60/70年代を語る――「煉獄回廊」を中心に 1 聞き手・栗原幸夫
1 吉田山の青春
栗原 きょうは小説『煉獄回廊』を中心に、野崎さんの60/70年代を語っていただこうとおもいます。『煉獄回廊』は一九六九年から一九八九年という時間の幅のなかで、日置高志と沖孝というドッペルゲンガーの二人の主人公を通じて時代の深層に迫った作品で、笠井潔も「ようやく三十年後に達成された、画期的な全共闘小説」と評価しています。この笠井の批評は、複雑なこの小説のプロットをたいへん要領よく紹介してもいます。野崎さんのホームページに再録されているので、小説をまだ読んでいない人はさしあたりそれをまず見てもらうといいとおもいます。ところで野崎さんはホームページでこの小説について、「今のところわたしが書きえた最高の作品である」と自負していまね。
野崎 いろんなことがごっちゃになってくると思うんですけれど、『煉獄回廊』という小説は一九六九年の自分自身を振り返るというところが一つコアにあります。自分の体験をそのまま振り返ってもしょうがない。あの時代に何があったのか、自分のやったことがあの時代の中でどういう意味を持ったのかというようなことを考えたかった。それがずっと頭の中にあったわけで、一つ荷物を降ろせたことになりますね。
栗原 野崎さんの『北米探偵小説論』のプロローグに「銀閣寺の大学生」という節があって、花田清輝について書いておられますが、一九二九年四月に花田清輝は京都に来て京都大学の専科にはいるわけですね。その時に花田清輝は二〇歳、それからちょうど四〇年後の一九六九年、野崎さんはほぼ二一歳ですか。その当たりから話を伺いたいのですが、まず京都の野崎六助というところから話をうかがいたい。
野崎 実は京都時代の花田はどういう人間だったのかは伝記的事実は全然分からないわけですよね。
栗原 そこが野崎さんと似ていると思って。あの節を読んでいるときに花田清輝にダブッて野崎さんの顔がふっと浮かんでくるような感じだったんですね。それで話の最初に、花田清輝のことを話していただくというよりも京都の一九六九年前後の、つまり二十歳前後のことから話を始めていただきたいということです。花田清輝が分からない以上に野崎六助の六九年以前がよく分からない。
野崎 たまたま花田が下宿していたところは銀閣寺のあたりで、花田の二番目の小説「悲劇について」には吉田山がでてくるんです。吉田山は、吉田神社の方から登る登り方と、銀閣寺の方から登る道など、色々あるわけです。その道のりの情景が自分と重なるところがあった。「悲劇について」は、一つの友情小説、青春小説の一部門として、ある思想を抱いた人間同士の友情の交流が非常に鮮明に出ていると思うんです。友情というより、悲劇に終わるしかない思想のドラマに力点があります。
ただわたしは最初から花田という表現者を理解できていたわけではないんです。二〇代の頃、未来社の花田清輝著作集七冊をくりかえし読みましたがよくわからない。何遍読んでもわからなかったですね。若いころは、それでも、難解な本ほど好む傾向がありましたから何回も挑戦してそのつどよく理解できないという繰り返しでした。腹におさまったのは、花田が死んだあと講談社から出た一六巻の全集を最初から読んでいってからです。何年にどういう状況でこの人はこういう文章を書いたか、それをいちいち照らし合わせながら読んでいって、やっと花田が理解できたなと思った。その時のいろんな複雑な影響を受けたと思うんですけれど、花田のレトリックというのが自分に移っちゃったわけですね。何を書いても花田的な持って回った言い方。一体何をいっているのか分からないレトリック。三〇過ぎてからやっと花田が理解出来たんですけれど、逆に理解できすぎてレトリックその物に乗り移られてしまった、みたいな体験がありました。
花田で思い出すのは林達夫なんですね。林達夫の「三木清の思い出」という文章を非常に花田が称揚していて、花田の薦めによって林達夫の有名な反共文書『共産主義的人間』が出たりした。花田の林達夫に対する共感の仕方というのはまた不思議なものがあると思ったんです。私の理解の仕方では吉田山という場所が一つの核になるんですね。林達夫と三木清の友情が書かれるわけですけれども、その一つの舞台が吉田山でそこを散歩しながら、運命の分かれ目がこんなふうにあったという情景が出てくる。それが非常に花田の小説によく似た雰囲気だなと思ったわけです。この林達夫の文章は『回想の三木清』という本が岩波から出ていましたよね。非常に紙質の悪い本で、三木清は牢屋の中で死にましたから、死に方としては抵抗文化人というふうになっている。ただああいう死に方をした人に対して悪いんですけれど、三木清の思想その物というのは本当に戦争に抵抗するものであったのかどうかは厳密に検討していけば疑わしいものがあると思うんですね。昭和研究会に対するコミットにしても極めて両義的なものがあったのではないか。もちろんこれは戦時下の翼賛思想全体の評価と関わる問題ですが、ただ林達夫の三木清の思想の裁断の仕方というのはもう少し単純だったんですね。林達夫の文章でよく思い出すのは「可哀想な三木」という意味合いの情感です。なにが可哀想なのかというのは非常に錯綜した感情がこもっていますが、要するに時局的なコミットメントの仕方がずれていたのではないか、という点に尽きると思うんです。林達夫自身がそういうコミットを一切避けて戦争をくぐり抜けたわけです。《三木の寛宏な温かさと私の狭量な冷たさ》というふうに林は対比しています。
「可哀想な三木」という言い方と、花田の小説が重なってきます。花田の小説の「悲劇について」では、自分の友達のことを「可哀想な非存在(メエ・オン)」というんですね。簡単にいえば自分のエピゴーネンでしかないとみなす。思想のない男ですね。自分に思想的な影響を受けただけの男。そういう友達を「可哀想な非存在」というわけですけれども、そのような言い方が林達夫の三木清に対する思いにも共通しているのではないかと思ったんですね。
もう一つ林達夫の言葉で印象的に残っているのは三木清の字というのは右肩下がりの非常に特徴的な字なんです。林は三木の独創に属するものは右肩下がりの字以外には一つも無いと断言しています。西田哲学の弟子として三木哲学という独自なものがあったかというと、それは全部否定しているわけです。哲学者として才能はあったし、思想家としても常に時代の先端にたっていたわけですけれども、その中でオリジナリティのあるものは一つもなかった、そういう裁断をしているわけです。《三木清の純然たる独創は、彼の手をつけたあらゆる分野を通じてこの怪奇な書風ただ一つであった》と林は書いています。わたしの知るかぎり、思想家としての三木をこれほど正確に言い当てた批評は他にありません。
そういう回路を通して花田が林達夫を評価したのは非常に面白いと思ったんです。花田自身が三木清なんていう存在はものすごく軽蔑していたんじゃないかなと思うんですけれど、そういう友情の構図というのが京都の土地にあったんだなあというのがどうしても私の発想の元になってくるわけです。それで「銀閣寺の大学生」という言い方をしたわけです。僕自身は銀閣寺の周辺に住んだことはないけれど、しょっちゅううろうろしていたんです。そのうろうろしていた時代の気分、大学生ではなかったんですけれど、そういうときの自分とかつての花田の小説世界とか林達夫と三木清の友情の構図というのはなぜか重なってくるのですね。
もう少し時代は新しくなるのですが、野間宏の『暗い絵』、あれも銀閣寺界隈を描いた一種の友情小説だと思うのですが、あの中では「仕方のない正しさ」という言葉が使われていました。野間さんの『暗い絵』を、銀閣寺のどの道なのかなあと、いちいち思い浮かべながら読もうとしたんですが、必ずしもはっきりしない。そういう目に浮かんだこの通りだなという書き方をされていないというのもあると思うんですが、吉田山から銀閣寺という特有の場所の感覚は濃厚にあります。あそこでしかない。それが自分の中で花田・林・三木・野間というおかしな系譜ですけれど、どうしても自分自身の若い頃を振り返るときにそういった構図が全面的に出てきてしまうんですね。これはやはり花田的韜晦の仕方というふうに映るんでしょうか。
栗原 いや、韜晦というふうには思わなくて、もう少し体験的に、あの場所は『煉獄回廊』の中で一種、特権的なトポスとして描かれていますね。花田・林・三木・野間という系譜と野崎さんとのつながり、あるいは『煉獄回廊』の友情小説としての側面が、いまのお話でとてもよくわかりました。すこし下世話な話になるけど、吉田山にあった白樺なんて飲み屋が出てくるところもありますし。
野崎 ええ、まだありますけど(笑)。取材めいたものをやったとき、吉田山をあっちから登り、こっちから登り、とずいぶん往復したんです。京都にいるころは、東大路から入って吉田神社の正面にくる道しか通った記憶がなかったものですから。そうすると、花田や林が描いている道すじはだいたいわかりました。しかし野間さんのはわからない。野間文学の晦渋さそのままという印象が残りました。
栗原 あれを読んでいると僕はほとんどモデルが分かるんだけれど、そこの話に行く前に、二〇歳前後の野崎さんはあのへんで何をしていたのですか。
野崎 誇るべきようなことはないですが。(笑)うろうろしていたに過ぎないのですよ。
栗原 つまり、分からないということでね、花田清輝の京都時代あるいは銀閣寺時代と非常に似ているというか、ある種の韜晦といいますか、そこの所がとても似ているなと思うんだけれど、そこはあまり今日は話さないという線で行きますか。
野崎 六〇年代というのは別になんにもないんじゃないかと思うんですよ、私個人の体験とかに関しては。別にたいそうにお話しすることはないと思っていたんですよ。小川徹が『花田清輝の生涯』という本を書いています。これは『映画芸術』に連載していたときは『実録・花田清輝の全生涯』となっていましたが、そこにも花田の京都時代というのはほとんど出てきません。何もなかったんじゃないですか。わたしのそのころもそれと同じで何もなかったんですよ。67年の10・8闘争で京大生が一人死んでいわゆる政治の季節が始まりますよね。あのとき二十歳の誕生日前です。あれが一つの衝撃と覚醒をもたらせたというのは、ごく平均的な反応だったと思います。それからデモがあれば出かけて石放るくらいのことはしました。みんなやってましたよ、それくらいのこと。小説が六九年から始まってくるのは少し象徴的な意味もありますが、書き終わってみると、それ以前は語らなくてもいいんだというか、語るに値しないという気持ちにもなります。個人的にあったことの断片はいくつか出てきます。父親の病気のこととか。
栗原 だけどせめて何をやっていたかぐらいは話してくださいよ。大学生じゃないですよね。なぜ大学に行かなかったんですか。
野崎 べつに積極的に忌避していたとかそんな格好のいいことはありません。とくに行きたいとも思わないうちに自然と行かずじまいになってしまった。あとで考えたら行かなくてよかったと思います。いま不思議なことに大学で教えてますが、こんな講師でも学生はいいのかなあとしきりに感じます。
栗原 学生運動や新左翼党派とは一切無関係ですか。どうも検事みたいな質問ですが。
野崎 セクトのつきあいはなかったです。『煉獄回廊』は、わりとセクトがらみのエピソードを配していったので、そこに引っ張られてかなり主人公の精神を暗鬱に縛ってしまったと思えます。エピソードは嘘じゃないけど、フィクションに組みこまれると、勝手に転がったり相互につながって増殖したりするところがありますよね。わたし自身の体験がそれほどセクト政治の近くにあったという事実はないです。ただあとで知り合う同世代の人たちはたいてい「元○○派」という前歴をはっきりと背負っています。赤とか青とか白とか黒とか緑とか、色とりどり。黄色はいねえけど(笑)。ぼくは何色でもなかったから、肩身の狭い思いをすることがあります。臭いだけは発散してるみたいだけど、色はついてなかったんです。
栗原 野崎さんのホームページに「『煉獄回廊』ディレクターズカット」という項目がありまして、そこに『煉獄回廊』のことをこういうふうに書いてあるんです。
「この小説のほとんどの人物にはモデルがいる。全て私の人生に決定的な陰影を刻みつけた者ばかりだ」。事実私なんかも六〇年代の後半から七〇年代にかけて、京都によく行ったし、あそこの人達といろいろ付き合いがあった。あそこに出てくる人。しかもその登場人物の名前は本名と一字違い程度でね、たとえば滝田修が柿田修だったり、すぐにモデルが推定できるような書き方になっているんですね。そうするとあの状況の中に全くいなかった人が書いた小説だとはとうてい思えないわけだ。
野崎 もちろんそうですけれど。モデルはそのままの行動と外見で登場してくる場合もあります。何人か複合させた人物もいます。完全にフィクション上の人物もいますけれど。
栗原 出てきた人物に、自分の人生に決定的な陰影を刻みつけたというようなことをホームページで書いておられるところをみると、相当、あの状況の中で野崎さんは、もちろんセクトやなんかという関係ではなくても、いろいろコミットされていたんじゃないかと思うんだけれども、それはどうですか。
野崎 それがですね、正確に言うと六〇年代を過ぎちゃっているんですよね。七〇年過ぎてからのことは切実に覚えているというか、書かねばならないというか。誇るべきかどうかは別にしてですね。
栗原 もちろんそれはよくわかります。ここで六〇年代と言っているのは一種の象徴的な意味で言っているので、60/70年代といった方が正確です。
野崎 正確に年代を区切ると、『煉獄回廊』そのものは六九年のバリケードの中から始まるわけですけれども、その前に何があったのかということは別に小説の素材としてもそんなにたいしたことないし、抜け落ちちゃってる。六九年一月の東大安田闘争のすぐ後だと思うんですけれど、わたしは東大の周りには来ていたんです。それから京都に帰ってすぐ京大闘争というのが始まります。あれは後から振り返ってみると、京大左翼のものすごいエリート意識だなあとわたしなんかは思っちゃうんですね。東大が潰れたから我々はやるんだという。そういうエリート意識にはちょっと入れないものがあると感じました。結局、それ以降のことはやっぱり七〇年代に属するんじゃないかなとぼくは思うんです。ですから、六九年というのがひとつそこで終わってしまった、そういう意識なんです。
主人公の影になる人物が元の恋人を殺すところもセクトの内ゲバがからむシーンになっています。きわめて重要なエピソードがセクト政治に彩られているので、何か小説ぜんたいがあのあたりから、ずいぶんと暗鬱なセトク色に染まってくるように思えるんですね。作者としては、新左翼の動向をそれほど全面的にとりこむつもりはなかったんですけれど、結果としてはずいぶん政治色の強いものになっている。勢いがついて止まらなかったと言うと無責任ですが、というかヘボ小説家の言い訳になりますが、元のプランはもう少し流動的だったと思います。途中で軌道修正がきかなくなったところがあります。革マルが関わった「水本事件」にしろ、ぼくはじっさいに知らないです。ちょっと強引にとりこみすぎて話をややこしくしちゃったかなって感じです。全共闘小説という評価が出るのは、そのあたりの狭さなのかな、とも思います。
主人公の錯乱の多くも「裏切った」という負い目から肥大していきますし。
わたし本人の七十年代というのは、それほど暗鬱でも、政治一辺倒でもなかったです。『煉獄回廊』はそれらを苦行のように背負っている印象がありますから、その分、自分にたいしても正直になっていないような気がします。もっと明るくて恥知らずでつじつまのあわないもろもろも、わたしの通過した七十年代にはいっぱいあったということですね。それを別に書きたいというか、書かねばならないという気もしきりにします。『煉獄回廊』裏ヴァージョンみたいなものですね。
あのころ一緒に暮らしていた女性の弟が、ぼくらのことが原因で精神病院に入ったということはありました。それで、わたしが右も左もわからないくせに病院に話を聞きに行ったんです。そのときの情景は小説にも取り入れていますが、小説中の人物は行方羅門〔なめかたらもん〕という名前になっています。赤軍派に流れて、それ以降の人生をセクト一筋で生きて、ついには内ゲバ殺人部隊の隊長格にまでなるわけです。モデルとはまったく別人になってしまった。これはフィクションのなかで人物がひとり歩きしてしまったということです。羅門は最終的にはドッペルゲンガーの監視人、主人公を倫理的に裁く人物になります。内ゲバで人殺しをしている男にだれかを裁く資格はないのですが、小説での位置は審判者となっています。最初の場面を描いたとき、この人物がとてもそこまで重要な位置を占めるとは想像もつかなかったです。
栗原 ただ、行方正時という人がいますよね。実際に榛名山ベースで殺された。
野崎 そうです。連合赤軍の。
栗原 それとは全然関係ないわけですか。
野崎 名前を取っただけです(笑)。
栗原 これだけは実在の人の名前が出てきたのでちょっとびっくりしたんですが(笑)、そうですか。この羅門の姉が主人公の最初の恋人ということになっているので、ちょっとこだわりました。
野崎 行方【ゆくえ】と書いて「なめかた」と読む。あれは名前を借りただけなんです。行方未知という名前をつけたかった。ただあの女性は小説の人物としていまひとつ肉体を持ち得なかったのではないかと反省しています。名前の力がすみずみまで行き渡らなかった。
栗原 ああそうですか。あまり現実の野崎さんの自伝的なところを伺うことが今日の目的ではなくて、むしろ、『煉獄回廊』の中に描かれている様々な思想だとか、あるいは出来事をフィクションだとして、そのフィクションが事実と重なっているところがたくさんあると思うんですけれど、なぜそれを探偵小説という形で書いたのか、あるいはもっと広げて言えば、一九六〇年代――もっと後の七〇年代前半まで含めてこの際言っているわけですけれど――いわゆる「六〇年代的なもの」を表現するのに、どうして探偵小説というジャンルを選ばれたのか、というのはどうでしょうか。
野崎 本当にたいした理由はないんですよ。やっぱり一応ミステリー作家として認知されているんで、ミステリーを書きなさいという話が来るわけです。天皇制と昭和をミステリーで書けというとんでもない話がまいこみました。とんでもないというのは、業界の営業的な意味においてですね。きわめて真っ当な話ですが、めぐりあうことは滅多にないです。まあ、さっき言った友情小説の構図というのがやっぱりこの小説にも基本的にあって、それをどういうふうにして噛み砕いていけばいいかというのをいろいろ考えていたわけです。一つはミステリー特有の交換殺人という道具立て、あれでやっていくとわりと簡単に出来るんじゃないかと思った。でも実際には友情小説を成立させる二人の人間を書くということではなくて、二人の人間じゃなくなっちゃったわけですよね。ドッペルゲンガー、実は記憶に欠落があってそれがドッペルゲンガー化するというプロセスです。そういう様式に落ち着いたわけです。
栗原 もうちょっと前にさかのぼって、野崎さんが六八年に、前に塔昌夫の名前で出た中井英夫の『虚無への供物』の初版本を古本屋で手に入れて、非常に感銘を受けたということを書いておられて、その頃からですか、探偵小説に対する関心を持ちはじめたのは。前からずっとあるわけですか。
野崎 ミステリーそのものは小学生ぐらいからずっと読んでますし、ただ、『虚無への供物』のことでいえば、六九年に大々的に夢野久作ですとか、久生十蘭ですとか、いわゆる異色作家、異端のミステリー作家、戦前のミステリー作家が発掘されてくるわけですよね。本来子どもの頃から外国の翻訳ミステリーなんか読んでたわけですけれど、そういう素地にプラスして、時代の流れみたいなものでね、変格探偵小説、日本の遺産というのをもろにかぶる、という体験があったと思います。それはほとんど私の中で戦後文学をいろいろ読んで取りこんでいくのと平行しているわけです。ですから私の文学的教養というのはその頃、原点というか、だいたいの輪郭ができたとすれば、戦後文学プラス戦前の異端の探偵小説ですね。それらで基礎を形成されたようです。それに塔昌夫の『虚無への供物』も含まれていたというわけです。
栗原 野崎さんの中で結びついて、しかも自分の文学の核のようになっていくについて六〇年代という時代が持っていた意味というのはないですか。
野崎 うーん…ちょっとそれはうまく……。
栗原 わりに文学プロパーでずっとここにつながってきちゃったという感じ?
野崎 そうだと思いますね。六〇年代的なものというのが、ちょっと私の中ではそんな鮮明になってこないんですよ。『文学史を読みかえる6 大転換期 60年代の光芒』 2003.1 インパクト出版会