在を否定しようとしはじめる。それはもちろん、自己の存在をも否定することとなる!
 この背理への不安が、前述した不協和と名づけうる要素だ。不協和は、緩和もしくは解消されねばならない。少なくとも、人間は狂気に陥らないために、ほとんど本能的に、それを緩和し解消する方向へと働く。それを救いと呼ぶなら、人は救われたいがために信仰に入り、あるいは神秘に目覚める。ときとして、そのような状況を俗にオカルトと呼ぶ(だれかが上手にまとめてみせたように、世界の再編とやらをするためにオカルトなるものが発生するわけではない)。
 同様にして、恐怖小説作家もまた、救われたいがために恐怖小説を書く(神経痛持ちの婆さんがとげぬき地蔵に日参するのとまったく同等の意味でだ)。そしてそれは畢竟、前述の背理を打破することでなければならない。すべてが耐えがたいまでに相対的なものとされている<ここ>から、それが生む背理への恐怖を表出することによって脱出しなければならない。少なくとも、二十世紀恐怖小説の鼻祖であるH・P・ラヴクラフトはそのようにして恐怖小説を書いた。不協和説を基盤としたモジックによるラグクラフト論が核心を突いているのは偶然の所産ではない。

 ラヴクラフトが、自然法則の破壊ということは「人間の頭脳が生み出した最も戦慄すべき発想」だと思っていたのは、まさしくその科学的態度の結果であったと言える――自然法則の破壊は、唯物論思想家にとって、最も現実性のない、最も不穏な、考えうるかぎり大きな不協和を引き起こす発想であり、従って怪奇小説のこの上ない中核的要素となったわけである。(『定本ラヴクラフト全集9』所収D・W・モジック「ラヴクラフト――想像的文学における不協和的要素」より)

 科学至上主義の徹底した合理主義者であったにもかかわらず、背理に対して異常な敏感さをそなえていたラヴクラフトは、夜毎恐るべき悪夢に悩まされ、そこから狂気に陥らないために恐怖小説を書いた。そこで彼がしたことは、メタ現実に属する特殊な感覚世界を設け、そこにおいてある種の絶対的存在を造出することであり、それによって、相対感覚で満たされた<ここ>を守る殻を破壊しようとすることだった。それが、彼の書いた絶対悪を淵源とする一連の奇怪な神話群だ。この行為の経過につきまとう異様なヒステリックさには――奇妙ないい方だが―― 一種、絶望的な革命への志向が、無意識裡にせよあるように思われる。

 そして、ここにいる野崎六助もまた、そのようなラヴクラフト的な革命志向を構造として受け継ぐところから恐怖小説を出発させねばならなかった(その皮相の様態はまったく異なった景観を呈しているにもかかわらず)。野崎はまちがいなく、相対的世界の持つ背理への疑念を深くかかえこんだ作家であり、ために、やはり<ここ>からの脱出へのやみがたい希求を根底に持つ。推理小説に分類されることになるであろう他作品とともに、『ドリームチャイルド』でもまた(しかし、他作品に倍して徹底的に)、<ここ>で漫然と信仰されている小説のコードを破壊しようとしている。フレディー・クルーガーを絶対悪の仮称として借り受け、それを支柱として、登場する少女達はいわば回転扉のように、回り回され、めぐりめぐらされ、現実から夢へ夢から現実へと、現われては消え消えては現われる永久運動をくり返す。それはちょうど、ラヴクラフトの神話群におけるメタ現実のモチーフたち(邪神や異端書や魔術師たち)が、単なる空想であることを拒否しつつあらゆる地点時点に現れては消える現象を反復しつづけたことに対抗する。しかし、ここにいたって、野崎がラヴクラフトと構造的に異なる唯一の要素があることを見逃してはならない。
 それこそが、両者のあいだに広がる膨大な時間と空間の懸隔に由来する、それぞれの<覚醒>および<夢>の次元面の、微妙な、しかし決定的な、ずれにほかならない。そしてその帰結が、『ドリームチャイルド』での異常な視点のとり方となって現われる。野崎はここで、六人の女子高生達の視点に入りこむわけだが、しかし――これこそが彼独自の背理破壊への苛烈な意思表明だ――その<入り方>が尋常ではない。井上夢人はかの『プラスティック』において、小説の構造をなすフッロッピーの書き手たちの視点への激越な進入を果たしたが、野崎のここでの侵入は、もはやそれと同次元のものでさえない。

 たまんない。向こうもたまんない。たまんなくって、カレ、どっくんどっくんって熱いものをあたしのお腹の上にたくさん出してしまう。あっけない。熱い。ギェッ早ぇーじゃんかよと思っても口には出せないわ。やさしく彼のまだ半分硬いものを掌で包んであげて。口でなめてあげてもいいから。玩具にするの。も一度、硬くしてあげるの。そしてまた青筋張右衛門(アオスジハリエモン)になった立派なものを今度こそあたしの中に。突っ込んで。突き入れて。こねくって。
 夢。あっ。(『ドリームチャイルド』より)

 野崎はここで、彼女たちの視点でなにかを書いたのではない。野崎はここで、彼女たちになったのだ。正確にいえば、女子高生である自分自身へと<覚醒>した。全共闘世代のむくつけき男であるはずの作家が、時空を跨いで、六人のコギャルどもである自分へとプレイバックした。これはもはや単なるモード変換ではない。野崎はここで、まちがいなく、セーラー服を着たのだ!
 そのさまを眺めて、羨ましがってのみいるというような余裕は、われわれにはもはや残されていない。濁りきった言説の場にはいいかげんに見切りをつけ、ここでこそ意を鼓舞して、野崎が武装したセーラー服の、ひるがえるスカートめくりあげ、そこに秘められている<夢>のような秘密の部分の色彩なりとも、一刻も早く確かめなければ、きたるべき世紀末を目出度く迎えることさえかなうまい。
 白か、ピンクか、花柄かを、早く!

創元推理11 1995冬