高山文彦『水平記』書評
歴史の主役は偉人なのか、それとも無名大衆なのか。
ハンセン病で早逝した作家の評伝『火花』で知られる著者は、本書の主人公松本治一郎との出会いを、「あとがき」で素朴に記している。評伝対象への熱い想いが、七百ページをこえる書物全体にみなぎっているとの自負を表明したわけだ。だが本書が一筋縄ではいかないテーマに関わってしまったことは、「松本治一郎と部落解放運動の一〇〇年」とされたサブタイトルにも如実に表われている。人間松本を描く試みは同時に、解放運動と日本近代史との錯綜に評価を下す責任をも負ってしまう。著者は、すでに数かずの伝記によって跡づけられた「偉人松本」の像を新たに更新するばかりではなく、部落解放運動が通過してきた幾多の困難(とりわけ十五年戦争下の抵抗と翼賛)への納得に足る歴史解釈を下す責務を持った。
前者のみでも労多い作業だったと想像されるが、著者は多くの新資料による成果を注ぎこみ、一定の達成を勝ち取ったといえよう。しかるに後者は? ――評伝は歴史解釈にあらずと突っぱねてしまえないところに、「部落解放の父」と称された松本の複雑な位置がある。
『水平記』は、松本本人の軌跡をたどる「本紀」の部分と、松本という太陽系をまわる幾多の恒星的人物を素描する「列伝」の部分とから成る。列伝が破格に面白い。西光万吉のような有名人の配置のされ方も面白いが、脇役たちの存在が抜群に光っている。徳川公爵邸放火事件を起こし罪状を単身で引き受けた浜嘉蔵、松本をフレームアップするための密告者に仕立てあげられた柴田甚太郎、戦後の松本がスターリンと会って日本革命の指導者たれと指令されたという怪文書を書いた末安宏國、あるいはこれも戦後、松本をライバル視して姑息きわまりない策を弄する臣吉田茂(本書では、ほんの端役のあつかい)など。いずれも、型通りの本紀では脚光を浴びないだろう観点だ。
本書の白眉は、いささか偉人立志伝のおもむきがなくもない(すでによく知られている逸話も多い)戦前、戦後の項目ではなく、いわば解放運動の「恥部」ともいうべき戦中の項目だ。十章から十二章である。この部分が最も読みごたえがあり、かつ、なおもっと書かれてしかるべきではないかという不満を残した。
その理由は――すでに述べたとおり、本書の一方の主役が松本の生きた時代そのものだからである。そこに絡まった反差別と社会変革というテーマ。戦時下における翼賛行動は、どこまで時局への迎合だったのか、そして、どこまで社会変革を求める誤謬だったのか。これは熱病のような問いであって、有効な答えは見い出されていない。答えの出ないまま、われわれは新たな二十一世紀の翼賛社会に漂着している。本書の時代解釈もそこで立ち往生した気配だ。水平社を「解散させないため」に、松本の側近たちが謀った術策を発掘する作業はスリリングではあっても、要するに内部状況の研究であって、全般的な戦争責任論に対応するものではない。
先行する松本伝は数多いが、その一方の極にあるのがキムチョンミ『水平運動史研究 民族差別批判』だ。松本を戦争犯罪者として告発する、原理主義的社会批判のスケルトン。著者はこの書名を引き合いに出してはいるが、その基本的モチーフについては慎重に直接言及を避けた。ただテーマは「松本が戦争に協力したのか否か」という集約にはないと思う。それほど簡単に片づくのなら、われわれの戦後はもっと別のものであったに違いない。翼賛社会における抵抗は、どのようにそしてどこまで可能なのか。解放運動史における巨大な未決の論点が取り残った。――それがこの大著への偽らぬ印象だ。
週刊読書人2005.7.1