加害者はぼくなのだ。たまたま前から目をつけていた女子高生を自分の部屋に放り込み、暴行し、セメントを流し込み、その死体を固めたのは、ほかならぬこの自分なのだ。
 というか、自分がその少年達のグループの一人でなかったと言い切れるだけの明確な根拠をぼくはずっと持てないでいるし、これからもこうした事件が起こるたびにそうなのだろう。時間と場所、そしてちょっとしたきっかけさえ違わなければ、あの部屋で返り血が着かないようにわざわざビニール袋を手に被せパンチを加えていたのは、この自分だった。しかしたまたま今日、ぼくはここにいて、たまたま彼らはあすこだった。では、明日は?
 ぼく自身が加害者でなかった可能性、それがひどく小さく思えてならないのは、ミドルティーンという加害者の当事者の年齢と自分が当時近かったからということことではなく、その犯人像をつかまえて狂気と呼べる側の正気さこそが、そうした狂気の生みの親であり、そんな生みの親を、自分もまた持ってしまったことを否定できない以上、その狂気にからめとられる順番が、自分にとってはただ遅いか早いかの違いでしかないからである。
 だが、これは、『エイリアン・ネイションの子供たち』は、いっとき流行った現代コドモ論ではない。女子高生コンクリート詰め事件と、釜ヶ崎での十七年ぶりの暴動を結ぶ決定的な一本の糸を解きほぐすために、サイバーパンクSF+スプラッタ・ホラー映画論によって、ぼくらが手にしてしまったこの、死んでいるのに死なない資本主義の、そのゾンビたる本質を目の当たりにさせるものであり、そしてそれをそのまま、かつての野崎自身の『復員文学論』への決着にしたことで、その狂気からの出口、というか、その狂気に対していかに自らが凶器たりうるかということへのきちがいじみたなりふり構わぬ変質への可能性を、ただただ手探りしている作品である。その展開の巧妙さは、多層化した“ゾンビ資本主義”のシステムのいやらしさそのものを明らかにし、その血みどろ具合には、正直何度となく吐き気がした。
 『エイリアン』は、その無敵の寄生生物に宿主にされてしまった主人公が、溶鉱炉に見を投じることで一応の完結を見た。映画では、確かにそれしか方法がないようにみえた。
 ではゾンビ資本主義の構築したこのエイリアン・ネイションにおいてもまた、そんな惨めな投身自殺しか、この凶器たる狂気から逃れる術は残されていないというのか?
 最後に野崎は、寄せ場の一人の労働者の死を見つめる中で、その投身自殺すらを、自らに課せられた積極的な仕事としてまっとうする決意を固めたようにみえる。それならぼくは、エイリアンに寄生し腹を食い破らんと思う。それがこのエイリアン・ネイションを自分ともども投身自殺させたとしても、そんな生みの親を持つ子供たる自分には、最後には、そんな抵抗だけが残っているのだと、この読後感は、ぼくにはただそのことのみを思わせる。

関口泰正 同時代批評16 1994.1



 人々の耳目を震撼させた女子高校生監禁コンクリート詰め殺人事件の犯人である少年たちは、今という時代の中でどのような存在なのか。思想としての共産主義に終止符が打たれたかに見え、果てしなく欲望をそそり続ける資本主義社会は限りなく肥大化し、ハイパー・テクノロジーが新しい感性をはぐくんでいると思える今、まったくひ弱に思えるそれぞれの「自己」は、どのようにして救われるのか。
 そうした問いに、著者はベトナム戦争以後のアメリカ映画やサイバーパンクSFなどを手掛かりに考察を進める。自己を衰弱させる現代に、何としてもノンを言うんだという強い意志が伝わってくる力作評論だ。

ダカーポ 1992.12.16