60/70年代を語る――「煉獄回廊」を中心に 4 聞き手・栗原幸夫
5 小説家・野崎六助
栗原 『物語の国境は越えられるか』という本に収められている、これは文芸評論ですけれども、戦後文学批判の中で、全体としてアジアがなぜ見えないかというのが大きなテーマになっていますよね。アジアに対する関心というのはいつ出てきたんですか。
野崎 七〇年代の半ばから後半ぐらいだと思います。野崎六助というペンネームが定着したのもその頃だと思うんですけれど、一応自分が物書きとしてやっていくんだということがはっきりしたのが七〇年代の後半ぐらいだったと思うんです。その頃は小説が書けるとは思っていなかったので、自分は評論をやっていくんだろうなと思っていたんですね。そこで、植民地文学というのをやりたいなというのをなんとなく思ったんですね。自分の関心はたえずそういうマージナルな境目にいくんですよ。その国の文学のメインになるものではなくて、周辺的なものにいくんです。日本の文学だったら植民地文学、あるいは移民の、ブラジル移民の文学ですね。あるいは日系移民の文学とか。そういうところにどうしても興味が行ってしまう。そこで在日朝鮮人文学というのも視野に入ってきたと思うんですけれども、ただあの頃はまだそんなに腰が座っていなかったから、なんとなくこういうのが好きだなあっていうので作品を集めていた感じですね。
それで、文芸評論家として直接上の世代の人たちがやっていない仕事を自分がやらなければしょうがないじゃないかと思った。戦後文学批判だと岡庭さんとか菅孝行さんとかの仕事があって、あるいは植民地文学論に続いていくような方向は平岡正明さんがやっていたし、ですから例えばあの三人の仕事を考えてみると、彼らがやっていないことというのはすごく少ないんですね。同じことをやっていったら、もう、彼らのエピゴーネンになるしかないじゃないかっていう感じがすごくしました。
あの頃に衝撃を受けた作品は田中英光の『酔いどれ船』と金石範の『鴉の死』だったんです。この衝撃の受け方というのは、二つでかなり違うんで、『鴉の死』に関してはほとんどぶちのめされたような感じが残ったんですね。これに対して何かを論じるというのは不可能じゃないのか。最初はどう読んでも日本語の文学だということが信じられなかったんですね。なにか、外国語の翻訳の世界のような質感がありました。あまりにもその厳しい世界に自分が対峙することに耐えられるのかどうかというのが最初思ったことですね。それは在日朝鮮人文学への入り口になるわけです。それと『酔いどれ船』に対する衝撃というのはちょっと違いますけれども、日本人としてあれだけの体験をしたということですよね。体験そのものを許すとか許さないとかではなくて、ああいうものを小説として残したということ、これは日本人の体験としてすごいことではなかったのかと思った。それで田中英光について書いてみようかと思って、ほかの作品も読んでみたんです。田中英光の全集はその当時は割とすぐに手に入りましたから。そうすると田中英光の他の作品があまりにもくだらないので、ちょっとがっかりしちゃったんですよ(笑)。それで『酔いどれ船』だけがどういう意味を持つのかということなんですが、当時の植民地文学、国策文学、親日文学と言われたもの全部検討しないと、ちゃんとした評価はできないんじゃないかと思ったんです。そういう作業の入り口に立ったのが七〇年代の後半、まだ三〇前のころでした。僕自身も分裂気質の典型的なものだったと思うんですけれども、きちんと腰を据えてできないわけですよ。さっき言ったような『酔いどれ船』の評価にしても例えば平岡さんがやった仕事をどれだけ越えられるだろうかと。あるいは平岡さんがやっていないところ、岡庭さんが書いていないところを、すり抜けることができるかと思ったら、どうしても重なってくるんじゃないかなあと思ってしまったわけです。それで一応あのときは日本文学なり、日本のマージナルな文学への関心をちょっと捨てて、『北米探偵小説論』を書く方向に動いたわけです。
七〇年代の後半にまとまった時間がありましたので、これの原型になる部分を書いたんですけれど、それは結局、誰もやっていない仕事をやりたいなあっていうことだったんです。で、アメリカ文学を全部一応ひと通り走破して、その中でアメリカのミステリー作家というのはどういう位置を持ったのかということを辿っていくわけです。それは僕だけに与えられたテーマで、誰もやっていないから、非常に気持ちがいいなと思ったんです。
アメリカの文学、その中でもメインの白人の文学ではなくて、黒人の文学に惹かれていくわけです。それがなぜかというのはちょっと自分の中で明快な答えはないんですけれども自然とそういう通路になってしまう。白人文学でも、フォークナーは別ですけれども、ヘミングウェイなんかはちょっと読んだらだいたいわかったという感じになってしまう。そんなに一生懸命追っかける気持ちにはならないわけですよ。でも一方でリチャード・ライトみたいな作家がやっぱり非常に興味を持ってしまうわけです。当時ぼくらがやっていた文学グループが黒人文学研究会。略してコクブンケンです。そう称されるのはあまり愉快じゃなかったです。アメリカの黒人文学も在日朝鮮人文学も同じような距離感で見ていたところがありました。少し後先になりますが、詩人の金時鐘先生と出会ったのが七四年ころです。このあたりのことを書いた一文「幻野の在日」はホームページにアップしてあります。
七〇年代の後半というのはそれがいろいろごっちゃになっているわけです。『煉獄回廊』に書いたみたいな体験と、自分なりに自分の世界を確立して物書きとしてやっていきたい、というのと、いろいろせめぎ合っていたというか。振り返ってみれば、要するに腰が座らなかったということなんです。
太田竜との一件もそれなんですよ。今は笑い話ですけど、結局それだけを手掛かりにして、公安のバカにあいつは爆弾犯じゃねえかっていう目星をつけられた。一連の神社爆破闘争ですね。嫌疑をかけられたのは、西部講堂に出入りしていた私ともう一人と二人いたんですよ。公安に苦しめられた体験というのはほとんど『煉獄回廊』に書いたそのままなんですけれど。いったい何で、というようなばかげた感じがするんですよ。何で俺が爆弾を作れるんだと。
栗原 滝田救援会にも関係していたんですか?
野崎 あれはフィクションです。あれは救援会の内部のことは書いてないでしょう。精神病院の内部もそうです。開放病棟にいる病院の患者がじっさいに芝居をやったという設定は事実です。その芝居は客席から観ていますが、小説の場面のように、わたしは役者で出ていません。
栗原 そうですね。ところで話を元に戻しながら終りにしたいとおもいますが。最初にも言った笠井潔の『煉獄回廊』への批評ですが、彼はいままでのような転向論が成り立たなくなった時代として九〇年代というのを言って、『煉獄回廊』はだから未完なんだと、あれは続編として九〇年代を書かなければならない、というのがあの評論の締めですよね。
野崎 そうですね。
栗原 それは僕は正しいと思うんだけれど、どうですか。
野崎 九〇年代転向の特徴的なものは、結局、ソ連邦が解体してしまったということですよね。いままで、曲がりなりにも国家としてソビエト連邦というのがあったし、共産主義圏というのがあったわけですけれども、それがなくなってしまった場合、いったい何を希望として、我々、というか、左翼は自分たちの位置を確保できるのかということですね。それがますます見えない時代になってしまったと思うんです。そういうところで「転向しない」というのはいったい何なのか。いままでの古典的な価値観での「転向しないで頑張る」ということはいったい何なのかというと、結局、転向しないことこそ転向ではないのかという、アクロバティックな議論ですよね、どんどん転向しないとこの時代はやっていけないんだという考えもあるわけですけれど、それがけっしてポジティブになるのではなくて、ネガティブに行ってるような気がするんです。私の周りでも昔ながらの左翼をやっている人間は何か時代からはずれてるような感じがしてしまって。時代からはずれないということはいったい何なのかという、その内実がよくわからないんですね。
『煉獄回廊』という小説は九〇年代が始まる前に終わっているんですよね。九〇年代の体験をどういうふうに考えるのかっていうのは、まさに横に置いちゃって、考えていないわけですけれども、これから何かを書いていくとしたら、当然九〇年代の体験をどういうふうに昇華していくのかっていうのが問題になってくると思うんです。それが自分の中では最大の懸念ですね。いったいどういうふうになっていくんだろうか。
ですから、「文学史を読みかえる研究会」というのもその中で、そういう危機感から生まれてきたと思うんですけれども。僕の中ではそれが十分に課題に答えられているものなのかなと、そういう気がするんですね。こういうふうに言うと栗原さんの方から反論があるかもしれないですけれども。
栗原 文学史を読みかえる研究会についてですか。
野崎 ではなくて、転向論全般について。
栗原 ソ連にそれほど我々の運動が依拠してきたとは思わないんだけれど、あれがなくなっちゃったということ、つまり現実に目に見える社会主義というものがなくなっちゃったということはこれはやはり決定的に大きいですよね。支持するかどうかは別にして。ただ、やっぱり僕はあれを変えていかなきゃだめだという立場だったから、変える対象がなくなっちゃったから相当大きかったですよ。
野崎 そうなんですね。
栗原 それで、続編はお書きになりますか。
野崎 続編のつもりで書いたのが、なにか違ったりして(笑)。本人の「つもり」とはずれたんだろうなと思っている。
九十年代の初っぱなに書いた『エイリアン・ネイションの子供たち』。あれが自分の評論の頂点だろうと思っています。同時に評論という形式の決定的な貧しさを実感しました。原理的にはわたしの評論活動というのは、あそこで終わったというように思っているんです。だから以降はあの作品をどうやって小説に書き直すかを考えています。少なくともそのつもりです。やっぱり小説でなきゃ書けないと思ったので、あれはまさしく九〇年代の体験に向き合うということですよね。それをどういうふうに形象化していくのかというのが自分の課題なのでしょう。それが単純に『煉獄回廊』の続編というよりも、同じ質量を持った小説、という意味じゃないかなと思うんですね。
八十年代はポストモダンが敵だと射程していました。後続世代に何を手渡せるのかという問題は本を書き始めたときからずっと懸案でした。それでわたしには『空中ブランコに乗る子供たち』『エイリアン・ネイションの子供たち』という著書があるわけですが、課題は充分に果たされているとはいえません。あの当時「新人類」などと差別的に話題にされていたポストモダンの若者たちが、今ではもう四十代ですよね。同じ中年という範疇に入っているのですから、隔世の感があります。子供論、若者論という分野で評論家になっても仕方がない。しかしテーマの一端は変わらずに、子供なり若者なりの体験に向き合うことだと思います。
しかし、どうしても続編というと書いた人間にとっては変に正確でない意識がつきまとうんです。例えば天皇小説として考える、みたいなところですよね。ヒロヒトを殺せというメッセージを伝えるために、曲馬館の芝居の場面をそのまま描いたところがありました。『煉獄回廊』でカットされた部分なんですけれど。さすがにそこは編集者があわてまして、これはあかんよ、このままは無理だよって。言われて気がついたんです。自主規制ではなく、カットしたのは納得づくです。それで気がついたんですけれども、芝居でやったことをそのまま書いても活字で成り立たないんですね。芝居のレベルでやってる天皇批判、あるいはヒロヒトへのおちょくり、ポルノも絡めてですね、そういったものは、芝居の現場ではワハハと笑って成り立つんだけれども、それをこういう芝居があったというので書いてもほとんど無効になる。無効というか、それ以上に活字としては品がないんですよね。品がない世界になってしまう。糞リアリズムでけっこうだと思ってましたが、活字の世界として力を持たない。かえってマイナスに作用してしまうんだと気づきました。ですから、天皇制に関しては未決のこともあるかもしれないけれど、引き続きやるのは正しくないのかなあという感じもしてます。
栗原 それは小説として、という意味ですか。
野崎 そうですね、ええ。
栗原 天皇制を批判するということは天皇をおちょくることではないわけで、それはいま言われたような小説表現上の問題をふまえて、もっと深める必要がありますね。天皇制批判ということは文学においてもけっして終わった問題ではないですから。しかしそれはまた別の機会にということで、今日はここらで終りにしましょう。どうも長時間有難うございました。
60/70年代を語る――「煉獄回廊」を中心に 聞き手・栗原幸夫
『文学史を読みかえる6 大転換期 60年代の光芒』 2003.1 インパクト出版会