60/70年代を語る――「煉獄回廊」を中心に 3 聞き手・栗原幸夫


4 曲馬館

栗原 これもまた『煉獄回廊』に天馬団という名前ででてきますが、野崎さんは七〇年代の初めですか、曲馬館の芝居に関わっていたわけでしょう。
野崎 初めじゃないです。半ばから後半になります。
栗原 それは役者なんですか、それともどういう形で?
野崎 役者じゃなくて、最初は客です。非常に彼らは観客を惹きつけて、オルグしていくという面があるんですね。で、素人でもどんどん芝居に出しちゃう。それが方法論でもあったわけです。七六年が最初の出会いです。人によっては曲馬館の一番の最盛期というのはそれより前にあって、七六年にやった芝居というのはたいしたことないというふうに言う人もいます。それはともかく。七六年の五月に京大の西部講堂に曲馬館が来て、それからです。芝居は『日本乞食オペラ』と『踊る一寸法師』の二本立て、日替わり公演です。『オペラ』のテーマはひとことでいえば、「ヒロヒトを殺せ」です。東アジア反日武装戦線狼の虹作戦に呼応したものですが、衝撃を受けたのは、そうしたアジテーションの側面じゃないんですね。芝居がはらんでいた名づけようのない混沌とした活力に何より打たれたんだと思います。誤解をまねくような言い方になりますけど、アジテーションだけなら「ヒロヒトを処刑せよ」が「天皇陛下万歳」にでんぐり返っても、衝撃の質はいっしょだったと思います。
 そのとき曲馬館は全国縦断旅興行を数ヶ月つづけて、最終的に九月に東外大の日新寮で無許可でも上演するという方針を立てていました。九月二五日、日新寮に突入して、一五名逮捕という事態になります。そのとき救対みたいな活動があったんです。東京をもちろん核にしていたんだけれど、京都も人が自然に集まってきたんですね。京都でも芝居だけじゃなく音楽をやってる連中なんかが曲馬館という刺激を受けて集まりました。曲馬館の中心メンバーが六名起訴されて裁判になった。あのころは新左翼党派の裁判闘争もずいぶんと行儀の良いものになっていたと聞きますが、曲馬館の裁判は紛糾したものでした。大げさにいえば、法廷がアングラの舞台になったみたいな。傍聴席からヤジ飛ばすとか、セクトがやらなくなっていたことを復活させたんですね。裁判官は、あいつ近藤ってやつだった、屈辱感に顔がひきつりどおしでした。菅孝行さんが特別証人で弁論をしてくれました。しかし裁判官には馬の耳に念仏でした。裁判官忌避という戦術をとったんですが、それで法廷が騒がしくなったときに、被告の一人が立ち上がって近藤に面と向かって「おまえはクビじゃあ」と叫んだんです。傍聴人は全員、退廷を命じられた。裁判所から追い出されちゃった。弁護人は「あれはクビと言ったんじゃない、忌避と言ったんだ」という苦しい言い抜けを試みていました。忌避なんてむずかしい言葉、叫ばないですけどね(笑)。
 そういうかかわりで、また足が抜けなくなったんです。七〇年代の後半だいたい曲馬館とのかかわりというのは続いていますね。実際に入ると言ったのは七八年だと思うんですよ。沖縄興行に行ったときに付いていって、そのときはもう、京都の暮らしを清算して東京に出て行こうと思っていましたから。必ずしも曲馬館に入るから東京に行くっていうんじゃなくて、自分は物書きとして生きていきたいから東京に行く、その一つの環っかとして曲馬館にもかかわりたい。それが七八年ですね。七九年の正月にこっちに来たんですけれど……。
栗原 そのときから野崎六助というペンネームに?
野崎 野崎六助は、七六年ぐらいに付けたんです。いや、さっきも言ったようにいっぱいペンネームは付けていたんですよ(笑)。どれがいいかなっていうんで、野崎というのは非常に据わりのいい名前で、呼ばれても別に抵抗はないし、自分で名乗るのもまあ言いやすいし、それが自然と定着してしまいましたね。
 で、七九年の正月に京都の下宿を引き払って、曲馬館の稽古場に何人か住んでいたんですけれど、そこに住みつく。そうしたら間の悪いことにですね、曲馬館はほとんど壊滅状態だったんです(笑)。七九年は曲馬館をどうするのかっていう話し合いでずっと過ぎてしまいました。それは消耗しましたね。なんで俺はこういうところばっかりかかわるんだろうとか思って。そのときは自分が芝居の台本を書くというふうに言っていたんですけれど、台本も何も、集団としてガタガタになっていて、やめていく奴はどんどんやめていくし、もう支えきれないというところまで行っちゃったんですよね。七九年には、寿町の夏祭りに参加して短い芝居をやりました。その年の活動はそれだけでした。役者は七人くらい、時間も一時間ほどでした。わたしが台本を書きましたが、オリジナルじゃなくて『四谷怪談』と『犬神博士』をパッチワークしたみたいなものです。あれ書いて困ったのは、書いた者が演出もするんだという不文律が曲馬館にはあった。ぼくはそんなこと知らんです。翠羅臼は役者で出ないので身体もあいているし当然、演出するんだと思って、こちらは台本さえガリ版をきって印刷すれば自分の役は済むと決めこんでいた。ところが稽古が始まるとみんな役者はこっちを見るんです。セリフが一段落するとこっちの反応をうかがう。なんでオレの顔を見るんだよと思ったけれど、演出もやれという流れになっているのだとわかって焦りました。しばし立ち往生というところでした。あとで梅本というやつが言うことには「おまえはおとなしすぎて演出に向いてへん。もっといろいろ言わなあかんよ」と。こっちは演出の仕方なんてわからないから困り果てていただけなんです。
 そのあたりがちょうど八〇年代になって、僕の暮らしもちょっと切断があるんです。いわゆる分裂的な人間というのがいっぱいいたんですけれども、本当に気が狂ったみたいな人間が。まあ、振り返ってみればあれが六〇年代的人間かなあとか思うんですけれど、アングラ芝居の役者なんてのはまさしくそういう六〇年代の申し子ですよね。ただそれが七〇年代も続いていたなという記憶が非常に鮮明なんですね。自分の個人的な体験も重なるわけですけれど、それは七〇年代でだいたい終わっちゃったなと思っています。ですから、『復員文学論』の復員という意味は、終わっちゃったものを再戦したいというふうなモチーフがあったんだと思いますね。
 当時のいわゆる唐十郎以降のアングラ劇団ね、ことごとく再編成というか再編成できなくてそのままになっちゃったところもあるし、曲馬館だけじゃないんですよね。例外なく、もう、一つの時代を終えてしまったと思うんです。
栗原 しかしそのなかから風の旅団のように、八〇年代を生きぬいた劇団もでてくるわけでしょう。
野崎 旅団に関してはまったくそうです。一つの時代が移り変わって、新しい組織論が用意されたのだと理解しています。ただ、旅団の活動と寄せ場の運動、それと佐藤満夫と山岡強一による映画、それらは全体として歴史化されなければならないと思います。その作業はわたしにはちょっとできないです。映画『山谷 やられたらやりかえせ』に関しては少し書きましたけれど、寄せ場の運動全体、文化運動と政治闘争の総体と関連づけて評価していく必要があると思う。わたしはその任ではありません。現場に身をおいてなかったからですね。
 九一年に曲馬館の仲間だった梅本功光が死んで山谷の労働者福祉会館でお別れ会がありました。そのときのことを書いて『エイリアン・ネイションの子供たち』の終章に付け加えたんです。本の内容とほとんど関連なかったけれど、自分のなかではつながっていたので無理矢理入れました。あとで梅ちゃんの追悼文集が編まれたとき、それを再録しました。時間の余裕はあったから、ほんとうは追悼文集用に別の文章を書くつもりだったんですが、どうしても書けなかった結果です。編集をやっていた桜井大造は「あそこに全部書いたんだから書けなくて当たり前だよ」と了承してくれましたが、わたしとしては追悼文の別ヴァージョンを書けなかったことが心残りになっています。わたしは旅団について劇評めいたこともふくめて何も書いていないんですね(いちどだけ旅団の公演が官権につぶされたことの抗議文を『同時代批評』の八号に書いただけです)。書かなかったというより書けなかったんでしょう。池内文平にはどこかに書くように言われたけれど、四苦八苦して結局断ってしまつたことがあります。だから追悼文の別ヴァージョンを書けなかったことは、旅団について書けなかったことと同じだと思えるんです。やり残しみたいなものです。
 桜井が言うには、あの追悼文集には三つの柱があって、翠羅臼と大谷蛮天門と野崎六助だというのです。翠にしろ大谷にしろ、どちらも見事に己れの歌舞いた生き様と梅ちゃんとの交渉との情景が回想を通して表われているんですね。わたしのは、やはり、自分の本用にどこかつくったところがあります。追悼文集用ではないんですね。あれは手作りで出来た本ですけれど、昔の『曲馬館通信』を思い出させます。
 曲馬館では、そのあと、高木淳と市川米五郎が死にました。『道化と鞦韆(ブランコ)』という芝居のとき、梅と高木のおっさんと米五郎が三人組で出てくるシーンがあるんです。ちょうどあの芝居のころには稽古場にその三人だけが住んでいて、いつもささいなことで口喧嘩していた。その日常を翠の台本がそのまま取りこんでいて、すごく滑稽でもの哀しかったのをよく憶えています。何か偶然ですが、その三人が故人になっています。米五郎の死にさいして翠が書いた文章はたいへんに心にしみるものです。
 九四年になって、桜井が旅団を解散して、新しく「野戦の月」という集団を結成しました。解散というより、発展的解消というべきですか。活動はつづけていきながら、別の公演形態を模索していく方向だと思いました。そこでわたしも芝居原作を書き下ろすという形で引っ張られるわけです。まあ、わたしを現場に呼びもどすための桜井の友情だったと感じました。しかしわたしにはもう芝居の現場が居心地いいと思える感覚が消えていたんですね。「野戦の月」という集団も、一つの芝居をやるために桜井を核としてそのつど人を集める実行委員会みたいなものだったと思います。まあ、『幻燈島、西へ』という公演は、わたし個人に関するかぎり、あまり面白い展望は見つけられずに終わりました。わたしのなかでは芝居現場への反応の仕方がもうずいぶんと変容していたのでしょう。
 原作本については平岡正明さんに褒められた。褒められたんじゃなくてからかわれたのかもしれないですけど、よくわからない。
栗原 すこし雑談的な質問になっちゃいますけど、小説にも出てきますが京都時代に太田竜にお会いになったことがあるんですか。
野崎 えーっと、正確に言えば、まだ京都に住んでいて東京に出てきた時なんです。会ったというか、会わされた。新宿の喫茶店で。片っ端からあの時太田竜に会わせたがる奴がいてね、適当に紹介するんですね、曲馬館の誰それだとか言って。見たらがっかりしてね、これがドラゴンか(笑)。なんか学校の先生みたいなタイプなんですよね、非常におとなしくて。当時、爆弾闘争の三教祖と称された人で、平岡正明と竹中労は、文章そのままのアグレッシヴな人でした。竜将軍は文章との落差があまりにも極端だったですね。だからよけいに忘れられない。白のワイシャツを着てね、きっちり三回折り畳んで肘が出るようにしているんですよ。で、一生懸命折伏しようとしゃべるんですけれどね、声が小さくて聞こえないんですよ(笑)。でかい喫茶店だったから。聞こえないけど、適当に「はい、はい」と言っててね。もともと著書でも尊敬しているということはなかったから。ちょっと迷惑だなあと思った。新宿の喫茶店で会って、帰りにお好み焼きを食べに行ったんですよ。そうしたら、お好み焼き、焼けないんですよね、あの人。で、焼いてあげて(笑)。

        

文学史を読みかえる6 大転換期 60年代の光芒』 2003.1 インパクト出版会