野崎六助著作リスト 

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幻視するバリケード 復員文学論  田畑書店 1984.7

 最初の書物は、多少とも、著者の運命を決める。といって大げさならば、最初の書物のほうで、著者を選ぶのだ。これより以前に進行していて潰れてしまった「幻の本」が二点。その一点は潰れたことを後で感謝したいような企画だった。

 情況に強いられて書く意味はあったのだが、長い年月が経ってみると、はっきり浮かんでくるのは、己れとこの本との分かちがたい紐帯である。それだけでしかない。不当だとか、不幸だとかは言うまい。

目次 1 壊死するバリケード
    2 発情するバリケード
     3 回収されるバリケード  スタイルとしてのガキデカ民主主義者たち 
                 / オフビートへの逃走者たち/ 幻影の中の「幻影城」派たち
                  / 自動仕掛けの黄色人形たち/ 物語り信仰の代筆屋たち / 批評の表層屋たち
    間奏曲
    4 幻視するバリケード
    5 壊滅するバリケード
    後記         関連年表 



2 獣たちに故郷はいらない  田畑書店 1985.4                                  


進行としては、この本が一冊目になる予定であった。書きあぐねて、途中で『復員文学論』のほうにまわったため、順番が変わった。この本はしかし、二分され、原型をとどめないかたちで後の二つの本に組みこまれた。前半は『北米探偵小説論』の増補決定版に、後半は『大藪春彦伝説』に。

 そういうわけで消滅してしまってもあまり未練はない。ただ、プロローグとエピローグの部分のみ、迷子になって置き去りのままだ。その短いページだけにたいして、雑誌に載ったまま消えていく文章に抱くかのような感傷にとらわれる。ライナー・ファスビンダーの『不安と魂』について書いたところなど心残りにひっかかってくる。

  目次 序章 総和と消去について
     一章 白人種馬男(ホワイト・マッチョ)の考古学(アルケオロジー)
     二章 黄色植民地人の憤怒
     三章 鯨の腹の中で
     四章 棄民子弟たちの戦後
     五章 獣たちに故郷はいらない
     終章 ふたたび総和と消去について



亡命者帰らず  彩流社 1986.1                                           

 「天皇・テロル・子供たち」 のサブタイトルがあった。版元の意向は、全共闘世代による論争の活性化というシリーズであって、それがこちらのモチーフとあまりにずれていることがだんだんわかってきて苦しんだ。著者としては妥協の産物が書物の構成の結果に反映されていると感じていたが、版元には別の感情があるだろう。とにかくわたしには、論争が何かを産みだすとは信じられなかったし、情況の推移もそのように動いていったと思う。

 子供たちの動向への避けられない関心はこの本から始まっているわけだが、第三章の一部は、『復員文学論』よりも先だって書かれている。十代の少年による暴力が家を失った労務者を標的にするという、今どきでは珍しくもなくなった事件に、激しく心を揺さぶられた結果だった。しかし「子供たちを救え」と内心うめいたわたしの心情などは、ますます増殖していく暴力の蒼白さにたいして何ほどの防壁にもならなかった。

  目次  プロローグ
      1 ことの次第 1984年12月22日 映画作家佐藤満夫の死
      2 二人で見つけた虹が見えないの   テロルの電子音楽--笠井潔の停止した時計
                  / 蒼ざめた在日--竹田青嗣のアイデンティティ
              / 昭和の迷路について--兵頭正俊と桐山襲の迷宮
      3 横浜代理戦争  子供たちの登場と『鉛の時代』
      エピローグ           参考文献                 


空中ブランコに乗る子供たち  時事通信社 1988.3

 前著後半の関心を全面的に引き伸ばした一冊。この本から『エイリアン・ネイションの子供たち』への道すじが、八十年代野崎評論の頂点を形づくった。

 その容易に伝達しがたい情念のありかともども、という意味だ。

 百十一の短い章がそれぞれリンクを張って、リニアにも読めればジャンプしながらでも読める。ゲームブックの進行を評論にも採用してみた。形式としては新しすぎたのか、あるいは遊びがすぎたのか。読む側の都合はとにかく、こうした書き方は書物の出来にはうまく作用していない。やはり本を書く作業とは、不可逆性の時間を進んでいってこそ、結末に確実なゴールを手に入れられるものだ。それを痛感した。意図するしないにかかわらず、循環構造をていした本のほうが、結論を留保するためのごまかしには適しているからだ。

 この本あたりから意識的に、マルクス主義の従属アプローチのキー概念をとりこむようになった。ただし「大人たちは子供たちを低開発する」というイメージ的なとりこみだ。子供たちを犠牲にする社会をとらえるイメージが従属理論の援用によっていっそう明らかになると感じていた。こうした情緒的な「理論武装」がかえって或る種の生真面目な人たちの不興をかったのかもしれない。説得的に語りえたかどうかは別として、考えの基本は変わっていない。

  目次  はじめに
      1 エイズでイントロダクション
      2 悪魔の毒々ポストモダン
      3 シミュレーション・ビデオ・ゲーム・エクスプレス
      4 レトロと激辛
      5 ガジェットの戦後史
      6 子供たちをよろしく
      終わりに             参考文献

 扉にワルター・ベンヤミンの言葉。
《あの恋人たちはその肉体を一度もつかみとることはない、――彼らが戦いのために強くなることは一度もなくても、それがどうしたというのか? ただ希望なき人びとのためにのみ、希望はぼくらに与えられているのだ》
 子供たちの自殺は、かれらの商品性の環に素早く組みこまれてしまった。かられの行為は、もし異議申し立てであるのなら却下される必要があった。そしてもし叛乱であるのなら鎮圧される必要があった。だがその事実はない。なかったのだ。これは、異議申し立てや叛乱がなかったことを証明するのではない。支配メカニズムが高度になったことによって、わざわざ却下し鎮圧するという手間をかけるまでもなく、抑圧が効率化しただけなのだ。あなたは子供たちがメトロポリスの世紀末にたいして持っている嫌悪と違和の本能を信じなければならない。もしあなたがあなた自身の身代わり(サクリファイス)でないのならば。消費がいまや視えない強制労働でもあるように、地面に叩きつけられたシャドウ、異星人の死体さながらに、フライイング・チルドレンのメッセージが発されるとして、それが、かれらの最後の〈労働=消費〉である自殺のひとつのシャドウ・ワークであるとしか認められないことほど、残酷で反人間的な非対象化はないのである。



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地図の記号論 (共著)  批評社 1990.1

 共著という形式になっているが、こちらの取り組みは、雑誌に依頼されて長い文章を書くより以上のモチーフはない。地図の記号論というテーマにも共鳴するものがあったわけではない。わたしの分担は、全体183ページの、「燃えつきた地図のはざまに」40ページ分である。共著者のうちよく知っているのは「地図の恣意性--デマゴギーについて」を寄せらている塩見鮮一郎氏だけである。

 ただ植民地文学論という大風呂敷のテーマのプランだけでも書き残しておきたいと思った。なおテーマを継続していきたいと考えていたが、他の大テーマと同じように途中で立ち消え、果たさないままでいる。



6  アクロス・ザ・ボーダーライン(映画論集)  批評社 1991.5                         

 映画論集であり、わたしとしてはなにものにも変えがたい愛着のある本だ。八十年代全般に書いたものが集まっている。これ以降も映画評論は書いているが、かなり散発的になってしまい、映画館をめぐって街をうろついては吠えていた時代を映す、これが唯一のメモリアルとなる書物だろう。以降に書いた映画評論の未収録のものは、当ホームページ上に情報化されている。もうすでに映画評論家としてはリタイアも同然だが、これはわたしのほうに映画を語るという執念が薄れていった結果だと思う。あるいは何か、資質に決定的に欠けていたのか。ともあれ、この一冊はここにある。

  目次 1 Gone is the Romance that was so Divine
      2 流れ女の最後のとまり木に
      付録 外国映画・日本映画ベスト&ワーストテン
      3 アクロス・ザ・ボーダーライン



北米探偵小説論  青豹書房(発売 星雲社) 1991. 9                             

 全千七百枚書き下ろしという非常識を敢行した一冊。

 周知のように、野崎の新たなステージを呼び寄せることになった。

 表紙に使わせていただいた桜田晴義氏の「ピエロ」はとても気に入っている。装幀を担当した蔦本咲子氏は九九年十一月に故人となってしまった。版元の青豹書房もすでに解散して久しい。

 さまざまな想い出の深い書物であるが、かんたんに済ませたい。

 日本推理作家協会会報(92.4)に載った、日本推理作家協会賞受賞の言葉を引用しておく。

 本が出来上がるのあたって、いくら分量のある作品であっても名刺一枚刷り上がったようなものだ、と不遜なことを書いた記憶があります。とはいえ、厚さと重さで凌駕する別の本が店頭にあるとそれ自体で妙に気になったりしたので、質を誇るよりも量で勝負といった気配も濃厚だったようで――。最初の本でありながら、順列は、力まかせに勝手気ままに書いてささやかに成立した六冊目になってしまったのは、歳月がそれなりに意味をもったということでしょうか。他の作品には当然にまつわりついている愛憎の両面ナルシシズムが、自分でも不思議ながら『北米探偵小説論』に関してはありません。

 書き始めた頃には予想もしなかった、歴史の底が抜けたような世界激動が近年のものとなっています。その故に、今ほど探偵小説が異様に面白い時代はあるまいと思えるのです。わたしとしては探り当てたテーマの正当性にあらためて立ちすくむ想いです。こうした状況での受賞の名誉が、わたしを前進させ、名刺一枚をいくらかは特大に成立させることを願って――。

 目次 序走のための長いイントロダクション
     1 文芸復興・一九一三年
     2 戦争は国家の健康法である
     3 世界一周
     4 時と砦について
     5 合州国における戦争協力小説
     6 悲劇の社会学
     7 わが愛しき妻よわが鳩よ
     8 エレクトリック・レディランドを見たか
     9 アメリカの闇の奥で
     はしり書き的うしろ書き    あるいは如何にして野崎六助氏は北米探偵小説論を書いたか
     あとがきの付け足し あるいは続編のための予告めいた覚え書き
     索引

 カバー装画 桜田晴義  装丁 蔦本咲子


エイリアン・ネイションの子供たち  新宿書房 1992.10                   

 『空中ブランコに乗る子供たち』の続編であり、前著でなしえなかったことに新たに挑戦した。しかし書きあげてから刊行までに難航した点では、それほど長期間でなかったことを別にすれば、『北米探偵小説論』に充分匹敵する。編集者の功が著者にも増して大であったことは、『北米探偵小説論』増補決定版に勝るとも劣らない。

 この本は図書館基準の分類ではどこにも位置をみつけることができない。「子供論」はその領域の専門家にまかせておけばよいという一般論に頑強に阻まれる。三部作構想があったが、実現しなかった。

 ごく少数とはいえ若い熱心な読者の存在を実感できたのは、このあたりだった。しかしわたし自身も形式にたいする壁を意識するようになった。少なくとも、ロックンロールのような弾ける文体で抽象思考を追いつめようとするスタイルは限界にきたと感じていた。

 だが時代のほうはポストバプルの低成長経済社会というウルトラ・ゾンビの世界に突入していく。わたしの書いたどんな一節が状況にたいして有効であったのか、いくども歯噛みせねばならなかった。

  目次 1 どこまでもそんなにどこまでも殺されているのだいつまでも
        女子高生監禁殺人コンクリート詰め遺棄事件
      2 ジャスト・ライク・トムサム・ブルース      どこまでもシンクロニシティ
                         / Gimme Gimme Shelter  / どこまでもサイバーパンク・シティ
           / 復員文学論、未完(→∞)である  / スポンティニアス・コンパッションbyトビー・フーパー
         / 黄昏のクロー・ボディ・セックス  / 生体解体論   /サヴァイバル・マシーン、世界の果てまで
          / 悪魔の毒々ポストモダン  / ポスト湾岸の報道リアル  / どこまでもゾンビ資本主義
      3 十月のディソレーション・エンジェル
     大幅な付け足し ある寄せ場のなかの死、そし死者の視野に映るもの
     参考文献



夕焼け探偵帖  講談社 1994.3          カバー装画 峰岸達                     

 順序として小説デビュー作がここに置かれる。

 じっさいには、この作品は、八十年代の初頭に書かれている。刊行にさいしての手直しはそれほど大幅には行われていない。三十そこそこの人間の幼稚な小説構築力、人物把握などを、そこに転嫁してみても仕方がないだろう。

 さして長くもない探偵小説だが、ここにはおよそ五点ほどの、本来は一つの作品に同居させることが不可能な雑多な要素が混在している。その分裂の様相は容易に見てとれるところもあるし、深遠なる面妖さをていしているところもある(らしい)。作者のわたしはそのことがよくわからなかった。刊行後に読み直す習慣はないし、自作の分析に時間をさくことなどさらにありえない。久しいあいだ、わたしはこの小説の奇妙な特質を理解できないでいた。

 一点は、様式的な連続殺人と死体移動トリックへの偏愛的こだわり。

 二点は、探偵小説マニアの生態への共感。ただしこれは戦時下におけるという極端なバイアスがかかっているので、一般にはほぼ了解不可能だろう。

 三点。坂口安吾、花田清輝、大井広介、埴谷雄高、小林秀雄といったモデルを借りた人物から発生する戦後文学のスタートラインへの興味。小林以外の人物が戦時下の閉塞状況を探偵小説への気散じで通過してきたという文学史的事実が前提になっている。坂口と小林の対決から文学者の戦争責任論への鮮やかな視角がみえてくることも対象化したかった(つまり一作のミステリのなかで)。これらの文学者の文章の断片を小説中の人物のセリフに埋めこむというマニアックな作業によって、作者は己れの異様なモチーフが伝わると念じていたのである!

 四点。ドイツロマン派やドストエフスキイの影響が生に出ているところ。これは主に、脇役を配するさいの造型力の弱さから生じた結果である。そうでない自然主義風の系列の人物もいて、それがキッチン夕焼け亭の人たちおよび権太とサニーになる。若い二人が料理店に拾われて安住の地を得るという設定には、それはそれで特別の思い入れがあるが、あまりに個人的なことなので省略する。結局、モチーフはどうあれ、うまく小説として回転していかなかったことは否定しようがない。

 五点。一九七八年、曲馬館のテント旅芝居の沖縄行に同行し、芝居とはあまり関係なく、首里の丘から見た夕焼けがあまりに美しかったので、この作品の想を得た。小説の舞台、夕焼け町は沖縄がモデルとなっている。その頃わたしの身のまわりには、アングラ劇団やその周辺のおかしな連中ばかりいた。いや、わたしそのものが妙な有象無象の一人だったのだ。当然そういう異形の人たちは、作中人物の特性に映しだされていく。脇役たちがてんでにスラプスティックなのは、一の要請にもよるが、主要には、四と五の並列あるいは混沌未分によっている。

 長いあいだ、わたしはわたしの混乱ぶりをよく弁別できなかった。

 整理してみれば、たぶんこういうことだ。

 一般のミステリ・ファンが共鳴できるのは一と二のなかばくらいまでだ。あとの要素はとんだどんちゃん騒ぎに映ったことだろう。

 まあ、これとは別に取り柄を捜すこともできないではないはずだ。だがそれはまたの機会に。

 ともあれこれが野崎のミステリ第一作だ。