パムクの世界

 オルハン・パムクの新作『雪』が「ノーベル文学賞に最も近い現代トルコ作家の邦訳第二弾」として刊行されたのが、本年(2006年)三月のことだった。本はさして大きな反響を呼ばなかったようだが、半年後、予想にたがわずパムクは受賞者になった。邦訳本の帯にはまた、「著者、最初で最後の政治小説」「9.11以降の今日を予見」などの言葉が並ぶ。どちらも小説と社会をつなぐ太い絆を当然の前提としたコピーである。
 『雪』はKaという主人公が雪(トルコ語でカル)深い国境近くの町カルスを訪れるところから始まる。冒頭を読み、カフカ『城』を連想する読者も多いだろう。タイプとしては近代文学に特有の芸術家小説だが、同時に避けようもなく政治文学でもある。作者の脳裏には、スタンダール『パルムの僧院』ドストエフスキイ『悪霊』ジョセフ・コンラッド『密偵』といった政治小説がある。トルコ人として故国と世界に向き合わねばならない作者のポジションは明快だ。そして、雪に閉ざされた町に男が入っていく数ページのみで、一挙に読者を硬質な文学世界に招き入れる強烈な文学的個性も。
 ここでは、二冊ある日本語訳作品を手がかりに、パムクという作家の傑出した個性と、グローバリゼーション世界にそれが要求する位置とを簡単に探ってみたい。
 前作『わたしの名は紅〈あか〉』の「日本の読者へ」で、《これはわたしの一番幸せな本です》と書いている。率直に表明されたように『わたしの名は紅』は、見事に美しい構成をそなえた芸術小説だ。もとは画家志望だったという作者の資質がすみずみまで行き渡る。近代以前のトルコ、イスタンブール、因習に生きる細密画師の狭い世界が舞台だ。――こんなふうに紹介すると、予備知識のない人は作者をノーベル賞に輝いた「後進国作家」と早合点するかもしれない。それは違う。パムクのバックボーンに十九世紀文学の巨匠たちの痕跡があることはたしかだが、彼もまた二十世紀末を生き延びた同時代作家の例にもれず、現代西欧型ポストモダン小説の高度な技法を身につけている。素朴な表現法は彼の対極にある。
 『わたしの名は紅』のストーリー部分の多くは、細密画師二人の殺人とその犯人究明にあてられている。全体は五十九章、章ごとに語り手は変わり、主要人物が語りを交替するだけではなく、視点は屍や動物や木や金貨にも移り、はては犯人自身の視点(彼がだれであるかは伏せて)を引き入れる。現代ミステリにはありふれた一人称多視点の並列構成だが、もちろんストーリーも叙述スタイルも便利な借り着として利用されているわけだ。小説の中ほどにタイトルと同じ「わたしの名は紅」の章が置かれるところからもそれは明らかだ。この小説の真の主人公は絵画であり、語り手はそれ故、いたるところに遍在するはずなのだった。「わたし」は至高の赤、クリムゾンを追い求める。
 殺人がミステリ・タッチで描かれるのは、その動機をテーマとして引き出すためだ。犯人が追いつめられる最終章近く、人物たちがかわす会話に、「東と西」というパムク文学の悲痛なメッセージが噴出してくる。近世の物語はそこで現代の苦悩に変容する。そして犯人が逃亡していく海に面したイスタンブールの街路の美しさ! 『わたしの名は紅』ほど禁欲的でありながらも、広く世界にひらかれた豊饒さをたたえた作品は稀有だろう。
 比較していうなら、『雪』は直面する現実問題をとりこんだ状況的な作品となっている。政治は降り積もる雪よりも厳しく作者と人物を凍りつかせる。書き出しの一行は《雪の静寂だと考えていた、バスの運転手のすぐ後ろに座っていたその男は。》である。語順が転倒したようにこちらの居心地を悪くさせる文体のクセがこの作家の特質だとやがて知らされる。訳文は読みやすい日本語を心がけるより、原文の「いたたまれない」感触を伝えることを優先したようだ。カフカの『城』が「深い雪に被われていた村に着いたのは遅かった、Kが」と試訳されるのにも似て、語尾へ語尾へと追いやられる主語に、不安が募るのだ。
 もういちど強調するが、『雪』は芸術家小説だ。前作が芸術自体を主人公にしてそれに従事する群像を周囲に配した芸術小説であるのに比べ、芸術家個人の苦悩が前面に出た。とはいえ「恋にも革命にも失敗した」挫折知識人であるKaにそくして読むと、かなり気分の滅入る近代小説であることは否定できない。物語は中半をすぎ、三人称で語られていた叙述がKaの友人によるKaの伝記の試みであることが明らかになる。技法が勝った処理であるとはいえ、この語りの二重構造によって小説が近代苦悩文学として洗練されたものになったことはたしかだ。
「犬のように殺される」
 その部分には引きずられず、詩想(もしくは詩魂)を核にした芸術小説と受け取るほうが有益だろう。Kaは詩神に身を捧げるために雪の国境の町にやってきたのだと。だが、詩には、活字芸術には、現実状況を排除して禁欲的世界をつくることは許されない。『雪』は作者にとって「一番幸せでない本」かもしれない。二十世紀の芸術家にとっては政治に翻弄されることが誠実を証する試金石ですらあった。Kaが打たれる詩想はそのまま現実のグロテスクな惨禍を映し取ったものでもある。
 その意味で、Kaは小説のなかにアルメニア人虐殺問題やクルド民族独立派弾圧問題(これらへの発言が「政治的作家」パムクの名を西側に知らしめた)を引き入れるための便宜的な装置だといえる。
 パムク文学の質感を大まかにまとめれば、次の二点となる。一、口ごもり入り組んだ感情と思索を発信しながら、確固として伝わってくる明るい叙情性。二、その一つひとつに寓話的な力のある夥しいエピソードをちりばめ、それらによって有機的な作品を構築する力能。
 『雪』が彼の最初で最後の政治文学になるかどうかはわからない。だが、少数民族問題への発言によって故国トルコのタブーにふれた作家への西側からの熱い認知は当然、EUがトルコを「仲間入り」させるかどうかという問題ともリンクする。ノーベル文学賞もまたリアルな政治ゲームの一環たることを免れない。『わたしの名は紅』邦訳刊行のさいに来日したパムクは谷崎潤一郎への共感を語ったという。戦時下の『細雪』執筆をめぐる谷崎の選択は圧政への抵抗のユニークな事例だ。総力戦下に背を向けた谷崎の非政治的政治性こそパムクにとっては尽きない興味だったのではないか。
 作者がいま執筆中なのは、七〇年代トルコ映画に関するものだという。七〇年代に活動し、作品の上映禁止や投獄を受けたクルド系トルコ人ユルマズ・ギュネイの映画は、日本でも一部の層に熱狂的に受け入れられた。パムクがギュネイの『希望』『エレジー』といった激しく哀しみにみちた作品にふれるとしたら――それはまたある種の政治性をこえた政治的作品になるにちがいない。
選択2006.11