60/70年代を語る――「煉獄回廊」を中心に 2 聞き手・栗原幸夫

2 全共闘小説論

栗原 ただ、野崎さんの例えば『復員文学論』にしても、やはり六〇年代というものがないと、ああいうものは出てきようがないと僕は思っていて……。
野崎 そうなんですよね……。
 話が飛ぶかもしれないけれど、最初の『復員文学論』のことからお話していきますと、あれを書いた動機というのはそんなにたいしたことじゃなかったんですよ。『同時代批評』という関係していた雑誌が、百枚評論というのをまとめてやるからというので、私は名乗りを上げたわけです。あのころちょうど全共闘ブームという現象がありました。リヴァイヴァルですね。「あの時の熱い情念よ、ふたたび」みたいな風潮で、あれが何ともかんとも気色が悪くて我慢できなかった。それを機会に同世代の文学というのはいったい何なのかっていう問いかけをまとめてみようかなと思ったんです。まあ、それぐらいの動機なんですけれど、百枚でとても書ききれなくなって、二五〇枚ぐらいになった。それを持っていくと、岡庭昇さんは、こんな長いもの載せられるわけないじゃないか、とびっくりしていました。前後編分載という形にしたわけですけれども、前編の段階でいくらかの反響もあって、当時の田畑書店から本にしましょうという話がきました。それがたまたま自分の最初の本になったわけです。いまでも、『復員文学論』の野崎なんて言われるとちょっと面はゆい感じもするんです。自分の仕事としてはそんなに本質的なところにあったという意識はないんですよね。
 これを書くときにまとめて同世代の文学というのを読んだんですけれど、実を言うとそれまで一つも読んだことはなかったんです。あんまり傍から見ていてもくだらなさそうなので興味がなかったし。そういうことに対しての反措定も出しておきたいと思ったんです。
 『復員文学論』の最初の章はいわゆる全共闘小説に対する批判ですね。批判というより、どうしてこんなくだらないものしか残せないのかと、非常に単純な憤りみたいなものを言葉でたたきつけたものになっている。結局、戦後の共産主義運動のいくらかの体験というのが蓄積されてきたわけですけれども、栗原さんも『死者たちの日々』という小説をお書きになっていますし、例えば高橋和己の『憂鬱なる党派』、高史明の『夜がときの歩みを暗くするとき』、あるいは小林勝の『断層地帯』でも、ああいったものを乗り越えるものが全共闘文学として出て来て当然じゃないかと思っていたわけです。しかし兵頭正俊の一つ二つの作品を唯一の例外として、乗り越えるどころか、同じレベルさえ全共闘小説は達成していないわけですよね。それに対する憤りというか、何か言っておかなければいけないというのが最初に『復員文学論』のモチーフにあったわけです。
 最初の章の全共闘小説論から始まって、後の章にいくに従っていま栗原さんがおっしゃった六〇年代の私の体験が濃厚に反映してくると思うんですけれども、それがねえ、あまり自分で考えてもそんなにたいしたものじゃないんじゃないかなあという感じがするんです。要するに、今時では当たり前なんですけれどサブカルチャーに対するものすごいこだわりですね。メインカルチャーじゃなくてサブカルチャーが人格を作るんだ、みたいな感情というのは六〇年代に発生したと思うんですけれども、全共闘なんかが起こる前の段階で、六〇年代の前半ぐらい、僕らが中学生、高校生ぐらいで、なんとなく培ってきた感じじゃないのかなという感じがするんですね。それをもう少し世代独自のものとして旗揚げする方向があったのかもしれない。大月隆寛が、わたしと伊達政保を並べて、サブカル左翼の両極というふうに評価してますけれど、その一面では当たっていると思います。両極というのは思想の差異ではなくて、アカルイかクライかという情念の持ちようです。伊達は徹底的にアカルク野崎は根源的にクライ、というのが大月の評価ですね。
 もしそういう世代独自のものがあったとしたら、それこそ復員文学として、我々の世代の文学というのはもっとものすごいものを作りえたのではないだろうか。戦後文学を否定するというのだったら戦後文学を超えるものを我々は用意できたのではないだろうか、と思うんですけれども、実際の話は遠く及ばなかったわけですよね。
 われわれの世代の文学というと中上健次以外に何も残らないじゃないかという気持ちは当時からありましたね。ただ中上健次はあの頃ちょうど『地の果て至上の国』という彼の一番の頂点になる作品を書いたわけです。父親殺し、天皇制批判の文学的頂点ですね。あのときはリアルタイムで判断はつかなかったんですが、中上は以降、あれを超える小説を書いていないと思います。あれから死ぬまでの中上文学というのは衰退とは言わないですけれども、やっぱり変な方向に行った。変な方向に行ったということを全然いまの中上ブームというのは言わないわけです。なんか、中上が神格化されてしまったみたいな感じは非常に困ったものです。『復員文学論』は、中上文学を途上のところで評価することになったわけですけれど、勘として、中上は敵にまわると感じていました。あとの中上の軌跡をみると、その通りになったと思えます。
 結局、世代論というと、あれから私につきまとったイメージというのはものすごく世代にこだわる奴だなというふうな言い方もあったわけです。自分自身はそういう意識はないんですけれども、人が見たらそう思うのかもしれない。なぜそこまで自分の世代の体験にこだわるのか、その理由を自分でもちょっとわからなくなったことがあります。どういうところからモチーフが出てきているのかなと思ったら、それは『復員文学論』自体にはないんじゃないかなと思いはじめているんです。ただ、偶然にあの本が私の一冊目になったわけですけれども、これで出て良かったのかなあ、悪かったのかなあっていう感じです。
 あれから全共闘世代のあいだでもっと論争しようじゃないかというふうな呼びかけもありましたけれども、結局その論争そのものは実際には残らなかったわけです。ただ僕らの世代としてはいろいろいっぱいいるんだけれども、個性はいろいろあるんだけれども、論争が起こるというよりも、結局みんな仲良しなんですね。
 『復員文学論』は途上で尻切れトンボに終わっているようなところがあります。あれで、最後に書かねばならなかったのは連合赤軍問題です。それと連赤にとどまらない内ゲバの問題。少なくともあれを書き終えた八三年の十一月ごろにはその力量がなかったと思います。活字になってからのさまざまの反応が他人事のように感じられて、自分のなかの軸もいろいろと揺れ動いていたと思います。選択肢の一つに小説を書きたいという欲求もあったんですが、あのころではとても書けなかったでしょう。『煉獄回廊』をふりかえって思うのは、自分が当時書きたかったいくらかの事柄をようやく小説のかたちで書きえたという感慨ですね。
 話はもどるかもしれないですが、七十年代が六十年代と地つづきになっているという意識をわたしはどうしても持てないです。やはり断絶があって、七十年代というのは一方ではテルミドールの季節だったと感じていた。どうにも遅れて来たというのか、輝ける日々はもう過ぎているというのか、そんな意識を払拭できなかったですね。そのなかでもまだまだ自分の好き勝手に生きる空間は残されていましたけれど。
 
3 ドッペルゲンガー

栗原 野崎さんには、探偵小説だけじゃなくて評論も含めて、なにかこう、ドッペルゲンガーに対する関心がものすごくあるんじゃないですか。
野崎 ありますね。影の人物にたいする関心というより、自分の存在にたいする疑いみたいなもの。自分はほんとうは存在していないのではないかという根強い意識です。これはどうもずっと小さいころからあったようです。この世界がニセモノだというより、この世界は盤石なんだけれどそこに属している自分がじつはニセモノなんじゃないかという怖れです。
栗原 たんに二重人格というのではなくて、存在としてのドッペルゲンガーみたいなものに対する野崎さんの関心が、僕は、野崎さんを探偵小説の世界にずっと引き込んでいったんじゃないかなというふうに、野崎さんの作品を読みながら感じたんですけれど。
野崎 それはそうです。『ドグラマグラ』に惹かれたのも、まさにそれです。『Yの悲劇』にしても、あれは十三歳の少年がマリオネットのように操られる物語だ、とまず最初に読めてしまうわけです。基本的には、自殺したおやじの書いた殺人小説のすじ書きが隠してあって、それを盗み読んだ子供がその通り実行するんですが、操られているのだと読んでしまう。テキストで凶器を指定してある箇所を子供だから読み間違えてしまうところとか、背丈が小さいから薬品庫の棚から毒を取り出すとき椅子を使って手がかりを残してしまうところとか、ミステリーでは常套の複線の張り方になりますが、そういう部分にいちいち震えがきてしまったりする。わたしにとって『Yの悲劇』は、何よりも操られた子供の悲惨な話だったんです。その時分は推理小説といって、今はミステリーと称しますが、どちらの用語もぜんぜん想像力を刺激しない。塔晶夫が素敵だと思ったのは、探偵小説という呼称を自覚的に選んでいたからだと思います。存在を揺り動かしてくるものは、すべて探偵小説と呼ばれないといけないと感じていました。
栗原 『煉獄回廊』には二人の主人公がいます。日置高志と沖孝。つまり「日=非」が付くか付かないかなんですね、これは。そういう形で二人の人物を設定して、実は、沖孝というのは実際はいないわけですよね。だけど非常に重要な役割を果たしているわけだけれども。六〇年代の中で生きていた人間というのはある意味ではそういう分裂している、というふうに見ているわけですか。
野崎 そうじゃなくて、私だけのケースだと思うんですけれど……。
栗原 僕なんかはやたらと分裂した奴とばっかり出会っているから、ある意味では普遍的な現象だったんじゃないかなと思いながら、よけい、面白く読んだんですけれどね。
野崎 時代そのものが何か大がかりな分裂症を呈していたというふうにも今は思えます。そういう中でナイーヴな人間はすべて、分裂気質というものを個人で背負っていたんではないですかね。お祭りが日常性だった時代にあって、そこに居心地よく適応していた連中はそれぞれけたたましい分裂症状の生き様を残しているわけだし、それが全共闘のいわゆる昔の「自慢話」のコアにもなっているんでしょう。それを小説の題材にすれば、やはり七十年代特有の特権的なトポスが前面に出てきますよね。ああいう無茶苦茶な暮らしが当たり前だったんだなあと我ながら呆れるところろがあります。
 でも小説が目指さなければならないのは、そうした自明に「幸福な季節」が過ぎ去ったとき、個人の責任はいったいどうなるのかという点を解明することです。わたしの言い方というか、『復員文学論』の文体からすれば、世代の責任みたいになりますけれど、最終的には個人でしょう。分裂症というのは、それぞれの個人が胸に抱いて収束をはかる必要があった。まあ、世代の総転向みたいな現象ですけれど、これはわりと全体的にはスムースに移行したと思います。自己正当化の論理には事欠かなかったわけだし。その代わり、総転向には関わらなかった部分に対しては償いようのない害毒というか遺恨をふりまいたのでしょう。つまり「全共闘体験の遺産」と呼ばれるべきものは、それに関わったりそのカテゴリーに入る身内の人間以外に対してはことごとくマイナスに作用する困った代物なのですね。当事者にそういう自覚が少しでもあればそのマイナス作用もいくらかは軽減されるはずなんですが、それもあまり望めない。自覚症状はきわめて薄かったと思います。
 話をもどしますと、ドッペルゲンガーはミステリーを書く上でのテクニックでもあるんです。小説の枠組みですね。『煉獄回廊』を書こうとして挫折したことが何回かあるんです。最終的に枠組みとして利用したのはリチャード・ニーリーの『殺人症候群』です。これはドッペルゲンガーをあつかったサイコ・サスペンスです。二人の人間だと思いこんでいた男が最後には一人の人格の分裂体だったという結末になります。基本は二重人格ですが、これは発表された時期が比較的早かったのでそう称されなかっただけで、典型的な多重人格の症例をミステリーにとりこんだ作品です。
 わたしも一回は多重人格の小説として書こうと試みたんです。
 多重人格障害というのは、正確には、解離性人格障害といいます。いちばん多くみられるのは、幼児期に性的虐待(セクシャル・アビューズ)を受けて発症していくというケースです。現実の生活のなかに耐えがたい脅威があるとします。自分の親から性的なものも含めて暴力を伴った虐待を日常的に受けるというような脅威ですね。そこから逃げるために、他の逃避手段がなかった場合、想像の人格をつくってそのなかに逃げこむわけです。現実の自分を打ちくだくような恐怖と脅威も、別人格のシェルターに逃げこめば通り過ぎていってくれると思える。基本的にはだから、自己防衛のメカニズムともいえるでしょう。想像の人格の殻に閉じこもっているかぎり、現実の脅威は進入してこれないのです。ところがこのメカニズムがさらに進行していくと本来の人格との接点が切れてしまうのですね。元の人格にもどれなくなるのではなく、人格を切り換えた別のステージの記憶がなくなるのです。他の人格のときやった行動や感じた意識を思い出せないという症状は、これにあたります。一人の人間を統合している統一性が喪われるのです。
 子供のころ、マルセル・エイメの「一日おきに存在することしかできない哀れな男の話」なんかがとても好きだったんです。病例にあてはめれば、これは多重人格の症状ということになりますよね。
 何年か前ですけれど、『24人のビリー・ミリガン』を書いたダニエル・キイスが来日して、ちょっと話したときに、言葉は悪いんですけれど、感銘を受けたことがあります。ダニエル・キイス氏とちょっと対面しただけで、この人は本当にまともに幼児期の辛い体験をくぐってきた人なんだなというのがぱっとわかっちゃったんですね。ビリー・ミリガンはこの極端な症例で24人分の分裂人格が確認されたわけです。そのなかには、外国語をしゃべる外国人から幼い少女までが含まれています。ビリーという元の人格はずっと眠らされているんです。なぜかというと、彼が人格のステージに出てくると絶望して自殺してしまうからだといいます。沢山の人格のなかには善役と悪役とがいて、悪役はビリーを引っ張り出して「自分たち」の個体を手っ取り早く終わらせようと画策したりします。ダニエル・キイスによれば、多重人格障害は精神病ではなく治癒可能な精神病質にすぎないのだといいます。記憶の不快な断裂と自殺願望が激しいほど症状は重いわけですね。しかし治らない病気ではない。
 わたしも自分の現実逃避のメカニズムを思い出してみると、やはり想像上の人格をこしらえてその殻に閉じこもろうとするみたいな局面があったと思います。ただわたしの場合は、それほど決定的に強い外因はなかったので、つくりあげた人格が独り立ちして元の人格との接点を切ってしまうところまで到らなかったのでしょう。ただ、だから人より多少はこのケースを深く理解できるような気はしていました。
 ミステリーのローカルな現場では多重人格ものというのはけっこう書かれたり、作家で「私は多重人格だ」とかいう人がいたりしたんですよね。それで自分もそういうのでちょっと試しにやってみたらどうかなと思って、多重人格サスペンスを試してみました。結局、うまく完成できなかったんです。多重人格というのは必ずしもドッペルゲンガーじゃないんですね。ドッペルゲンガーが複雑化したというものではなくて、ちょっと別のカテゴリーとして考えたほうがいい。そのときは兼業で、会社で働きながらものを書いていたので、結局、家に帰るたびに人格を入れ替えないとものを書けない。それで自己暗示みたいなものとしてね、俺は多重人格だと、六重人格を演じ分けているんだと、思いこむようにしました。六助だから六重人格。じっさいに六人分くらいの分裂はしょっちゅう感じていました。そういうミステリーを構成しようと思ったんです。それは結局失敗してしまいました。小説の枠として使いこなすのが無理だったですね。じじつ、ひところ多重人格サスペンスというのは、ものすごく流行ったんです。アメリカ映画でもけっこうありました。あれはほとんど全部ゴミでしたね。
 失敗した構成として考えていたのは、多重人格のところが、一つの人格ごとに一人の女を殺す。六重人格だから六人殺します。で、元の人格に戻ってもう一人殺す。合計で七人の女を絞め殺す、というふうな一つの案を持っていたんです。ただそれが自分の力量では、七人の女を絞め殺すんですけど、それが全部同じ場面になっちゃうんです(笑)。絞め殺す描写がすべていっしょでした。六人おんなじ人格が並んでるだけだった。個性を書きわけられない。非常に単純な繰り返しになっちゃうんですよね。『煉獄回廊』の主人公の通称が多羅尾伴内というのはそのときの名残りです。「多羅尾伴内・七つの顔の男だぜ」です。七つの顔の男だから六重人格の一段上のレベルにいる(笑)。じつは、野崎六助の前のペンネームがそれです。格好良かったんだけれど、呼ばれるときとか、自分で名乗るときとか不便でしょう。実用的じゃないから諦めた。
 それで多重人格の方向は断念して、またドッペルゲンガーの話にもどしたんです。ドッペルゲンガーに交換殺人を組み合わせた。
 ただ構成的な工夫だけで『煉獄回廊』を書くことができたわけではないでしょうね。なんとかくぐり抜けることが出来たのは『謎解き「大菩薩峠」』を書いてからなんですね。あの『大菩薩峠』を自分なりに読むという体験は非常に深く自分の小説家としての奥底にあるものを掘り出してきたんじゃないかなと思っています。ですから『煉獄回廊』は『謎解き「大菩薩峠」』を書かなかったらできなかったでしょうね。
 幻想と現実がすれ違うというのか、現実とは別のステージが自分の意識に現われるということは、いつも起こっているような気がします。いちばん見やすい発現がドッペルゲンガーという現象なんですね。『大菩薩峠』も極端にいびつな天皇制日本人ドッペルゲンガー小説ですから。
 幻想と現実とを天秤にかけると、決まって幻想のほうがいつも優位にきます。わたしにとって『大菩薩峠』の後半は、一大幻想ファンタジーとしてまったく抵抗なく読めるわけです。だから病気をしても普通の病気にかからないのかな。内臓を悪くしたことはないですし、五十年も生きたらどっか悪くなりますから、神経とか脳とかに過負荷がくるんでしょう。抜いたはずの奥歯から激痛が発してくるという奇病は小説に書いたとおりです。あれは交感神経がおかしくなった。こないだは脳にきました。『ドグラマグラ』の病例的実践みたいなもんですね。治ってみるとゲンキンなもので、病気自慢をしたくなります(笑)。医者も首をかしげるような悪化の症状を呈しました。入院十日目くらいで、ふつうは回復してくるはずが、急激に悪くなったんです。最悪のときは三日三晩寝ないで、肉体は全身痙攣の状態だからベッドにしばりつけられて、譫言をしゃべりつづけていたらしい。あとで聞いたからわかることですが、現実レベルで自分が何をしたとか言ったとかはぜんぜん知らないんです。けれども、一方の妄想のレベルでは、これが非常に意識ははっきりしていたんですね。幸いにして、この記憶はだんだんと薄れていってくれてますけど、当初はほとんどそっくりそのままわたしの頭を占拠していました。どんな悪夢でも夢は見たそばから忘れることができます。けれど醒めて見る夢は意識のなかにずっと沈んで残っているんですね。
 幻覚を見ること、その幻覚がたとえば自分が命を狙われてどこまでも追っかけられるといったようなストーリー性を持つことは、わたしのかかった病気では一般的なんだそうです。全身の痙攣もそうです。あとで聞いてたいへん安堵したわけですが、それにしても幻覚レベルのことが克明に記憶されているといった事態は辛いんです。病室の情景とかベッドに身動きならず縛りつけられている不快感とかも、幻覚シーンに別のかたちで入りこんでいましたから、意識は現実レベルにも少しは開かれていたんでしょう。しかし幻覚のレベルで意識はほとんど全開状態だったんですね。まったく無防備だったということです。しかも克明に記憶して保存している。ちょっとたまらない状態です。まわりでも「こいつはもう再起不能だろう」と見えていたようだから、たまらなかっただろうけれど、本人も幻覚レベルで意識が無防備に全開になっていることが耐えがたかったです。
 幻想と現実のすれ違いという様相は、病気のときも通常以上にはっきり起こっていたんですね。充分に恐怖は味合わされましたが、残念ながらわたしの体験した恐怖の幻覚のストーリーは創作には利用できそうもないものでした。第一、長すぎるんです。三日三晩の大河ドラマですから(笑)。引き延ばしの場面が多すぎる。イメージ的にもけっこう繰り返しが多用されていましたし。繰り返し・反復はホラーの常道といっても、かなり単調なパターンで、要はわたしの主観だけを痛めつければいいという目的で構成されたものですから、転用はきかないんですね。いちばん鈍いダメージのくる恐怖というのは、ただ不愉快なだけの代物かもしれません。しかしこういうのはすべて後知恵ですから、幻覚にとらわれていたときはかなり徹底的に痛めつけられました。

      

文学史を読みかえる6 大転換期 60年代の光芒』 2003.1 インパクト出版会