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 久しぶりの東大路だった。日置高志は、百万遍で市電を降り、交差点を渡って西側の歩道に足を運んだ。風景はどこも変わっていない。
 大学の本校舎がある東側は、ひっそりと威嚇的なたたずまいに眠っている。向こうには山並みが地平線から生えた壁のように立ちはだかっていた。大通りをはさんで東と西とは、王宮とスラム街ほどの違いがある。とくにそれは西部講堂のところで極端にきわだつ。遮蔽もなく、かんたんに乗り越えられる破れた金網のフェンスだけが仕切りになっている。建物は古ぼけたものばかりで、広場は整地もされていないでこぼこの地面だった。
 通りを市電が、がたんがたんと走っていく。まるでコースを完走しあとの長距離ランナーが苦悶によろばっているように見える。音だけはジャンボ・ジェット機並みでも、スピードは人間の歩行より少し早いていどだ。
 ここで車輌が燃え、催涙弾がとびかい、血が流されたことをついこないだのように思い出すわけではない。もうかなりの時間が経過したことはわかっていた。そのことは絶えず自分にいいきかせておく必要があると自覚していた。正確な尺度で測らなければやっていけない。でなければ自分がなくなってしまうのだ。
 すっかりとこのあたりも静かになったのか、静かさはあくまでうわべだけのことなのか、判断できない。学生たちが行き交う道は、平和そのものに感じられた。
 平静さは有難かった。久しぶりの外出で、しかも病院からは離れている。昼下がりから夜の時間にかけて、バスと市電を乗り継いで遠出するのは初めてのことだ。初めて? かどうかはわからない。考えると辛かったが、頭から振り切ることはできなかった。自分にはそれほど昔のこととは思えない。けれど、昔のこととは思えないという感情そのものが当てにならないのだから、基準をどこに取ればいいのか、いつも決まって悩まされた。時を重ねる方法だけでなく、どうやって重ねてきたのかという思い出すらも、かれは喪ってしまったのだ。
 西部構内のみすぼらしさは、もともと古ぼけていたので、時間の堆積を映していない。いつか来たことのある風景にまた立ち会わされる。いつ来てもここには同じ風景があり、だとすれば、昔か今か、どの時間にここに来たのかは意味をなさない出来事になってしまう。時間を特定しようと努めることは、無為に帰するのだ。――そう考えてみたからといって、少しも安心できるわけではなかった。
 構内広場の中央に、黄色いテント地を貼り合わせたような、三角錐のテントが建っていた。金網のところから原色の旗が何本かひるがえっている。芝居小屋のまわりに満艦飾ののぼりが立つ光景には遠いが、いかにも芝居の気分をもりたててくれるようだった。
 [月狂叛乱者のオペラ] それが題名だった。
 まだ開演時間にはだいぶ間があった。
 日置高志は、突然、胸を熊手でかきむしられるような痛みをおぼえた。
 ……ここで前に、幻夜祭という祭りがあったとき、かれは行方未知と羅門と連れ立って村八分のライヴを聴きに行ったはずだった。それはありえない記憶だったのか、それともあったことの残滓なのか、あるいはこうあってほしい願望の身悶えするようなまぼろしにすぎないのか。わからない。かれはその場面をほんとうにあったかのようにまざまざと思い出すことが何度もあったのだった。まざまざと思い出すのは、じっさいにそのことを経験しているからなのか、それともありえない記憶がぞっとするほどの身近さに肥大していったのか、あるいは、あまりにそうした出来事をあってほしいと望みつづけた成果なのか。どちらなのか決してかれにはわからなかったのだ。決してわからないということが、どれほど苦しいかだけは骨身にしみた。苦しみはいつも同じ強度でかれを訪れ、慣れることはできなかった。
 広場を白い馬が疾駆して行った。いつだったか。
 あれはまぼろしなのだ。
 と、いったんは否定したことがあった。いったんは否定したことがあったが、否定した己れの根拠そのものが疑わしかったのだから、否定は問題にならないのかもしれない。ではいつだったか……。そうだ、西部講堂の屋根に三つの星が描かれたときだった。それ以外ではない。しかしそのとき三人は何をしていたのか。近くにいたのだろうか。そもそも近くにすらいなかったことをかれは知っているはずだ。知っていることを認めるのは耐えがたい苦痛だった。
 まだおれは外出できるような状態ではないのだろうか。精神の穴ぼこがいたるところで、かれを待ちかまえているようだった。目の前の金網フェンスさながら、いたるところに破れ目がある。現実だけを見ろ、かれは自分に何度目かの指令を与えた。
 すると新たな不安が湧いてきた。時間が余っている。数時間の余裕をもって病院を出てきたので、何をするにもあてのない空白のときが目の前にできてしまった。たしかこの前、大阪では、待機の時間が長すぎたせいで、そのあいだに何か変化が起こって、結果として観に行けなくなった。あのときは何をしたのだったか。大事があったのではないはずだが、機会を逸することになった。今日も二の舞をしないだろうか、と心配になる。不安は現実のもの以外ではなく、逃げられそうもなかった。
 気味の悪いほどの循環だった。おれには、数年間の時間の堆積が何の意味もなさないのだが、それだのに、目の前の数時間をどうやって埋めるかという決断ひとつが、持ちこたえられない難問として迫る。一歩踏み出すと、下手をすれば、また何年間かの時間を滑り落ちてしまうのではないか。いや、そうに決まっている。恐怖が不機嫌な泡になって喉を締めつけてくる。
 ……かれを呼ぶ声が近くから聞こえた。
 「おまえ、来たんけ」
 松吉の不審そうな顔がすぐそばにあった。上目使いに小さな目を見開いている様子には、どこか戸惑いがある。傍目にもおかしいほど放心していたのだろうか。とにかく、救われた想いでかれはこたえた。
 「来たで。来ましたで」
 今、この男に、自分の感じている不安を伝えたらどうなるだろうか。ふと日置高志は思った。もし正確に言葉で表わすことができたとしてだが、この男は理解してくれるだろうか。首をふってかれはその想念を打ち払った。たとえ正確におれが言い表わしたとしても、こいつにはわかるまい。いや、だれにだって理解できるはずがない。どだい、こんな心の空虚を正確に表明すること自体がとんでもない不可能事なのではないか。
 「飯食うてけや」
 松吉はいった。
 「メシ?」
 芝居と食事とがセットになることが呑みこめずに、かれは聞きかえした。
 松吉が説明するには、劇団にとって飯を食うことは重要な作業だった。テント芝居のためにトラックで移動しながら、炊事から洗濯から日常生活のいっさいがっさいを集団で支えるわけだから、飯を食うこともたんなる食事にとどまらない共同の仕事なのだ、という。説明はうまく理解できなかったけれど、要するに、いっしょに食べろといっているのだ。
 かれは遠慮したが、一人分くらいは余分があるから食べていけ、と松吉は一人合点で保証する。まさに余分があるかどうかの心配にも頓着しない。食事時間に近いらしく、妙にはりきった様子をみせていた。いわゆる先輩風というやつだと、かれは納得した。
 松吉はぱたぱたとスリッパの足音をさせながら、食事当番のところに先導する。今日は露人が当番だと告げるが、かれは露人という男にはまだ会ったことがないので、ロジンてだれや、ときいた。
 「天馬団の代表や」
 「大将は、鬼首たらいうたんとちゃうのか」
 「公式には、露人が代表や。台本と演出やしな」
 ふつうの劇団なら演出家はもっと身分が上の扱いをされているのだろうに、偉いやつでも食事当番をするのか。かれは口には出さずに、感心した。飯の食い方のスタイルにも、こういう平等さが徹底して追求されていることが気に入った。
 テントの横のほうに炊事場らしき一角がつくられていて、女二人に男一人が作業している。プロパンのこんろに鍋がかけられているのと、ブロックを並べたかまどに薪が燃やされ、二基の火口がセットされている。そこに置かれた大きな寸銅鍋から米の炊きあがりのうまそうな匂いが漂ってきた。そのとなりの中華鍋ではおかずを調理中だ。忙しくはたらいているのは女のほうで、男はぼんやりと放心したように立っているだけに見えた。
 「露人んーっ」
 「なんじゃい、松」
 男はふりむいて、ほっとしたように表情をゆるめた。芝居の人間にしてはずいぶんと繊細に見えるが、かといって台本作者にありがちな青白さには縁遠かった。柔らかいまなざしの奥に底深い力がみなぎっていて、視線の向いたところを焼き焦がすかのような激しさは、天馬団の人間の共通項なのだと気づかされた。
 威勢よく呼びつけたわりに、にわかに松吉は小声になって早口で用件を伝えはじめた。かれのほうには何をいっているのか、聞きとれない。一区切りして、松吉は念押しする。
 「な、いいだろう」
 かなりに哀願の調子が入っていた。かれはあくまで客で来た者だし、異例のことになるのか、劇団のほうに食事する人間が予定外に増えたというような事情があったのかもしれない。露人は困ったような渋い顔になって松吉を見かえした。
 「むー、今日はなあ……」
 女の一人がぶっきらぼうにいった。
 「松ちゃん、無理だよ。飛び入りが多すぎる」
 頭に手拭いを巻いて、汗の光る顔を向けた様子は、役者というより、野外キャンプの指導員みたいだった。
 「わかってるよ。そやから頼んでるんじゃないの」
 「あんたのぶん、半分わけてやるんならいいよ」
 この場は仕切っているという明快な答えだった。
 「げっそり」
 松吉は一言残すと、テントのなかに入っていってしまった。日置高志は、居場所をなくしたように途方に暮れる。手伝いましょうか、というのも何か場違いすぎる。露人が、病院のほうの芝居に観に行けなくてごめんなさいと、声をかけてくれた。深みのあるバリトンで包容と拒絶との広々とした振幅を感じさせる豊かな声の質だった。興味を持たれていたことが嬉しくて、かれも言葉をかえそうとした。
 そこに、手拭い頭の女が、話はあとにして食事の用意を優先させて、と注意した。嫌味のないさばさばした口調に、露人は、叱られた生徒のように、はいはい、と従った。仕方なく、かれはその場を離れ、テントのまわりをぶらぶら歩くことにした。
 強いていうなら空腹を感じないでもないが、通りまで引き返して何かを食べに行こうとも思わなかった。病院の食事に飽きてしまっていたから、外出の楽しみにはいつも何かうまいものを食べたいという欲望が混じっている。欲求を満たそうとすると、この空間から、ふたたび遠く遠くにはぐれて行くような気がした。
 この空間。この空間だ。今、手にしなければ、あっという間に崩れ去ってしまうような気がした。
 ああ、なんていう実在なんだろう。おれは盲目のまま愚かさに囚われて漂っているだけだ。何も喪うものはないほどに喪いきって、喪ったものを数えることすらできないできた。女を喪ったが、喪ったことで引き換えに得たものなど何もない。女を喪ったことによって、他のさまざまのことも喪ったのだ……。
 「伴内、伴内」
 遠くから呼ぶ声がした。
 松吉だった。
 「飯食おうや」
 「メシて? 足らんかったんやろ。わしはええで、ほんまに。飯くらい他で食うてくる」
 「だからぁ。ガラが体調悪いし食べへんいってるんや。本番の前やし緊張して食べられへんことある。無理して食うとあとから吐いたりするし。役者は時間になったら神経がぴりぴりしてくるねん。そやし余ったぶん食べるのにだれも文句ないやろ」
 ガラという役者がだれなのかも知らない。松吉はすぐに食事を抜く者を捜してまわったらしい。ほんとうに食べられない体調なのか、それとも、松吉が何か交渉したのか、ということまではわからない。かれのために世話を焼いてくれたことだけは疑いようがなかった。
 「ほやったら……よばれるわ」
 「一宿一飯やろ」
 身に暖かいものがこみあげてきた。こんなふうにまっすぐな好意を示されることは、かれの人生で絶えてなかったのだ。これが一宿一飯なのか。
 招かれたテントのなかでは、二十人ほどの男女が食事を始めているところだった。松吉が一同に紹介した。多羅尾伴内や、『夜の国のアリス』に出た――。食器は病院で使い慣れているメラミン製のものだった。深皿の片側にごはん、その横に野菜炒めが盛られただけで、見てくれもあまりよくない。食欲をそそられるわけでもなかったが、心はかつてないほどにぬくもっていた。おれは受け入れられたのだ、飛躍した期待だったとしても、そう思わずにはいられなかった。
 すわって一口ほうばってとなりを見ると、スキンヘッドと目があった。
 「ヨッ」
 遺恨など忘れたかのような懐かしそうな顔つきだった。かれもあいさつを返した。