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「……つまり、キチガイ病院を解体して、狂人の共和国をつくれ、いわはりまんのか。何かそないなことはロシア革命直後のメイエルホリドたらがいってたと聞いたことあります」
日置高志はいった。
「あんさん面白い意見持ってるな。過激やで。わしらより、よっぽど過激なんとちゃう。……一つだけちょっといいですか。狂人の共和国つくれというたんは、ルナチャルスキイだよ。狂人のことルナティックていうやろ。ロシアのルナちゃんの頭も過激やったな」
相手の、いかにも役者らしい甘いマスクと柔らかみを帯びた声でいわれると、説得力も格別だった。
「そやけど、あんたはわしらの芝居はなまぬるいと思たはんのやろ。所詮、アリスが夢見てた夢のなかの冒険の話やもんな。それかて、わし今日はじめてわかったんですわ。台本書きがアホな所為もありますが、患者の芝居やし、あんなもんで、目いっぱいとちゃいますか」
「芝居がポートレートで終わってしもたよね」
役者顔がいった。
「わしは気持ち良かったんですわ。記念写真撮るようなもんやけど嬉しかったんです。これ、まちごうてますやろか?」
「基本的にいいも悪いもないよ。あんたの気持ちとはべつのことや。そやけど、記念写真で終わらせたら、芝居やった意味、のうなるやろ。それが問題やねん」
「はいな」
「芝居が死んでしまう」
「いや、わしらは結構、楽しかったです。物足りないという気分でもなかったです。しかし、お話させてもうてたら、何や、ちごたんかな、と思えてきたんです。でも、ようわからんです」
「そやし、最後のフィナーレあるやろ。もっともっとようなるんや。高まっていくんや。それを途中でとめて、まとめてしまってるからあかん」
「台本書きがアホなんですわ」
わしが書けば良かった、とはいえなかった。
「ええこというな、あんさん。わし、こういう人好きや。たまらんわ。あいつは新劇野郎やで。そらまあ、外からの力借りたことで、プラス・マイナスはある。かんじんなのは力借りへんでもできたはずやということです。今日の公演で困るんは、やっぱり専門家の手助けなしでは芝居できなかった、みたいな結論を持ってしまうことです。ほんまはいらんのです」
「ちょっと待って。新劇野郎たら何ですねん」
「ド新劇のアホタレや。芝居を理論で抑圧する古いシステムや」
「アホタレいうのはその通りですな。ようわかりま」
芝居のあと打ち上げの時間になっても、大半の客は帰らずに、交歓のいっときを共にしていた。いくつかに分かれたグループは、患者と病院関係者、患者と患者の家族、成田の仲間のスタッフに大別された。そのなかで、どちらにも属さない者が、五、六名いて、異彩を放っていた。場違いというのではない。どちらかといえば、その逆で、あまりにその場にふさわしすぎる臭いを発していたのだ。かれらは、病院にはだれも知り合いがいないはずなのに、まるで主役のように座を占め、自然体にくつろいでいた。
そのなかの一人、赤鼻で分厚いくちびるから反っ歯をのぞかせた小柄な男に、日置高志は、どこか見覚えがあるような気がした。
どこで知り合ったやつなのだろう。類似品はどこにもないような、特徴のある顔だった。相手のほうも、かれに見覚えがある様子で、思い出そうとしている。
そいつが先に、少し吃り気味にいった。
「おまえ、おまえやんけ」
その一言で思い出した。
「松っちゃん。松公やないか」
この男なら懐かしいも、不思議なところで会うも、余計なあいさつなど無用だった。おまえか。おまえやないかで済む。たしかに釜ヶ崎で会ったのがさいごだった。あのとき、何という劇団だったろう、天王寺の野音で芝居をやるというのを、観にいく約束をしていた。
あのあと……。記憶はとぎれ、約束はそのままになってしまった。
「覚えてるやろ。天馬団や」
松吉は、いっしょにいる仲間を紹介した。
あっそれや。天馬団や。日置高志は、声に出さずに叫んだ。遠くから名前がよみがえってきた。何という偶然か。かれらが、ここまでやってきて自分たちの芝居を観てくれるとは。立場が逆になってしまった。
松吉は、仲間を一人ひとり引き合わす。歌舞伎役者のような美形の男、能面のようなのっぺりした顔の女、スキンヘッドで手も足も長い大柄な男、赤茶の長髪に髭だらけの顔をした眼光の鋭い男、日焼けした顔に猫のようによく動く眼をした女……。次つぎと名前を告げられても、頭には即座に入らなかった。
あのときすれ違いに終わった出会いが、病院で実現する。その僥倖に感謝したくなったが、偶然などとはいえなかったことを、かれはあとに知らされるのだった。
話がはずんでいくにつれ、天馬団に関するさまざまのことがわかっていった。
かれらは東京に住み家を置いているが、全国をテント芝居で旅してまわっている集団だった。三年前、釜ヶ崎で見かけたさいは大阪にいた。今は、ちょうど京都に公演でまわってきているときで、誠心会病院の患者による芝居の話を聞いて、駆けつけてきたというのだ。
「そら、光栄ですな。プロの役者さんに観にきてもうて。お恥ずかしいシロウトの学芸会みたいなものを」
「わしら、プロじゃないよ」
長髪があっさりいった。
――自分たちもアマチュアだ。プロになるとは、現在の演劇体制の総体を是認することにつながる。自分らは、それを拒否する。芝居でメシを食うんではない。芝居のメシを食うんだ。この違いは大きい。
さっぱり意味のわからない言い回しだった。聞きただしたいが、初歩的な質問すぎるようで気後れがした。
「似てるんだな、わしらと」
スキンヘッドがいうと、みなが大きくうなずいた。本心からみたいでも、何が、どう似ているのか、わからない。距離が測れなかった。
「似てるて何が、ですか」
「芝居の質とだな、集団もだよ」
「芝居いうても、わしらのは芸にもなってませんやろ」 「うまい下手じゃない。ぎりぎりに何か伝えんなんもの、表現せんなんこと、持ってるか持ってへんかの違いだ。あんたらにはそれがある」
「集団て、みんな患者なんやよ。患者でいることから逃れたい逃れたいと思うてる。そこは切実やけど、べつに表現したいことが他にぎょうさんあるわけやない。治りたいだけ。共通するのはそれっきりでしょう?」
「治るってなんだ」
「病院から出たいいうことです」
「いっしょだろが。精神病者を区別するのは、国家と資本の都合にすぎないよ。十字架を背負った者は、病院のなかにいようと外にいようと同じだよ」
十字架。そういう言い方もあったのか。
「わしはここに問題ありますねん」
日置高志は、側頭葉をさして悲しげにつぶやいた。記憶に混乱があると伝えたつもりだったが、相手の表情からすると、たんに頭が狂っている意味にとられただけのようだった。病院のなかでなら、みなが知っていることだが、かれは外の人間にそれをうまく説明するやり方を、自分が身につけていない事実に思いあたった。
おれは同じではない……。
「似てるて、何が、ですか」
もういちどかれは訊いた。きりつけるような口調をおさえられなかった。
「だからぁ、なんで芝居やりたいのかの原点がそっくりなんだよ。いや、まるきり同じじゃないかな。おれらが稽古で見つけようとするのも、結局、その原点に尽きるさ。それで自分を出しきったら、癒されると思えるんだな」
スキンヘッドは「癒される」と言葉に出したとき、恍惚と苦痛が同時に交差したような顔つきになった。
いきなり松吉がいった。
「伴内、東京に来いや。東京に。いっしょに芝居やろうや」
「松公、おまえ。ほんまに唐突なやっちゃな」
どうしてこの連中が、こんなに共感を示してくるのか、理解できずに、かれは当惑していた。こいつらは本気だ。だとすれば、天馬団は、いったいどんな芝居をするのだろう。テント芝居の機材をトラックに積みこんで旅してまわる集団が、まさか素人くさい芸を披露するわけではないだろう。松吉は、いつも心をひらいてくるが、このおれにかれらと呼応する何かがあるというのだろうか。何か期待されるようなことをしたのか。
それに、芝居の知識など何もなかった。ロックなら耳がくさるほど聞きまくっていたけれど、芝居のことはさっぱりだ。かんじんの天馬団の芝居を観たこともないし、そのために、話が曇り空のようにどんよりとしている。比較の件など想像すらむずかしい。
観たことがない、と告げると、松吉がびっくりしたようにいった。
「おまえ、ほんまに観てへんけ。嘘やろ」
「ほんまや。嘘ついてどないすんねん」
「天王寺で観てるやないけ」
観にいこうと思ったんや。思ったんやけど、あの日、なんやおかしうなってしもうて。それから……それから……。まだらにしか現実を思い出せんようになったんや。そやから、もしかして芝居も観にいってんのかもしれん。そんなに強くいわれたら、よう否定しよらん。嘘つきやなんていわんといてくれ。嘘かほんまか、わしにわかってたら苦労せんでええのやけれど。
説明をつなげようとしたところ、あまりに多くの情感があふれ出てきてしまって、言葉にならず、日置高志は、泣き笑いのような表情になった。
「京都公演は一週間やっているから観にきてよ」
といわれた。猫目の女だった。それで松吉の追求も逸らされたわけで、かれは、感謝の気持ちでいっぱいになった。そうだ、この機会に観ればいいことだ。前に観たかどうかなんて、たいした問題じゃなくなる。
かれはせきこんでいった。
「行きまっさ。病院脱走してでも行きまっさ」
「ええっ? 開放病棟だし、外出は自由なんでしょ」
「でもいちおう、夜間で交通機関を使うときは許可がいります。許可おりひんかったら、脱走します」
かれの気負った調子に、一同はなごやかな笑いを向けた。なかばジョークだと受け取ったのだろうか。日置高志は、その反応が不満で、言葉を継いだ。
「おたくらの芝居と似てるというても、みんな患者です。治療中の身なんや。わし、この芝居、経験して、どれだけみんなが病院に入って苦しい想いしてるのか、病気いうもんがどれだけ耐えがたいのか、ようわかるような気がしました。芝居したいて、精神病者がそんなことできるのも余裕があるからや、とか思われがちです。そやけど、それは逆です。余裕がないからぎりぎりんところで芝居に駆り立てられたんです」
くりかえしだったが、構わずにいった。
それだ、そこがわしらと同じなんだ。とスキンヘッドが合いの手を入れたのが、かれを苛立たせる。
「気ぃ狂うかわりに芝居したんです。キチガイになりとうないから芝居したんです」
「ほんとに、わしらもそうだよ。狂気と正気の境目を綱渡りしとるんだよ」
違う。こいつはわかってない。
「わしらは病院にいるキチガイです。病院の外にいるあんたみたいなキチガイのことは知りまへんわ」
スキンヘッドの身体が怒りでふるえたのが見える。喧嘩したろか、かれはやみくもな衝動が内部にたぎってくるのを感じとった。しかし相手の握りこぶしはふつうの倍ほどあり、シャツをもりあげている力こぶはメロンのようで、一発でひねりつぶされるのは目に見えていた。 「わしらがいってんのは、比喩的な意味だよ」
スキンヘッドをそれとなく牽制するように、長髪がいった。能面の女が強くうなずく。
かれは叩きかえすように答えた。
「わしは比喩みたいな上等なもんわからんのです」
苛立ちをおさえられない。こいつらきれいごとばかり並べたてやがって……。
「上等だと、この野郎……」
スキンヘッドが立ちあがりかけるのを、左右から長髪と猫目が、のしかかるように押さえた。利き腕らしい左腕をロックするように決めあげている。
日置高志は、それではおさまらなかった。顔をゆっくりと近づけた。頭突きされたら頭をへこまされてしまいそうなスキンヘッドだった。恐怖はない。止めるやつがいなければいいと思った。
「もういちどいうといたるわ。わしの頭は三年前で記憶が止まってもうとんねん。現実にあったこと、きちんとストックでけへんのや。三年前のこともすきまがありすぎて、三日前とおんなじなんや。そやし、わしが何より嫌いなんは、ほんまもんのキチガイと、知ったかぶりでキチガイを気取るアホタレじゃ」
記憶が停止しているというのは、正確ではない。だがかんたん直截に説明しようと思うと、そんな言い方になってしまう。嘘ではないけれど、真実でもない。
しかし今の言葉がかれらのうちに或る変容をもたらしたことだけは確かだった。何がどうはたらきかけたのかは不明のままだった。
思い起こしてみれば、このとき、かれは何かの一線を越えたのかもしれない。天馬団との関係でいえば、戻り途をなくしたのだ。
スキンヘッドが全身の力を抜くのがわかった。
「よおし、おまえをぶん殴るのは次の機会まであずける。芝居、観に来いよ。ガタガタいえんようになるよ」 役者顔が、また話題を転じてきた。
「そやったら、あんさん、三年間、空白やったとしたら、こういうことも知らんのやろな」
不思議と安心させるような柔らかい口ぶりだった。教えてやる、といった押しつけがましさもない。ひょっとしてこの男はおれのことを理解してくれているのか、と有りえない錯覚すら起こさせるところがあった。
そのときかれは、初めて船本洲治の名前を知らされた。東アジア反日武装戦線・狼部隊による三菱重工本社ビルの爆破事件についても聞かされたが、ニュースでも大きく報道されたこの事件については、さすがになんどか耳にした記憶が残っていた。沖縄で焼身決起したという船本のことはまったく知らなかった。
「コーちゃんは、釜の活動家やってん」
松吉は、船本の愛称を親しげに口にした。
釜ヶ崎で暴力手配師を追放する活動についていた船本は、愛隣センター爆破容疑をデッチあげられて、全国指名手配の身になった。沖縄まで流れて、嘉手納基地ゲート前で焼身決起したのは、つい最近のことだという。
役者顔はよどみなく、船本の闘いについて語った。
「焼身決起でっか。燃えたんでっか」
日置高志は臆したようにいった。
かれの脳裏の奥の奥に、燃える男の像が浮かびあがる。どこでだったか。そう、東大路の歩道、西部構内のすぐ横のところだった。行方未知のしぼりだすような言葉が……。わたしたちの、時代が、処刑、されている。
燃えたんですか。自分で燃やしたんですか。なんで燃やしたんですか。自分を罰すためですか。自分を許せへんかったんですか――。虚ろな口ぶりで、日置高志は訊いた。
自分で罰したんやないよ。
身代わりになったんや。
あとをおれたちに託したんだ。
よくわかりまへんわ。
「あのな」役者顔が声をあらためた。「天皇を死刑にするかわりに、自分の生命燃やしたんや」
わかりまへんわ。自分を燃やすことで天皇に炎がとどくんでっか。
「コーちゃん個人は、追いつめられてもう何もできんようになった。逃亡するのも限界やった。自らを殺す闘いで決起するしか方法がなくなった」
「自らを殺すのんが闘いになるんでっか」
「敗北やないよ。自分の主体というのは、殺すことによっても生かせる」
「殺すことによって生かす、て詭弁やないですか。殺したらもう生きひんのと違いますか」
「ちがうよ。自分を殺すことで、天ちゃんを燃やせ。焼き殺せ。処刑せよ。といいおったんや」
「天ちゃんて、だれでっか」
「怖れ多くもかしこくも天皇やないけ。在位五十年の陛下でおわしまするやんけ」
役者顔は、いっそう芝居がかった身振りでいった。
「天皇を? 処刑する?」
唖然として、日置高志はいった。
そんなことは考えたこともなかった。
「そや」
芝居、観にこいや、芝居。そしたらわかるわ。天皇を処刑する芝居、でっか。口をあいたまま、かれはいう。そやねん、だから。と、役者顔は、表情を引きしめた。
「あんたらの芝居にやね。ちょっとだけええやろか。ちょっとだけ注文つけさせて欲しいねん」
――あんなふうに、天ちゃんやミッチーに屈折なしで同化したらあかんよ。その人間の主体のやね、生きてきた全体いうもんがあるでしょ。それと芝居の虚構の人物との葛藤があるやないですか。それをもっと突きつめて、もっと矛盾をバァーッとさらけ出して欲しかったな。
こいつらまともじゃない。日置高志は思った。いいたいことはわかる。キチガイならキチガイらしい芝居をせい、といっているのだ。おまえたちはキチガイのくせにまともすぎるんだ、というわけだ。こいつらキチガイでもないのに、ずっとキチガイじみたやつらだ。
大変なことになる、と思いながら、抗しようもなく、かれらに魅かれていくのを感じていた。