和歌山の毒入りカレー事件以来、各地でいろんな食品への毒物混入事件が連鎖反応的に起きている。あれ以来、野外でカレーを作るのはちょっと、という人もいるだろうし、缶入りウーロン茶を買うたびに、ひっくり返して底に異変がないかどうか調べている人もいるにちがいない。ああいう事件の波紋は意外に大きい。みんな疑心暗鬼になっちゃうからね。
 さて、偶然とはいえ、『給食ファクトリー』は、いまの私たちのそんなイヤ〜な気分にまことにフィットした、異色の(といっていいのだろう、たぶん)ミステリーである。
 冒頭まず出てくるのは、病院の待合室にあふれた、おびただしい数の子供たちである。身体をエビのように折り曲げて唸っている子。点滴につながれたまま動けない子。そう、これは二年前に大阪府堺市で起こった病原性大腸菌「O157」による集団食中毒に取材した小説なのだ。
 大阪府S市で学校給食に端を発する集団食中毒が発生したころ、首都A区でもひとつの事件が起こる。こっちはいかにも推理小説らしい「謎の殺人事件」なのだが、殺されたのが学校給食の全廃を主張する人物であり、遺体発見現場が小学校の池だったために、ここでも学校給食が大きなファクターとして浮上する。背後にはどうも給食用食材の納入をめぐる不正がからんでいるらしい。かくて、二つの地域を舞台にした二つの「給食ファクトリー」が進行するという寸法。
 まあ、お話自体は読んでのお楽しみだけれど、この本の最大の見どころは、いまどきの学校給食の現場を、できる限り実態に即して描き出そうとしている点だろう。
 主人公は着任するなり給食主任の役を任された(押しつけられた?)新米女性教師。そこに、働く女の鑑のようなベテラン栄養士や、外部から派遣されたひと癖もふた癖もあるチーフ調理員がからみ、さらには給食アレルギーを理由に登校拒否になった子供のママ、それを理由に「学校給食を告発する会」を組織する親、パンと米飯の卸を独占する業者、その利益をねらう区の実力者などが参入。
 手間暇かけた手作りのコロッケを子供たちが平気で残すというあたりまで含め、「給食ミステリーなんておもしろそうじゃん」という最初の高揚感はどこへやら、給食の裏はこんなにひどいことになっていたのかと思わずガックリきてしまった。
 ことが起こると私たちは何よりもまず犯人探しに躍起になる。一昨年のO157騒ぎのとき、犯人扱いされたのはカイワレ大根であった。後日「あれは冤罪でした」と厚生大臣が自らカイワレにかぶりついてみせたところで後の祭り。その一方で「真犯人」の方は結局うやむやのまま。
 本書ではA区の殺人事件の犯人と同時に、カイワレに代わるS市の集団食中毒の「真犯人」も特定されている。そこがもうひとつの読みどころなのだが、もっとコワイのは、現行の給食制度が続く限り、さらにゾッとするような事態が現実に起こっても不思議はないってことかもしれない。
 <給食室にしのびこんで人為的な食中毒を起す方法なんていくらでもあるのだ。(略)素人考えで頭を使ってもアイディアは思いつく。もしそんなことを計画する者がいるとしての話しだが、べつに苦労はしないでもできるのだ>
 ゲゲッ、どうするんだよ。
 まあしかし、読み心地自体は、そんなに暗くも、辛気臭くもない。登場する人々の職業的な倫理観が、重苦しくなりそうな結末を救っている。

斉藤美奈子 週刊朝日1998.10.9



 二年前、大阪府堺市の小中学校はじめ全国各地に多発した病原性大腸菌O157による食中毒事件の惨禍は、まだ記憶に生なましいが、野崎六助氏の『給食ファクトリー』(NHK出版)は、この事件を導入部に設定して学校給食の闇の部分を照射し、問題点をえぐった意欲的なミステリーだ。
 「O157の食中毒事件があれほどの騒ぎになったのに、その後、問題は何一つ解決されていない。堺市の地元を含めて、事件の教訓は何一つ生かされていないんです。いったいあれは何だったのか。いけない点を直す反省の材料にさえならなかったんですね」
 この小説の舞台は東京都内の小学校。主人公の此花町子は新任教員として着任早々、給食主任の役職を押しつけられた。その矢先、校庭で殺人事件が起きる。殺されたのはかねてから「学校給食全廃」を主張して街頭運動などを行っていた渡辺通麿、五十四歳。通称“伝道師”。町子が給食主任になるとすぐFAXで、給食全廃をアピールしてきた男だった。その上、大阪府S市に住む町子の姪がO157で入院するという災難が加わる。作者はこの二つの事件を通して、学校給食の現状に迫るのだ。そこに姿を現してくるのは、底知れぬ利権の構造である。
 「学校給食は教育の名のもとに行われているわけだけれども、それと利権とは別のことです。ただ、学校給食は自治体まかせになっているので、利権構造がそれぞれ違っていて、“悪”といっても一般にわかりにくい点があります」
 学校給食は、学校ごとに調理場を確保している「自校方式」と何校分かを給食センターで作ってトラックで配送する「センター方式」があり、またそれとは別に自治体の「直営方式」と、民間企業へ委託される「民託方式」とがあるが、総じて非常に特殊な「外食産業」で、学校給食は教育行政だというけれども、<教育という隠れ蓑によって特殊なビジネスが行われているだけだ>。

 「堺市の場合はちょっと違って、ワンクッションあり堺市学校給食協会というのが一手に仕切っている。八十万都市なのに区分けされていないんですね。なぜ堺市でO157事件がもっとも大規模に発生したか、このシステムに問題があったんです」。

 ところが此花町子が勤める小学校は「自校方式」の「民間委託方式」だ。つまり専門の栄養士はいるが、調理員と警備員は民間からの派遣要員。もちろん、それなりの利権はある。たとえばこの小学校は特定の契約の製パン業者からパンが納入されているが、パンだけではなく、週一、二回の米飯も、この製パン業者から届けられる。パン屋がご飯を炊くというのは妙な話だが、学校給食ではそれが当たり前だという。米飯給食が導入された結果、製パン業者の減収分を保証するため文部省の方針でこうなったのだ。それだけでなく、パン屋が設備する炊飯器システムも国の助成金でまかなわれたという。
 もっとも、この作品の舞台となった小学校で殺された“伝道師”の男は、そのような利権を暴くために、給食反対を唱えていたのではない。FAXのアピール文から引くと<学校給食は子供たちを抑圧する道具になっています(中略) 子供たちの顔は不健康にゆがみストレスでたえず痙攣しています 有害食品をたくさん使った学校給食が子供をイジメや非行に走らせるのです>といった視点だ。
 こうしてスジ論を主張していただけなのに、男は校庭の「水亀池」という浅い小さな池で溺死させられていたのだ。給食主任の此花町子はいやおうなしに事件に巻き込まれ、その真相追求に乗り出していく。そして犯人は意外なところに――。
 「当初は、学校給食でもっとも利ザヤの大きい“横流し”の事実を追求していくということにして、そのために殺人事件が起こるというハードボイルドの構想だったのですが、横流しの“動かぬ証拠”がどうしてもつかめなかった。そのため構想を変えて、女の先生を主人公にしたソフトボイルドにしたわけです」
 例えばある定時制高校で新学期に二百名いた生徒が、学期末に四割減の百二十名になったとしても、それは報告されない。その結果、多くの助成金つきの安い食材が市価で横流しされるというメカニズムだ。一件一件は“巨悪”ではないが、全国的に蔓延しているだけに、“日本列島汚職体質”の象徴。
 「“動かぬ証拠”はつかめなくても、作家の想像力で書いては――?」と水を向けると「それではディテールが弱くなります」。作家であると同時に厳しい文芸批評家でもある一面をのぞかせた。

藤田昌司 有鄰1998.10.10